邪馬台国論争 「漢委奴国王の金印 ②」

 

 

【 序 】

後漢書に「建武中元二年に、朝貢に訪れた倭の奴國の使者が、光武帝から印綬を賜った」とあり、通説では現在の福岡市の志賀島で1784年に発見された「漢委奴国王」の金印が、この印綬だとされます。ここでは、この金印のつまみ(鈕)に着目してみます。

 

撮影 神戸メリケンパーク 画像と記事は関係ありません

 

【 金印のつまみ 】

<蛇の形>

金印のつまみには、次の特徴があります。

  • つまみは「蛇がとぐろを巻いて頭を印の中央部へ向ける姿」をしている。いわゆる蛇鈕である。
  • この蛇鈕は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものだされる。

中国の皇帝が、朝貢してきた国に贈る印のつまみは、「北方異民族に対しては『ラクダ』、南方異民族に対しては『』、諸侯、中央貴族に対しては『亀』だとされます。「漢奴国王」の金印は蛇鈕ですので、金印は南方系異民族の国に対して贈られたものであり、中国の東に在る日本に対するものではないと考えられます。この事は奴国が日本ではない可能性を示しています。

 

<元々は駱駝の形>

金印のつまみの形状は、「駱駝の痕跡を残しつつ、それを蛇に改造した」という特殊なものだと考えられています。これをどう解釈するのか?ですが、奴国は元々は北方の国(駱駝)で、その後に南に移動した国(蛇)だと考えれば説明できます。

 

過去記事の大月氏国に注目してみると、大月氏国(後のクシャーナ朝)は、三国時代には北方の三大勢力(月氏、匈奴、東胡)の中の月氏だったとされます。それが隣国の匈奴の侵攻により西へ逃れ、最終的に中央アジアから北インドにわたる大国であるクシャーナ朝を建国します。改造された駱駝のつまみは、もともとは北方の国でありながら、中央アジアから北インドに逃れた大月氏国(クシャーナ朝)を象徴するものとなり得ます。そして奴国を南洋諸国のクシャーナ朝に属する一国だと仮定すれば、それは蛇鈕となります。

 

撮影 神戸三宮 画像と記事は関係ありません

 

結論としては金印を贈られた奴国とは、北から逃れたクシャーナ朝に属する南洋諸島の一国であり、そのことは潰された駱駝(北を逃れた月氏=クシャーナ朝)を元に作られた蛇鈕(南のクシャーナ朝に属する国)によって象徴的に示されている様に思えます。