邪馬台国論争 「漢委奴国王の金印」
【 序 】
建武中元二年(西暦57年)に、倭の奴国は光武帝より印綬を賜りますが、この印綬になんと彫られていたのかは分かっていません。過去記事で倭の奴国とは、日本にあった国ではなく、大月氏(クシャーナ朝)に属する国であり、実質的には印綬はクシャーナ朝の初代君主であったクジュラ・カドフィセス(丘就卻:在位40-80年頃)に贈られたものであったと措定しています。
一方、1784(天明4)年に博多湾の志賀島(しかのしま)で「漢委奴国王」と彫られた金印が発見されており、通説ではこの金印が、倭の奴国が光武帝より賜った印綬だとされます。
もし上述の措定(倭の奴国がクシャーナ朝に属する国であったという仮説)が正しく、かつ「漢委奴国王」の金印が、倭の奴国が光武帝より賜った印綬だったとすれば、それは倭の奴国が日本に渡来し、金印を何かの理由(目的)で志賀島に埋めたことを意味します。
以上を念頭に置いて、「漢委奴国王」の金印について考えてみたいと思います。
撮影 神戸どうぶつ王国 画像と記事は関係ありません
【 「漢委奴国王」の読み方 】
「漢委奴国王」は一般的には、「かんのわのなのこくおう」と読まれています。ここでは「委」は「倭」の略字であると解釈されます。しかし次の疑問が生じます。
- 「倭」というそれほど複雑でもない漢字に、略字「委」を使う必要があるのか?
- 「漢委奴国王は『中国王朝名+民族名+国名+官号』に分割できるが、中国の古代の印章のなかに『民族名+国名』の構造をもつ印章実例を一つも見いだしえない」という見解がある(wikipedia)。
その他には「漢委奴国王」は、「かんのいどこくおう」と読むという説があります。ここでは「委」はそのまま「い」と読み、「委奴国いどこく」は「伊都国いとこく」のことだと解釈されます。この説に関しては、次の疑問があります。
- 倭人伝関連検索サイトでの、「委奴」の検索では1件もヒットせず、委奴という国の存在自体を確認できない。
- 「『委はワ行のゐ、伊はア行のい』であり」、「明治以前の日本語の発音では『委奴』と『伊都』は、発音が同じではないので置き換えが可能であったはずがない」という否定論がある(Wikipedia)。
以上から「漢委奴国王」の読み方は、委を倭の略字と考え「わ」と読んでも、委をそのまま「い」と読んでも、疑問が生じてくることが分かります。しかし「委」を「ゆだ(ねる)」と読めばこれらの矛盾は解消できる様に思えます。
- (金印)+漢委奴国王 ⇒ (金印を)かんは なこくおうに ゆだねる
この場合だと、生じてくる疑問は「金印を委ねることの意味は何か?」ということになるかと思います。できれば次回以降の記事で書きたいなと思っています。
撮影 神戸どうぶつ王国 画像と記事は関係ありません