邪馬台国論争 「3つの印綬」 

以下、過去記事とかなり重複しています。

また、全て推理推測に基づく仮説である事をご了承ください。

 

 

【 倭とクシャーナ朝 】

定説では親魏の称号と金印は、次の2回贈られています。

1つ目は、229年に大月氏王波調に贈られています。ここでの大月氏王波調は、クシャーナ朝のヴァースデーヴァ1世(在位182頃-230頃?)の事だとされます。

癸卯、大月氏王波調遣使奉獻、以調爲親魏大月氏王(三國志卷三)

2つ目は、238年に卑弥呼に贈られています。もし1つ目と2つ目に連続性を認めるならば、2つ目を贈られた卑弥呼とは、1つ目を贈られたヴァースデーヴァ1世の後継のカニシカ2世(在位:230頃-247頃?)だと考えられます。

 

また、これらから類推すると、建武中元二年(5657年)に漢の光武帝から印綬を贈られた倭奴國とは、クシャーナ朝の初代君主であったクジュラ・カドフィセス(丘就卻40-80年頃)であったと考えられます。まとめると次のようになります。

 

  • クジュラ・カドフィセス(丘就卻 40-80年頃)・・・5657年の漢の倭奴國の印綬(通説では志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印)
  • ヴァースデーヴァ1世(波調 182頃-230頃?)・・・229年の親魏大月氏王の称号と金印(未発見)
  • カニシカ2世(卑弥呼? 230頃-247頃?)・・・238年の親魏倭王の称号と金印(未発見)

撮影 神戸どうぶつ王国 画像と記事は関係ありません

 

【 親魏倭王 】

以下親魏倭王の称号と金印について考えてみます。

景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月詔書報倭女王、曰「制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利、奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬三國志卷三十より引用)

 

対訳は省略しますが、概ね「景初二年(238年)に、魏の皇帝が倭の女王卑弥呼に、親魏倭王の称号と金印紫綬を与えた」ことが書かれています。引用文の中に「所在踰遠」という言葉があります。「踰」は「こえる、わたる」の意味で全体としては「汝(卑弥呼)の所在は遠いという表現を超えているとなります。もし倭が日本だとすると、魏の都・落陽から九州の西端までは、正確ではありませんが直線距離で約1600km(魏の東岸からだと約900km)ほどです。この距離を「汝所在踰遠」と表現するにはあまりにも近すぎて、不自然なように思えます。また親魏と言った国名の付いた「王」の称号は非常に高位で貴重なものだとされます。238年(弥生時代末)当時の日本は、西の大国であったクシャーナ朝と比肩できるような大国だったのだろうか?という疑問がでてきます。もし倭が南洋諸島の幾つかの島であったとすると、落陽から見ればそこは「汝所在踰遠」と表現することは不自然ではありません。卑弥呼とはカニシカ2世が政治的思惑から、倭国(南洋の幾つかの島々)の中に擁立した宗教的な女王で、実体としてはカニシカ2世そのものであったように思えます。

 

撮影 神戸どうぶつ王国 画像と記事は関係ありません

 

【 記紀の中のイラン系国家 】

上述の措定は、過去記事で見た記紀の中に垣間見えるイラン系国家を前提としています。以下過去記事の一部を纏めてみます。ポイントの一つは"444"かな?と思います。

  • オオゲツヒメ ⇒ 大月姫 ⇒ 大月氏国
  • Yamatanooroti(八岐大蛇) ⇒ Iran Too Yamato ⇒イランもまたヤマト
  • Yamatanoorochi(八岐大蛇)⇒ Yamato Iran hoco倭 イラン 矛
  • Kushinada(クシナダ) ⇒ Aid + Kushan 
  • Matsura(末盧國:ヘボン式) ⇒ Sumatra(スマトラ)
  • Matura(末盧國:訓令式) 412   444      74
  • Mathura(マトゥラー) カニシカ王が定めた、宗教都市で「神々のまち」として知られる副都の名前
  • Inari(稲荷) ⇒ Irani(イランの出身者)
  • Kanishka(カニシカ)169  444  74
  • Kushan(クシャーナ)349 444  74
  • Mukti(ヒンズー教・仏教の解脱)349 444  74
  • Nara +no + shika(奈良の鹿) Iran no Shaka ⇒ イランの釈迦
  • Narayama(奈良山)⇒ Ramayana(ラーマヤナ)