宮沢賢治 その20 「ジョバンニはなぜ銀河鉄道に乗れたのか?」
【 中有の旅 】
銀河鉄道の意味に関してそれは「中有の旅」であるという見解をネット上に観ることができます http://oryzajpn.com/archives/7643255.html 。
中有・・・死んでから次の生を受けるまで=死有と生有の中間。
私も概ねこの見解にそった考え方をしていますが、そうすると問題が一つ残ります。ジョバンニのモデルを宮沢賢治だと措定したとき、この時点では賢治は生存していますので、ではなぜ賢治(ジョバンニ)は銀河鉄道に乗れたのか?という疑問です。その答えのヒントは賢治が設立した「羅須地人協会」の「羅須」という言葉の中にあるように思えます。
2019.11.25 西宮戎神社
【 羅須地人協会 】
<羅須地人協会が設立された場所>
農学校を退職した賢治は、農民たちを集めて農業技術や農業芸術論などを講義するために1926年に羅須地人協会を設立し、1928年に病気になるまで、この建物で自炊生活をしていますhttps://www.kanko-hanamaki.ne.jp/spot/article.php?p=134 。
問題はこの羅須地人協会が設立された場所が、妹の宮沢トシが結核に冒されて亡くなる8日前まで療養所として使用していた、宮沢家の別宅(花巻川口町下根子桜)であったということです。賢治はこの別宅の1階の10畳を集会場に使える近代的なリビングに改造の上、羅須地人協会として使用していたということのようです(以上wikipedia羅須地人協会 参照)。
<羅須地人協会の名前の由来>
羅須地人協会の名前の由来には諸説あるようですが、具体的には次のサイトにいくつかの説が掲載されています。https://sakunami.exblog.jp/5142375/
賢治はこの下根子桜の宮沢家の別宅で、妹トシの病が深まり死の影が忍び寄ってくるのを、身を持って感じつつ耐えがたい気持ちをこらえながら、介護に尽力していたのではないでしょうか?一言でいえば賢治は「心情としてはトシの死に立ち会うことに耐えられなかった」のではないでしょうか?
これらの状況を踏まえて「羅須地人協会」の「羅須」の由来を考えるとき浮かんでくるのが釈迦の最後の弟子スバッダ(須跋陀羅)です。スバッダは「仏が涅槃に入るのを見るのが忍びなく、先に般涅槃した」と言われています。賢治は自らの心境をこのスバッダに重ねていたのではないでしょうか?つまり賢治は妹トシの死に立ち会うことに耐えられず、先に宮沢賢治という「我」を自ら滅したのではないでしょうか?そしてトシの死後、トシが療養した場所を羅須地人協会と命名し、宮沢賢治ではなく「無我の菩薩」として、人々のしあわせのためだけに尽力したのではないでしょうか?
結論を書くと、「羅須地人協会」の「羅須」の由来は釈迦の最後の弟子スバッダ(須跋陀羅)であり、ジョバンニ(賢治)が銀河鉄道に乗れたのは、須跋陀羅が釈迦の涅槃を見るに忍びなく釈迦より先に般涅槃したように、宮沢賢治自身もトシの死の前にすでに自ら(宮沢賢治という我)を滅しており、そこに残ったのは涅槃の境地に達した菩薩の姿だったからではなかったのでしょうか?