近々イスタンブールへ行くので、懐かしい写真を引っ張り出してきた。
そう、大昔の写真があったはず…。

大学を卒業してすぐには就職せず、秋からスペインの大学へ通うことになっていたので、その期間を利用して父と二人で4週間の旅へ出た。

当時は成田から欧州直行便というのはなかったので、一番早かったけれど安かったアエロフロート便で、モスクワのシェレメチェボ空港を経由してイスタンブールへ。経由といっても、外国人は3時間待たされた挙句、旅券を回収されバスに乗せられて、ホテルとは名ばかりの怪しげな建物へ監視されながら連れられて行く。オレンジ色の街灯は頼りなく、暗い道を行く。不安…。部屋はビジネスマンらしい男性とシェア、鍵は一つのみ。父に鍵を渡したその方はジェントルマンで良かった。夕方に着いたにもかかわらず、食事が出るわけでもなく、結局次の日の朝、空港へ出発する前に食堂へ集められて、簡単なビスケットと紅茶が出てきただけでした。お腹が空いて眠れなかった父は、こっそり部屋を出て、はじめに見つけた居酒屋のような場所でウォッカとクラッカーを数枚、米ドルで支払ってありつけた模様。少しロシア語が分かったようだけれど、それにしても勇気あるというか無謀というか。

そんなアエロフロート便でついた先はイランのテヘラン。日系商社に勤める父の学友を訪ねて行く。テヘランに来るヨソ者は珍しいらしく、日本国大使夫妻がホームコンサートを開いてくださり、大使自ら奥様とピアノ連弾を披露し、父のフルートの伴奏までして下さった。イェメン日本大使や商社の駐在員の方達が集まって、公邸料理人のおいしい和食でのおもてなし。テヘラン市街の、あの騒然とした雰囲気からはまるで別世界を経験させて頂きました。日本人向けに日系会社がお金を出し合って作った社員食堂のような場所にも連れて行ってもらいました。会社や役職は違っても、日本人同士一緒に頑張りましょう、という強い連帯感を感じた記憶。
テヘランのイメージはグレー。どこへ行ってもなんだか哀愁感が漂っています。バザールに売られていた女性物の金銀キラキラ光る衣類や装飾品だけが不釣り合いに派手で、違和感を覚えたのを覚えています。町中で見かける女性たちは真っ黒なヒジャブなのにね。



次に訪れたのがイスタンブール!
テヘランの後だったので、それはそれは物資の溢れる自由な国に思えました。まだ当時は観光客も多くはなく、モスクもバザールも、混み合うこともなくのんびり見学できました。アヤソフィアに入る時も、スカーフをしなくてもオッケー。アタトュルク時代にモスクから博物館になってたのに。今年から再びモスクになった現在はスカーフ必須だそう。入場料も25€だとか。時代は変わるのだな…




イスタンブールでも父のトルコ人と日本人の知り合いを二人ほど尋ね、そこから今度はエジプトのカイロへ。そこにも父の旧友がいたのでお世話になる。
今度は陸路でイタリア(フィレンツェ、ローマ)からスペイン(バルセロナ、ヴァレンシア、マドリード、セビリア)へ列車旅するのだけれど、ハプニングあり楽しいことありの連続で、忘れないうちに書き留めておきたかったけれどももう40年近く経ってしまった。
今回イスタンブールへ行くことで、写真を見ているうちに色々思い出してきた。旅日記も実はつけていたので、今度読み返してみようと思う。古い書類ケースの中から日記を見つけはしたけれど、勇気がなくてまだページを開いていない。


↑サグラダファミリアの塔がまだ少ない気がする。

もちろん並ばないでいつでも入れた…

現在は時間指定制のチケット予約しないと。

のんびりとした時代でした。


プラド美術館ではゴヤの作品が衝撃的だったなぁ。

ちょうど堀田善衛の「ゴヤ」を読み終わったところだったから、尚更。

ベラスケスのラスメニーナスが思ったより巨大でびっくり…やっぱり自分で見て確かめないと。


丸4週間いたけれど、驚くほど写真は少ない。

それもそのはず、当時は36枚どりフィルムを4本くらいしか持っていかなかったからね。

失敗写真もたくさん。

今じゃ、1週間旅したら2千枚くらい撮ってるよねぇ。


ありゃありゃ長くなっちゃったね。

思い出ぼろぼろ、
歳とってきた証拠ですな、
あしからず〜😙🙏