昭和天皇と水際撃滅による本土決戦 | 旗本退屈女のスクラップブック。

 

西村眞悟の時事通信

 

平成29年4月30日(日)

昭和天皇の誕生日の翌日、
やはり「昭和天皇と本土決戦」のことを書いておきたい。
その上で、末尾に、
戦後という時代が始まるに直前まで、
大将から兵卒に至るまでの全ての兵士が
何を決意したのかを知るための絶好の一書を諸兄姉に薦める。
歴史を回復し、
日本を取り戻すために、
必読書と思うからである。


まず戦争に臨む二人の人物の言葉を記したい。

(1)私が一瞬でも、交渉や降伏を考えたとしたら、
諸君の一人一人が立ち上がり、私をこの場から引きずり下ろすであろう。
私は、そう確信している。
この長い歴史をもつ私たちの島の歴史が、
遂に途絶えるならば、
それは、我々一人一人が、自らの流す血で喉をつまらせながら、
地に倒れ伏すまで、戦ってからのことである。

(2)戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、
戦はずして亡国にゆだねるは、身も心も民族永遠の亡国であるが、
戦って護国の精神に徹するならば、
たとい戦いに勝たずとも、祖国護持の精神が残り、
我らの子孫はかならず再起三起するであろう。
統帥部としては、先刻申したとおり、
あくまで外交交渉によって、目的貫遂を望むものであるが、
もし不幸にして開戦と決し、
大命が発せられるようなことになるならば、
勇躍戦いに赴き、最後の一兵まで戦う覚悟である。

(1)の言葉は、
昭和十五年(一九四〇年)五月二十八日のイギリス議会における
首相ウインストン・チャーチルの演説である。
この時イギリス軍は、
一万の戦死者と三万の捕虜をだしながら
ドイツ軍にフランスのドーバー海峡に臨むダンケルクまで追いつめられ、
イギリス本土からは、
あらゆる漁船からレジャー用ヨットそしてボートまでがドーバー海峡を渡り、
ダンケルクの海岸からイギリス軍兵士を救出していた。
この時、イギリス政界にはナチスドイツの工作活動によって、
ドイツと「話し合おう」という有力な勢力があった。
しかし、チャーチルは、議会で断固としてイギリスは戦うと宣言した。
そして、伝記作家は次のように書いている。
このチャーチルの決断によって、
一年以内に三万人のイギリスの男性、女性、子ども達がドイツの手によって殺害された。

(2)の言葉は、
海軍軍令部総長永野修身が、
昭和十六年十二月一日の御前会議における開戦決定前に述べた覚悟である。

何故、この二人の人物の言葉を記したのか。
それは、イギリスと日本と、国は違っても、
祖国の戦いに臨む思いは同じであると確認したからだ。
チャーチルは、「本土決戦」の覚悟を表明し、
永野修身も「最後の一兵まで戦う」と述べた。
そして、イギリスは勝利し、日本は敗北した。
従って、チャーチルが言った
「自らの流す血で喉をつまらせながら地に倒れ伏すまで戦う」
準備をしたのは我が国だった。

しかし、戦後の我が国の風潮は、
敗北して歴史を奪われたが故に、
この「血で喉をつまらせながら地に倒れ伏すまで戦う」覚悟を
祖国の精神を後世に伝えるための尊い決意であることを没却し、
狂信的な軍国主義か集団発狂かのレベルで一笑に付すのである。
しかし、チャーチルが軍国主義の狂信者ではないように、
我が国の本当の「本土決戦」を決意した当時の国民も狂信の徒ではない。
然るに、
昭和四十二年封切られ、一昨年の平成二十七年に再び封切られた
我が国の終戦の日の八月十五日に関する映画「日本の一番長い日」は、
あまりにも皮相的で軽薄で、
真の「本土決戦思想」の本質は全く描かれていない。

そこで、昭和天皇と、
この「本土決戦」を見つめたい。
これこそ「身も心も永遠の亡国」か
それとも「護国の精神」を維持するか、
我が国の運命の境目だったからである。
そして、国民に対する放送において、
「國體を護持し得て」
と宣言され、
「確く神州の不滅を信じ」
と国民を励まされた
昭和天皇こそ、我が国の運命を決せられた御一人である。

結論から言うならば、
真実の「本土決戦思想」は、
レーニンの唱えた「敗戦革命戦略」、即ち、
我が国を「敗戦から革命へ」という
共産主義革命路線に雪崩れ込ませて共産化するという危機から切断し、
チャーチルと永野修身が唱える
「祖国護持の精神」を残すために戦おうとするものであった。

昭和天皇は、二度、壊滅に瀕した首都東京を眺められ都内を巡回された。
一度目は、大正十二年九月、関東大震災の時に、摂政として、
二度目は、昭和二十年三月十日のアメリカ軍の東京大空襲後の時に、天皇として。
この二度目の時に、政府は
天皇陛下に長野県松代に造った長大な地下壕のなかに造営した
「皇居」にお移りいただきたい旨申し出た。しかし、
天皇陛下は、東京に留まる、とその松代の皇居への移転を拒否された。

昭和十九年七月にサイパンが陥落し、
我が国の首都東京はアメリカ軍の爆撃圏内にはいる。
そして次に、フィリピン戦線での日本軍の敗北が決定的になって、
アメリカ軍の本土侵攻が可能となってきた。
そこで、陸軍省は、統帥部に計らず、
サイパン陥落の頃から東京から長野県の松代の地下に
大本営および政府関係機関また放送協会を移動させ、
さらに皇居を造営してそこに天皇陛下も移っていただく大疎開の突貫作業に入った。
そして、東京大空襲をうけて、
天皇陛下に、ほぼ完成した松代の地下皇居に移っていただこうとしたのである。
しかし、前記の通り、
天皇陛下は、お移りにならなかった。
最後まで、国民とともに危険な東京に留まろうとされたのである。

仮に、天皇陛下が松代に移られたら、
大本営も政府機関も松代に移ったであろう。
では、本土防衛戦は如何なる場所で行われたのか。

それは、房総半島と相模湾から上陸したアメリカ軍主力が
長野県の手前の中部山岳地帯に入ったところである。
そこまでの間でも住民を巻き込んだ徹底的なゲリラ戦を展開して消耗させたうえで、
山岳地帯に入ったアメリカ軍を膠着状態に陥れたときに、
松代の大本営の背後にある日本海からソビエト軍が上陸すれば、
日本の共産化が実現する。

これが当時、陸軍省内部にいた「親ソ連派軍人」の狙いであった。
これら親ソ連派軍人は、
「シナ事変の最中に陸軍省の各部局に入り込んできた召集将校たちであり、
その正体は右翼を装った転向共産主義者であった。」(大東亜戦争と本土決戦の真実」家村和幸著)

このように、大本営も皇居も松代の内陸部に移すということは、
上陸してきた敵を国土深く侵攻させて住民と共に徹底的な戦いをすることになる。
この皇居の移動を、きっぱりと拒絶されたのが
昭和天皇である。
昭和天皇は、最後まで、敵が上陸してくる海が見える東京の「水際」に留まり、
国民と共にある、と表明されたのだ。
御自身の身の危険のことは一切考慮されていない。

そこで、こらから、
天皇陛下の御決意とともに、
陸軍の対上陸作戦思想が如何に変わったかをみなければならない。
即ち、
後方で上陸軍を迎え撃って持久戦を展開するとうい
「後方配備」の思想から、
敵が上陸する水際で直ちに決戦を挑み、
「最後の一兵になるまで戦う」という
「水際撃滅」の思想に転換したのである。

この水際撃滅の思想は、
軍隊は、日本民族再興の基盤である国民を戦いに巻き込まずに守りとおし、
軍人は最後の一人に至るまで戦って死ぬというものだ。
これは何も狂信的ではない。
松代に後退して内陸で国民を巻き込んで戦う
そしてソ連の侵攻を待つ、という方が狂っている。

ドイツ軍司令官ロンメル元帥も、連合軍のノルマンディー上陸直前に言っている。
「勝負はこの海岸で決まる。
敵を撃退するチャンスは一度しかない。
それは敵が海のなかにいるときだ。」

昭和二十年六月、参謀次長通達「本土決戦根本義の徹底に関する件」に言う。
「いやしくも戦況苦難の故をもって当面の決戦を避け、
 後退により持久を策するが如き観念は、
 本土決戦の真義に反するものなり」

そして、この思想に基づき、帝国陸海軍は
「自らの流す血で喉をつまらせながら、地に倒れ伏すまで戦う覚悟をして」
我が国の水際の陣地構築の突貫作業に入った。
その上で、
昭和天皇は、
我が国の運命をかけた瞬間を乗り切っていかれ、
帝国陸海軍が戦いをやめて消滅した後にも
たったお一人で、
日本が日本であり続ける根源の姿、國體、を守り抜かれたのだ。

そこで、冒頭に記したように、
諸兄姉に、是非次の本を読んでいただきたい。
日本陸軍の水際撃滅思想の本質を、
元寇に次ぐ我が国の二度目の壮烈な本土防衛思想として位置付ける書であり、
我々の誇りを喚起してくれる書である。
著者は、陸上自衛隊の中佐(二等陸佐)で、
現在は、「日本兵法研究会」を主催する家村和幸氏である。

書名 「大東亜戦争と本土決戦の真実」
著者 家村和幸
発行者 奈須田若仁
発行所 並木書房
   〒104-0061 東京都中央区銀座1-4-6
℡ 03-3561-7062
FAX 03-3561-7097