渋谷 | 久蔵

久蔵

落語と歴史のブログ

毎月第二週の金曜日から五日間、渋谷らくごが開催される、土日は昼の会もある


 

遊びでもわざわざ行くことがなくなった渋谷、江戸時代の渋谷はどういう所だったのか?

 

江戸城を核として神田明神・日本橋を中心に神田が町人街だった、北國の浅草・吉原から南は品川宿の遊郭が江戸っ子の遊び場だったという

 

五街道最初の宿場町が繁華街となった、東北への千住(板橋・池袋)、甲州への新宿そして東海道の品川が宿場町として栄えた

 

飲食宿泊はもちろんのこと寄席や見世物小屋もたくさんあったという、ここから外は江戸町奉行の管轄外となる

 

よって幕府御法度の南蛮風俗や肉も食べることができた、さらにその先の関所になると入り鉄砲出女の検閲が厳しかったという

 

 

では渋谷は?古地図を検索しても江戸時代の地図がない、つまり田畑だった

 

鉢山・代官山・渋谷など地名が示す通り山谷川の山林農地が広がっていたという

 

目黒のさんまは千代田の武家屋敷からこの辺りに鷹狩りに来た、という創作物語となっている

 

渋谷は近世から近現代も江戸っ子の歓楽街として成立しなかった、歌舞伎や芸者の演舞台や寄席が全くなかった

 

近代になって新橋が東海道線の入口となり、花柳界も発生し東の芸者花街は新橋を中心に活動したという

 

 

前後して幕府公認だった吉原花街は明治・大正・昭和を経て戦後廃止となった

 

関東大震災後の帝都復興計画で田畑だった東京南西部を宅地開発し渋谷歓楽街ができたという、寄席のなかった渋谷に定期落語会が誕生したのは画期的

 

初日の金曜夜はネットで生中継される、こんな夜遅くまで渋谷にはいたくない人も全国からアクセスできる


テレビ離れと言われて久しいが、古典芸能はテレビCMに依存しない娯楽芸能、スポンサーに配慮した誇張偏向の少ないテレビに変わるメディアが確立している

 

テレビが出現する前の昭和初期にラジオで一世を風靡したという広沢虎造の浪曲にハマった

 


その立役者がまだ三十代の玉川太福、一昨年テレビバラエティ芸能人を物ともせず文化庁芸術祭大衆芸能部門の新人賞を受賞した

 

新人ながら入門から五年あまりで既に日本浪曲協会理事に就任していた、二十代後半から浪曲界の牽引者として歩んできたよう

新潟出身千葉大卒という経歴の持ち主、出身地や学歴や年功や血筋や世襲もコネも関係のない好奇心と稽古と実力の世界

 

血の滲むような努力だとかハードなトレーニングや根性だとか天性の才能や合理的な思考や研究熱心な勤勉さもあまり関係なさそう


古典芸能にも表裏があり闇の歴史があるが、近現代の押し付けがましい芸能スポーツや旧メディアにはウンザリ

 


平成に入り劇団やお笑いなどのテレビ依存の片方向タレ流しの芸能バラエティ、ネットメディアは国境はなくわざわざ世界に打って出るという概念はない、よければ内外から集客できる

双方向だから趣向に合わなければアクセスしないだけ、世論や流行に合わせる必要もなくこちらから却下できる

 

他人が良いモノが自分も良いとは限らない、メディアの好評が自分も好評とは限らない、逆も同じで自分の趣向が明確なら世間には左右されない

特定の第三者に偏向されることもなく善し悪しや好き嫌いはこちらが評価できる民主的なしくみになってきた

 

渋谷は明治までは田畑で街道筋でもなく宿場町もなかった、江戸が東京になり維新功労雄藩の藩士が江戸城周辺に移住してきた

 


となれば一般平民の居住地が足りなくなり甲州街道と東海道に挟まれた武蔵野の田園地帯を宅地開発して居住地にしたという

薩長藩士は幹部として養成し平民の次男三男…が徴兵された、日清日露戦争後は中韓人の往き来も増えた

 

関東大震災後には帝都復興計画で鉄道会社がさらに宅地を拡大して開港地の横浜につなげた、全国から関東・関西圏に移住が増えた

韓国併合・第一次大戦・満州建国後は中韓人の行き来がさらに増え関東・関西圏に定住していったという

 

近世までの古典芸人は世襲で浅草周辺の旧繁華街を拠点とし、新劇の劇団には在日中韓人が参入してきた

 


浅草・上野・日本橋・神田に対して新興繁華街の代表が渋谷、銀座にはモボ・モガが闊歩したという、これが大正デモクラシー

 

古典と欧化西洋文化が東京に集結し華やかな状況が1930年代の後半まで続いたという、同じような国際文化都市が上海だった

上海は帝国主義列強国の租界地となり日本も仲間入りしていた、清国は既に滅亡し新たな中華民国は南京を拠点としていた

東京に無いものは上海にはあった、JAZZも酒も煙草もギャンブルもアヘンも武器も上海には東西洋の世界中のモノがあった

日本が統治した大陸・台湾・朝鮮・南洋諸島と本土との往来は盛んになり、日本人に同化帰化した中韓人の移民も受け入れた

 


戦後の混乱期に満州残留やシベリア抑留を逃れた日本人とともに多くの中韓人が本土に移民した


朝鮮半島の身分制度は近世同様に厳しく日本なら身分をリセットできたからだという

朝鮮戦争後も多くの半島人は帰国することはなかった、在日朝鮮・韓国人二世三世の住居と職業の問題は戦後の重要課題だった

江戸湾岸の江戸っ子がいなくなり在日外国人用地の国際的な東京湾岸地区になっていった

日本民主化政策の職業選択の自由や被差別同和は在日外国人に有利に働いたという

 


大規模公団住宅に優先的に住めたり、近代からの新平民独占業種に参入してきた


呑屋・花街・賭事・宣伝・芸能・興行などの水物商売、古くは賎民や穢多非人そして新平民の独占業種だった

戦後は第三次産業や高次サービス産業と呼ばれ在日外国人参入産業となった

在日中韓人は近現代の数世代でアイヌや琉球同様に日本人に同化した層もいるが、そうならずに反日層もいる

また前時代の身分制で虐げられた層は新しい時代とともに同和した層もいるし、脱することなく反体制のままの層もいる

 


東京下町は江戸文化、東京山の手は近代文化、湾岸地区は近現代も埋立が続き江戸から近現代混在のクールジャパン文化