どうもです!
22時過ぎに仕事から帰宅して記事を書くって、自分でもおかしい気がします・・・
Q.何故記事を書くのですか?
A.そこにネタがあるからだ
という訳で、今日の話題へ。
昨日のリワトの記事をせっせと書いていると、こんな記事を見かけました。
相互リンクしているからばこさんの記事ですね。
このタイトルを見た時に、次の記事のネタを思い付きました。
「世の中は等価交換・・・なのか?これについて考えてみよう!」
ハガレンの話にいちゃもんを付ける話題になりそうですが、世の中は交換で成り立っていることは認めます。但し、「等価」なのかについては考察の余地があると思いました。
結論としては、「YES」であり「NO」でもあると考えました。何とも微妙な結論ですね・・・
0.そもそも交換って何?
交換と言えばカードのトレードのような物々交換を連想されるかもしれませんが、それには限らずこの世は交換に溢れています。
「物々交換なんてしなくても、お金で買えば済む話だし」
と思ったそこのあなた、お金で買うという行為も「お金と物の交換」です。
歴史か何かの授業で習ったかもしれませんが、お金、つまり「貨幣」は人間が生み出した重要な発明の1つです。
1.貨幣の役割
お金の大切さと言えば、このセリフが浮かぶ方も多いかと思います。
今回はお金を大事にしましょうという話ではなく、交換手段としての貨幣の重要性について語る記事なので、まずは貨幣の役割をご説明します。
教科書にも載っている話ではありますが・・・
ⅰ交換手段
物々交換だと、自分が提供できる物を欲しがっている人を探し、更にその人が自分の欲しい物を持っているという厳しい条件を満たす必要があります。
ここで貨幣があれば、自分が提供できる物を欲しがっている人から対価として貨幣を受け取る、若しくは自分が欲しい物に対して貨幣を支払うことで交換が成立します。「両者がお互いの欲しい物を持っている」という条件が、「片方が相手の欲しい物を持っていれば、もう一方は貨幣を持っていれば足りる」という達成容易な条件に落ち着くということです。
ⅱ価値貯蔵
生ものは腐るという話です。
食べ物で物々交換をしても、すぐに食べないと腐ってしまいます。物理的に腐らないものでも、トレーディングカードのように日々価値が変わるものもあります。貨幣は腐らず価値も変わらないので、交換手段として末永く使えるということですね。
ⅲ価値尺度
「世の中は等価交換」の「交換」の部分がⅰだとすれば、「等価」の部分がこの価値尺度機能です。
物々交換の最大の問題は、「お互いに欲しがるものを出せないといけない」という点ですが、「お互いが提供する物の価値が釣り合うのか?」という問題も無視できません。
貨幣という一定の尺度があることで、「これは100円の価値、あれは500円の価値」と価値が決められ、定められた価値の物とその価値に釣り合う貨幣を交換するという形で等価交換が成立します。
客観的な価値評価という視点では、「世の中は等価交換」が成立するということですね。
2.ただの等価交換なら社会は発展しない
貨幣は価値尺度という機能を持ち、「客観的な価値評価という視点では」等価交換が成立するとご説明しました。
ただ、本当に等価な交換しかできないのであれば、これほどまでに毎日貨幣を介した交換が行われることはないでしょう。客観的な価値は等価だとしても、自分が差し出す物or貨幣よりも、受け取る貨幣or物の価値の方が主観的には大きく感じるからこそ、人は進んで他人と交換を行うのです。
「俺はレジ打ちに慣れているから、1時間やって1,000円貰えるならやってもいいかな?」という人が居て、1時間レジ打ちをして1,000円貰ったとします。
その人はレジ打ちは得意ですが、食べ物を作ることも、単体で遠い距離を速く移動することも、ゲームを開発することもできません。
しかし、1,000円という貨幣があれば、どこかの農作物を作るのが得意な人が作った食材を、料理が得意な誰かが料理した牛丼を食べ、車掌が運行する電車で数駅移動し、どこかのプログラマーが開発したゲーセンで軽く(すぐに金が尽きそうですが・・・)遊ぶことができます。
自分にとっての特技を提供した見返りとして貨幣を貰い、その貨幣を用いて、独力では到底作り出せない物やサービスを受け、自分1人しか存在しない場合よりも大きな見返りを受ける、それを繰り返すことで社会は発展してきたのです。
分かりづらい説明になってしまった気はしますが、「人生とは、交換を繰り返す中で、主観的にはより価値のある物を受け取ることでより良い暮らしを手に入れるもの」だと考えれば、主観的な価値評価という視点では「等価以上の交換」が成立していると言えますし、等価以上の交換を繰り返せる社会こそが発展していけるのです。
3.持つ者と持たざる者
「等価でない交換って何だろう?」と考えた時に、もう1つ考え付いたのが、「持つ者と持たざる者」という話です。
さっきのレジ打ちの例で、店舗を5人で運営していて、日に10万円の利益が出ているけれども、バイト1人当たりの日当は1万円しか支払われないとします。大抵利益の大部分は店舗の運営会社に持って行かれることが多いです。これは、「レジ打ち1人では店舗は成立しないが、店の運営側はお金を出して代わりのバイトを雇えれば店舗が存続できる」という強い立場にあるためです。
更に運営会社の経営者は、チェーン展開すれば複数の店から同時に利益を受け取れるため、より儲けられる立場にあります。バイト君が1つのお店のレジ打ち等の限られた仕事をしている間に、経営者は複数のお店を同時に管理し、多額の利益を得られるのです。
「1人の時間は有限だが、金さえあれば多数の人や機械を同時に動かし、更なる金を稼ぐ」この仕組みが、資本主義の効率的な社会を生むと共に、持つ者と持たざる者の格差を生んでいます。
バイトが労力に加え、時間を消費して貨幣を得ているのに対し、経営者は貨幣さえ渡せば、時間を消費せずとも労働力を得られており、時間の消費という観点では「等価交換ではない」のかなと思います。
今政治の世界で「高等教育の無償化」が話題となっていますが、単なるレジ打ちで終わらず、経営学で店舗全体のノウハウを学び、より儲けられる立場にステップアップする、単なる国内の工場の作業者にとどまらず、英語を学んで海外のより高い報酬を得られる会社に売り込む、生産管理を学んで工場の管理者にステップアップするなど、「持たざる者」ではなく「持つ者」になるために高等教育は必要なのだと思います。
いかがでしょうか?
「世の中は等価交換なのか?」という問いから色々考えて書いてみました。
まとまりが悪く、冗長になってしまい反省点の多い記事ではありますが、スケールの大きい話に発展できて良かったと思います。
固い話が多いので、親しみやすく、かつ深い話題が書けたらいいなと思いつつ、なかなか実現できないでいます・・・
またネタがあれば書きますので、次回も宜しくお願いしますm(_ _)m