昨年高校時代の同窓会の案内をもらった。別府の有名な老舗旅館で河豚料理を食べながら集まろうということで、一旦は出席する旨の返事を出していたのだが、海外旅行のスケジュールのほうを優先してしまい、行けずにいた。
先月同窓会の幹事から、同窓会の記事と写真が地元の新聞に載ったということと、同窓会の会場であった旅館が今年5月に将棋の名人戦の会場になるというメールをもらった。 幹事は結構良いところを選んでいたなと欠席を悔やんだ。
メールには、亡くなった同級生のことも書いてあった。 その内の一人は、数年前東京の美術館であった時には元気にしてたのにと驚いた。
気づけば、今年から後期高齢者の仲間入りである。
訃報に接することが多くなるのも当然である。
一昨年は、同世代の元同僚達の相次いでの訃報があった。
また昨年暮れに配られた元職場のOB会名簿に元職場のトップにまで上り詰めたOB3人の死亡が載っていた。 OBたちがどのような晩年を過ごしていたのかは知らない。 年齢は100歳代,90歳代と世間からみると十分長生きの部類である。 勤めていた職場でトップまで行ったのだから、本人は満足した人生であったと感じているのであろうか。
人はどのように老年を迎えるのか。
元同僚達のように、老年を迎えることなく亡くなった人もいる。 100歳近く生きて有り余る老年を生きた人もいる。 いろいろである。
「徒然草」の作者は「命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけん。」
と書いている。 これは 老年は迎えるなということだ。 しかし書いた本人は70近くまで生きている。
一方中野孝次は、徒然草の「時期に万事を放下して道に向かう時、障りなく、所作なくて、心身永く閑かなり」を取り上げ、 老年の心境としてなによりも望むものは、日々の平安、心身永閑だとしている。
良い老年とはどういうものなのか、あるのであろうか。 日々考えるこの頃である。