去年4月、埼玉県さいたま市の永田陣屋のあと、同じさいたま市の城へ行きましたニコニコ


今回の城は寿能(じゅのう)城です照れ


寿能城は、永禄3年(1560年)頃に、岩槻(岩付)城の支城として、太田道灌の曾孫である岩槻城主の「太田三楽斎」こと太田資正の四男・潮田資忠によって築かれましたカブト 

1564年(永禄7年)に北条氏が太田資正の長男・氏資を調略し、資正を追放させると、資忠も兄に従い北条氏に属しましたが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、小田原に籠城した資忠とその子・資勝は小田原城にて戦死しましたナイフ


岩槻城とともに寿能城も豊臣方の浅野長政軍に攻められ、重臣の北沢宮内と加藤大学らの奮戦も虚しく 5月に落城し、家来やその妻子は見沼に身を投げたとされていますショボーン


余湖くんのホームページより下矢印

その後は廃城となり、太平洋戦争時には城址に高射砲が敷設されるなど遺構の破壊が進み、終戦後はさらに城址の大半が市街地化、1962年(昭和37年)に、当初の「史跡」指定から「旧跡」に指定変更されていますキョロキョロ

現在城址は宅地化のため遺構はほぼ失われていますが、物見櫓跡が寿能公園となっており、城主だった潮田資忠の墓所がありますカブト


また大和田公園は出丸がかつてあった場所で、梅園や日本庭園の近くにある雑木林に土塁と空堀の遺構が残るそうですニコニコ

車は周りにたくさんある公園を利用したのですが、結構混んでいてあちこち回りました笑い泣き

目的地の寿能公園に到着走る人

この公園がある一帯にかつて寿能城の本丸があったそうです照れ

下矢印この説明板は読めませんね笑い泣き

豊臣秀吉による小田原征伐による落城のあと、寿能城は廃城となりましたが、潮田資忠の子孫である古河藩家老・潮田資方が、資忠の墓碑を城跡に建てさせたそうですニコニコ

公園に遺構はありませんが・・・

あれ?下矢印下矢印下矢印

わーい爆笑爆笑爆笑アップアップアップ

説明は省きますが、自分のブログではショボい(失礼)城にはなぜかブランコが多いんです♪


さらに西へ住宅街を歩いていくと走る人

交番の隣に城碑がありましたニコニコ

下矢印ポージングが固いのは、ここが道路沿いで車が並んで止まっていて、さすがに人目が恥ずかしかったからです笑い泣き

以上で攻城終了爆笑


遺構がないのはわかっていましたが、機会があれば、激戦の歴史を持つ寿能城に来てみようと思ってました照れ

ブランコもあったし爆笑爆笑爆笑