当初、前回の畠山重忠公史跡公園のあと、別の城に行く予定でしたが、とある場所の存在を知り急遽寄りました
去年10月に訪れたその場所は、埼玉県寄居町の水野氏陣屋跡です
水野氏陣屋跡は、現在の曹洞宗の寺院「昌国寺」の境内となっています
昌国寺の開基である水野長勝はあの織田信長に仕えていましたが、のちに北条氏邦の家臣となり、同じく寄居町にある100名城・鉢形城内に屋敷を与えられ、この地には居館があったようです。
豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅ぶと、長勝は徳川家康の従兄弟であったことから徳川家の旗本に取り立てられ、この陣屋内に水野家の菩提寺である昌国寺を建てたとされています
長勝の子忠貞の時に水野氏は移封となり、陣屋は廃されたようですが、昌国寺はその後も水野家の菩提寺として存続しました。
「城」ではなく「陣屋」程度なのに、何故訪れたくなったかというと、理由はこれです
水野十郎左衛門‼︎
ご存じの方は少ないかもしれませんが、水野十郎左衛門成之は、江戸時代前期の旗本で、例えれば半グレ的な「旗本奴(やっこ)」の有名人です
「町奴」の幡随院(ばんずいいん)長兵衛との争いは時代劇や講談などの題材としてよく使われ、反骨心むき出しが故に、35歳で切腹させられたヤンチャな人物です
その人物ゆかりの場所と思ってきたのですが、ここの水野長勝も「水野十郎左衛門」ですが、
お目当ての「水野十郎左衛門」とは別人でした
しかしこちらの「水野さん」も前述の通り、なかなかの経歴の持ち主なので、気を取り直して参ります
「余湖くんのホームページ」より縄張り図をお借りしました
土塁ウォーク
低いながらもしっかり土塁です
土塁の外側には堀もあります
余湖くんのホームページより、赤矢印通り南側から東へ
空堀へ
堀も浅いですが、しっかりとわかります
外周を北側へ歩きます
余湖くんのホームページより
北東の角の部分の堀と土塁
なかなかです
思わず堀底へ
北側の堀と土塁
ちなみに「城」と「陣屋」の違いは規模の大小です
江戸時代には300以上の藩がありましたが、城を持つことができない小さな大名は住居・役所として「陣屋」を構えていました。
陣屋は城に比べると、石垣・土塁が低く、堀は狭く浅めで、曲輪は多くが一つだけとシンプルです
でもここは遺構としては、そんなに城と遜色ないと思います
しかし蜘蛛の巣が多く、何度も突っ込んでしまいました
蜘蛛の巣を避ける相方↓
北側の外周は続けて回れなかったので、中を通って西側へ回りました
余湖くんのホームページより
こちらにも低いですが土塁があります
郭の外にはお墓があり、そこの一角に水野氏の墓所があります
お墓の一つ一つに説明がありました
「ほんのり」とですが、堀もあります
こちらは土塁の上ってわかるかなぁ
以上で攻城終了
厳密に言えば陣屋は城ではありませんが、遺構のない城に比べれば、今回の陣屋のように充分に城要素がある所も多いので、城としてカウントさせていただきます