下図の赤枠部分が坂戸市になります。
多和目城は城主や歴史など、ほとんど不明で、江戸時代の地誌にも「城跡とのみ伝えて何人の居城なりしをしらず」と記されているようです。
「余湖くんのホームページ」より縄張り図をお借りしました♪
地図の上部、運動公園から南へ歩きます
案内板がありました
さあ、入城!
と思いきや・・・
なんか置いてあります
しかし・・・
やっぱり・・・
ダメなものはダメ‼︎
とりあえず、写真は撮り続け・・・
攻城は諦めざるを得ませんでしたが、ブログの記事にはしようと撮り続けました
「これでブログ1回分になるかな?」と姑息な考えを相方に言うと
「それってサギじゃない⁈」
・・・と言われました
とりあえず多和目城は諦め、次の城を目指すことにしました
車で移動している時、「浅羽」という地名が目につき、「そういえば浅羽城ってあったな⁈」と思い出し、Uターンして急遽向かうことにしました
浅羽城は、中世に坂戸市西部を治めた浅羽氏が戦国時代に本拠を構えた所と伝わります。
浅羽氏は児玉党の一族で、入西行成(行業)を祖としていますが、浅羽氏の詳細はほとんど残っておらず、天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条攻めの時、北条方に属し、城も落城したと伝わりますが、真偽は不明だそうです。
またも「余湖くんのホームページ」より縄張り図(想像図)をお借りします
現在、城の遺構はほとんど消滅してしまいましたが、残っている絵図から、ほぼ長方形の主郭を中心として、いくつかの曲輪があり、主郭の南側にある張出部で虎口の守りを固めていたそうです。
現在の浅羽城は住宅街の中に城跡公園として、名前だけ残っています
案内板はありました
この案内板の立つ辺りがほぼ城の主郭だったようです
公園はいくつかに分かれてましたが、遺構らしきものはないですね
これにて攻城終了
多和目城の土砂崩れによる攻城失敗と、案内板しかない浅羽城、2つ合わせて「一本!」ということでご容赦ください