妹がフィンランド放送響を聴きに行くなんて言うものだから、影響されて、最近寝る時によくシベリウスを聴く。シベリウスは、僕が一番好きな作曲家の一人だ。大学時代には、随分入れ込んで聴いたものだ。

シベリウスの番号付の交響曲は7曲。最後のふたつ、兄弟のように創作されたはずの6番と7番は、しかし、聴いた印象が大きく異なる。宇野功芳は、6番を最も愛すると書いていた。僕は近時の宇野功芳は好きではないが、言いたいことは分かる。人を寄せ付けないような厳しい7番に比べ、6番は旋律がきれいで、分かりやすいし、温かみがある感じがする。ブルックナーのやはり最後の2つの交響曲の性格の違いにも、少し近い気がする。

シベリウスには意外にも名盤が少ないが、僕が結局そこへ戻ってしまうのは、カラヤンとベルリン・フィルの60年代の録音。意識しないで聴いても十分素晴らしいけれど、当時のシベリウスの音楽の普及の程度を考えると(せいぜい没後10年)、信じられないくらいの演奏だと思う。カラヤンには批判も多いけれど、一連のこのシベリウスの録音があるがために、僕はカラヤンを尊敬する。

7番は、もったいなくてほとんど聴かない。耳が慣れてしまうから。結局僕も、6番をよく聴いている。6番だって、もったいないのだけど。6番を聴いて感じるのが、場所の移動と時間の経過、つまり旅である。音楽を聴いてこんなことを感じるのは、とても不思議なことだ。唯一、バッハのゴルトベルク変奏曲を通して聴いたときの感覚が、これに近い。いつかきちんと考えてみたいけれど、おそらく、素材の変容と回帰の仕方が、そんな感じを与えるのではないかと思っている。
どんな理由によっても他人の生命を奪うことは許されない(注1)とする現代の価値体系のなかで、正当な行為として国家に殺人を許容する死刑という制度は、 きわめて特異な仕組みであると言える。そしてまた、人が出会う中で最も不条理な現象のひとつであり、何人もそれが一体何であるかをいまだ断言し得ない、人 間の「死」そのものを刑罰とする点でも、特異である。

死刑については賛否が激しく分かれており、誰もが納得できる説明は到底不可能だろ う。この先も考え続けなければいけないと思う。だから、僕がいま書いてみようと思うのは、ここ何年間か考えてみて、いろいろな出来事や報道に接するたび自 分の中に積もっていった、飽くまで現時点での意見である。この問題についての理解不足があれば、ご指摘を乞いたい。

日本の刑法において、 死刑は最も重い刑罰であり、極刑とも言われる。殺人罪のほか現住建造物等放火罪(いわゆる放火)などにも死刑は規定されているが、実際には、死亡の結果が 発生した事件に限る処断がなされている。その意味で死刑は、生命を奪った犯罪者に対し、犯罪者自身の生命を剥奪する刑罰である。死刑の次に重いのは無期懲 役(期間を定めない懲役 注2)だから、それではもはや刑罰の目的が達せられないと考えられる場合に、死刑となる。

刑罰の目的について学 説の議論は分かれるが、一般的な社会通念としては、「刑罰を受けることによって罪を償う」という、やや抽象的な理解でも遠くはないのではないか。これに死 刑をあてはめれば、「罪の重さに照らし、生命によるほかではその罪を償うに足りない」から、ということになるだろう。

考えなければならな いのは、「償う」ということの意味である。償うというのは、ある損失の埋め合わせをするという言葉だが、刑罰によって埋め合わせられるものは、いったい何 だろうか。犯人が懲役を受けることによって、受けた傷が治癒するわけではなく、壊れた物が元に戻るわけではない。唯一うまくあてはまるように思えるのは経 済的損失に対する罰金だが、罰金は国に払うのであって、被害者に埋め合わせとして支払うわけではない(被害者に支払うべきは損害賠償請求に対する賠償金だ が、これは民事訴訟によるものであり、刑罰ではない)。
そう考えると、刑罰というのは、実はフィクションであると言わざるを得ないのではないか。刑罰は、犯罪によって損なわれた価値を実質的に埋め合わせるのではなく、犯罪人にある相当程度の負担を課すことにより「償われたことにする」という、取り決めに過ぎないのである。

死刑についても同じである。犯罪人の生命を絶つことによって、社会に対して埋め合わせとして何が提供されるのだろうか。
無論、何も提供されはしない。あるのはただ、社会の中からまた一つ生命が損なわれたという事実だけであろう。

死刑が罪を実質的に埋め合わせるものではないとすると、死刑の必要はどこから導かれるか。最も切実なものは、被害者遺族の感情であろう。その悲しみがどのようなものかは、僕などには到底、語る資格さえない。世論においても、それを根拠とする論者は多い。

し かし、それによって死刑を理論的に根拠づけることは、やはり困難であろう。なぜなら、遺族の感情を根拠とするには、遺族の存在が前提となるからである。そ の理屈からすると、悲しむ人間がいない者に対してなら、殺人を犯したとしてもそれだけ罪も軽いのだろうか。遺族もないようなホームレスや孤児は、殺しても 死刑にはならないのだろうか。これはやはり、明らかにおかしい議論である。その意味で、死刑が遺族の応報感情に応えるものであるということは、現実には重 大な効果・結果の一つではあっても、制度本来の目的とすることはできないはずである。
逆に、もしも死刑囚が心から反省し謝罪することによって、遺族が犯人には更生して一生をかけて罪を償ってほしいと希望するようになることがあったとしても、遺族の希望で死刑を取り消す、又は執行しないという仕組みは、現時点では存在しない。

ま た、死刑賛成論者から反対論者に対し、遺族の身になって考えれば反対など口にできないはず、という主張が述べられることがある。だがこれも、同じように、 賛成論者は自らの親や子供が重大犯罪を犯したとき、「死刑にするべきだ」と主張できるのかという点で、水掛け論になってしまう。

論ずべき点は他にも少なからずあるが、もうひとつだけ挙げておきたい。
死 刑に賛成することを難しくしている、と僕が感じる最も大きな理由は、死刑と無期の境界を引くことが論理的に不可能なことである。死刑となる基準は、現在日 本では最高裁の判例(注3)によって、犯罪の残虐性、被害者の数、遺族感情、犯人の情状ほか、ほとんどあらゆる事情を総合的に考察して決する、とされてい る。一見もっともなようではあるが、いったいどこで線を引くのかということについて、この基準によって何かが明らかにされるわけではない。

例 えば、被害者が同じ2人である別々の二つの事件において、片や無期、片や死刑という裁判は、現実に起こっている。その二つを分ける違いは何なのか。反省の 度合いかもしれないし、幼年時代の生い立ちかもしれない。だが、もし反省の度合いがその分かれ目だったとして、何をもって「心からの反省」というのか。謝 罪の手紙を100通書けばよいのだろうか。では50通ではどうか、10通では。「ですます調」でなければならないのか・・・。このような議論が馬鹿げてい るのは明らかである。突き詰めて考えた時、無限の濃淡を持つ事実のグラデーションの中で生死を分ける明確な判断基準を引くなどということは、結局およそ論 理的ではなく、不可能なのである。

それを割り切るのが法律であり、裁判だということもできるだろう。確かに法律は、争いを解決し、罪を裁 く現実的制度である限り、あるところで形式的に割り切らざるを得ない。法律など所詮は人間が取り決めたものに過ぎないのだから、物理法則のように普遍的に 妥当することはあり得ない、ある意味フィクションなのである。その有用性を認め、国民の大多数がそれに従うことに納得しているというだけだ。

しかし、人の生命についても、法律によってそのよう「割り切り」をせざるを得ない死刑という制度は、僕にはフィクションとしての限界を踏み越えてしまっているように思われる。それがたとえ、犯罪者の生命であってもである。

このように考えてくると、僕は未だ、死刑を根拠づけるだけの十分な論理を知らない。死刑反対というより、賛成できないという方が正確かもしれない。そして、論理の破綻なく説明できる方法がない以上、死刑を行ってはならないと思う。
僕たちの道徳観念が、「生命は絶対の価値を持つ」という前提から始まっている以上、「相対的な事情を束ねたもの」と「生命」を素朴な利益衡量の天秤にかけることは許されないはず。そのような裸の価値判断は、最後の最後の手段である。

死刑について、日本の国民の間では、いまだに「ひどいことをしたのだから当然」という漠然とした賛成論が多いように感じられる。しかし、世界では死刑廃止を選択した国々のほう主流と言えるのであり、例えばEUでは死刑廃止が加盟の条件ともなっている。
裁判員制度の運用開始を控え、なぜ死刑廃止という選択肢があり得るのか、死刑の問題点は一体何かという点を、自分が選択を迫られる前に、可能な限り考え抜く必要がある。



(注1) もちろん、正当防衛等のように、場合によっては罪とみなされない殺人行為もある。しかしこれは「許される」というよりは「罰せられない」と表現したほうが正確であろう。刑法においては、正当防衛等は違法性阻却事由として、「悪くない」行為として扱われる。

(注 2) 「無期懲役でも、何年かすれば仮釈放されて出てくる」という言い方で、制度の不備が指摘される場合がある。実際に、服役中の態度が良好であれば平均20年 で仮釈放されているとのことである。しかしこれは飽くまで行政による運用の仕方であって、無期懲役という刑罰自体がそのような運用を前提としているわけで はない。運用次第では、法的には「終身刑」とする運用さえ可能である。

(注3) 昭和58年7月8日、最高裁によって永山則夫に対して下された死刑判決において示された基準。「永山基準」と言われるもの(刑集37・6・609)。

坂口安吾は、高校3年の現代文の授業で「堕落論」を読んで印象に残っていた。数年前に角川文庫から出ている随筆集「堕落論」を古本屋で見つけて、いつか読もうと買っておいたのだが、1ヶ月ほど前から、勉強に飽きてしまった時の息抜きに読み始め、やっと読み終わった。

その高校の時、「堕落論」の何が印象に残っていたのかといえば、次の文句である。
「二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私にはわからない。私は二十の美女を好む。」

その時は、意味も大して分からなかったが、安吾という人は非常に正直だ、とだけ思った。今読み返せば、「二十の美女」は、戦争中の破壊と、運命に従順な人間の奇妙な美しさについての暗喩である。安吾によればそれは幻で、敗戦後の日本の堕落こそが再生へのただひとつの方法のはずだが、「美女」の魅力もまた、安吾は否定できないのである。
やはり、正直なのだと思う。

安吾の文章には、一切のポーズ、自分の知性を高くみせたいがための小細工がない。説教くささ、思わせぶりな難解さがない。常に自分の気持ちと信念にまっすぐだ。読んでいてこんなに胸のすくような文章もない。

「青春論」「悪妻論」「恋愛論」等、様々な題名の小論で編まれたこの本だが、安吾の言いたいことは、どんな主題を語るにおいても一貫している。とにかく、生きることが全部である、ということ。その中には矛盾も堕落も背徳もあるだろうが、その上にしか生きることの価値などないということ。だから安吾は、そうしたものを遠ざけて、悟ったような顔で全てに決着をつけてしまう人間には、容赦ない。

この文庫の中には「教祖の文学」という随筆も収録されているが、これは小林秀雄をコテンパンにやっつけている、奇抜な作家論である。酒が入ったような独特の語り口で諧謔たっぷりだが、その狙いどころは一々鋭い。安吾にとって、人間を遠くから自分のものさしで眺めるだけで冷たく「鑑定」してしまう小林に、がまんがならなかったようである。安吾は小林を、もう地獄を見ることのない「教祖」であり、「骨董の鑑定人」にすぎないと断じている。

はっと不意をつかれたのは、その「教祖の文学」で、小林のような「見えすぎている」文学に対するアンチテーゼとして安吾が突然引用するのが、宮沢賢治の「眼にて云ふ」という詩であったこと。しかも全文である。「だめでせう とまりませんな がぶがぶ湧いてゐるですからな」という文句で始まるこの有名な詩は、僕もとても好きな詩だが(もちろんその内容は、もう好き嫌いを云々するものではないけれど・・・)、言葉の端々まで人間くさい安吾と、どこか半分透き通ったような宮沢賢治のイメージを比べると、そのつながりが意外に思われた。

しかし考えてみれば、自らを「修羅」と位置づけた賢治である。
「ほんとうに人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当たった奴でなければ、書けないものだ」
という安吾とは、響きあうものがあったのだろう。確かに賢治も、人の生活と離れたところで思想や美学を振り回すことは決してしなかった。

ただ、次の一点についてのみ、安吾の言うことに強く反発を感じた。

「死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生まれる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。」

死ぬことを人間の義務とみることは、正しい。しかし、死を単純に「無」であると断言することはできないはずである。安吾は徹底して自らの生きた体験と感情に基いて物を書くことを宗としながら、自ら経験したことのない「死」について、外から眺めただけで単純に「無」であると断定してしまっている。ここに、安吾の軽率さを見る。哲学は、まさにそうした決めつけなしに物事を眺めることであり、そうした思考が人生の重要な要素ですらある人種だっているのだ。

ともあれ、十数年ぶりに読んだ「堕落論」は、いまだ鮮烈であった。
いつになるかは分からないが、主要な作品は一度きちんと読んでみたい作家である。