どんな理由によっても他人の生命を奪うことは許されない(注1)とする現代の価値体系のなかで、正当な行為として国家に殺人を許容する死刑という制度は、
きわめて特異な仕組みであると言える。そしてまた、人が出会う中で最も不条理な現象のひとつであり、何人もそれが一体何であるかをいまだ断言し得ない、人
間の「死」そのものを刑罰とする点でも、特異である。
死刑については賛否が激しく分かれており、誰もが納得できる説明は到底不可能だろ う。この先も考え続けなければいけないと思う。だから、僕がいま書いてみようと思うのは、ここ何年間か考えてみて、いろいろな出来事や報道に接するたび自 分の中に積もっていった、飽くまで現時点での意見である。この問題についての理解不足があれば、ご指摘を乞いたい。
日本の刑法において、 死刑は最も重い刑罰であり、極刑とも言われる。殺人罪のほか現住建造物等放火罪(いわゆる放火)などにも死刑は規定されているが、実際には、死亡の結果が 発生した事件に限る処断がなされている。その意味で死刑は、生命を奪った犯罪者に対し、犯罪者自身の生命を剥奪する刑罰である。死刑の次に重いのは無期懲 役(期間を定めない懲役 注2)だから、それではもはや刑罰の目的が達せられないと考えられる場合に、死刑となる。
刑罰の目的について学 説の議論は分かれるが、一般的な社会通念としては、「刑罰を受けることによって罪を償う」という、やや抽象的な理解でも遠くはないのではないか。これに死 刑をあてはめれば、「罪の重さに照らし、生命によるほかではその罪を償うに足りない」から、ということになるだろう。
考えなければならな いのは、「償う」ということの意味である。償うというのは、ある損失の埋め合わせをするという言葉だが、刑罰によって埋め合わせられるものは、いったい何 だろうか。犯人が懲役を受けることによって、受けた傷が治癒するわけではなく、壊れた物が元に戻るわけではない。唯一うまくあてはまるように思えるのは経 済的損失に対する罰金だが、罰金は国に払うのであって、被害者に埋め合わせとして支払うわけではない(被害者に支払うべきは損害賠償請求に対する賠償金だ が、これは民事訴訟によるものであり、刑罰ではない)。
そう考えると、刑罰というのは、実はフィクションであると言わざるを得ないのではないか。刑罰は、犯罪によって損なわれた価値を実質的に埋め合わせるのではなく、犯罪人にある相当程度の負担を課すことにより「償われたことにする」という、取り決めに過ぎないのである。
死刑についても同じである。犯罪人の生命を絶つことによって、社会に対して埋め合わせとして何が提供されるのだろうか。
無論、何も提供されはしない。あるのはただ、社会の中からまた一つ生命が損なわれたという事実だけであろう。
死刑が罪を実質的に埋め合わせるものではないとすると、死刑の必要はどこから導かれるか。最も切実なものは、被害者遺族の感情であろう。その悲しみがどのようなものかは、僕などには到底、語る資格さえない。世論においても、それを根拠とする論者は多い。
し かし、それによって死刑を理論的に根拠づけることは、やはり困難であろう。なぜなら、遺族の感情を根拠とするには、遺族の存在が前提となるからである。そ の理屈からすると、悲しむ人間がいない者に対してなら、殺人を犯したとしてもそれだけ罪も軽いのだろうか。遺族もないようなホームレスや孤児は、殺しても 死刑にはならないのだろうか。これはやはり、明らかにおかしい議論である。その意味で、死刑が遺族の応報感情に応えるものであるということは、現実には重 大な効果・結果の一つではあっても、制度本来の目的とすることはできないはずである。
逆に、もしも死刑囚が心から反省し謝罪することによって、遺族が犯人には更生して一生をかけて罪を償ってほしいと希望するようになることがあったとしても、遺族の希望で死刑を取り消す、又は執行しないという仕組みは、現時点では存在しない。
ま た、死刑賛成論者から反対論者に対し、遺族の身になって考えれば反対など口にできないはず、という主張が述べられることがある。だがこれも、同じように、 賛成論者は自らの親や子供が重大犯罪を犯したとき、「死刑にするべきだ」と主張できるのかという点で、水掛け論になってしまう。
論ずべき点は他にも少なからずあるが、もうひとつだけ挙げておきたい。
死 刑に賛成することを難しくしている、と僕が感じる最も大きな理由は、死刑と無期の境界を引くことが論理的に不可能なことである。死刑となる基準は、現在日 本では最高裁の判例(注3)によって、犯罪の残虐性、被害者の数、遺族感情、犯人の情状ほか、ほとんどあらゆる事情を総合的に考察して決する、とされてい る。一見もっともなようではあるが、いったいどこで線を引くのかということについて、この基準によって何かが明らかにされるわけではない。
例 えば、被害者が同じ2人である別々の二つの事件において、片や無期、片や死刑という裁判は、現実に起こっている。その二つを分ける違いは何なのか。反省の 度合いかもしれないし、幼年時代の生い立ちかもしれない。だが、もし反省の度合いがその分かれ目だったとして、何をもって「心からの反省」というのか。謝 罪の手紙を100通書けばよいのだろうか。では50通ではどうか、10通では。「ですます調」でなければならないのか・・・。このような議論が馬鹿げてい るのは明らかである。突き詰めて考えた時、無限の濃淡を持つ事実のグラデーションの中で生死を分ける明確な判断基準を引くなどということは、結局およそ論 理的ではなく、不可能なのである。
それを割り切るのが法律であり、裁判だということもできるだろう。確かに法律は、争いを解決し、罪を裁 く現実的制度である限り、あるところで形式的に割り切らざるを得ない。法律など所詮は人間が取り決めたものに過ぎないのだから、物理法則のように普遍的に 妥当することはあり得ない、ある意味フィクションなのである。その有用性を認め、国民の大多数がそれに従うことに納得しているというだけだ。
しかし、人の生命についても、法律によってそのよう「割り切り」をせざるを得ない死刑という制度は、僕にはフィクションとしての限界を踏み越えてしまっているように思われる。それがたとえ、犯罪者の生命であってもである。
このように考えてくると、僕は未だ、死刑を根拠づけるだけの十分な論理を知らない。死刑反対というより、賛成できないという方が正確かもしれない。そして、論理の破綻なく説明できる方法がない以上、死刑を行ってはならないと思う。
僕たちの道徳観念が、「生命は絶対の価値を持つ」という前提から始まっている以上、「相対的な事情を束ねたもの」と「生命」を素朴な利益衡量の天秤にかけることは許されないはず。そのような裸の価値判断は、最後の最後の手段である。
死刑について、日本の国民の間では、いまだに「ひどいことをしたのだから当然」という漠然とした賛成論が多いように感じられる。しかし、世界では死刑廃止を選択した国々のほう主流と言えるのであり、例えばEUでは死刑廃止が加盟の条件ともなっている。
裁判員制度の運用開始を控え、なぜ死刑廃止という選択肢があり得るのか、死刑の問題点は一体何かという点を、自分が選択を迫られる前に、可能な限り考え抜く必要がある。
(注1) もちろん、正当防衛等のように、場合によっては罪とみなされない殺人行為もある。しかしこれは「許される」というよりは「罰せられない」と表現したほうが正確であろう。刑法においては、正当防衛等は違法性阻却事由として、「悪くない」行為として扱われる。
(注 2) 「無期懲役でも、何年かすれば仮釈放されて出てくる」という言い方で、制度の不備が指摘される場合がある。実際に、服役中の態度が良好であれば平均20年 で仮釈放されているとのことである。しかしこれは飽くまで行政による運用の仕方であって、無期懲役という刑罰自体がそのような運用を前提としているわけで はない。運用次第では、法的には「終身刑」とする運用さえ可能である。
(注3) 昭和58年7月8日、最高裁によって永山則夫に対して下された死刑判決において示された基準。「永山基準」と言われるもの(刑集37・6・609)。
死刑については賛否が激しく分かれており、誰もが納得できる説明は到底不可能だろ う。この先も考え続けなければいけないと思う。だから、僕がいま書いてみようと思うのは、ここ何年間か考えてみて、いろいろな出来事や報道に接するたび自 分の中に積もっていった、飽くまで現時点での意見である。この問題についての理解不足があれば、ご指摘を乞いたい。
日本の刑法において、 死刑は最も重い刑罰であり、極刑とも言われる。殺人罪のほか現住建造物等放火罪(いわゆる放火)などにも死刑は規定されているが、実際には、死亡の結果が 発生した事件に限る処断がなされている。その意味で死刑は、生命を奪った犯罪者に対し、犯罪者自身の生命を剥奪する刑罰である。死刑の次に重いのは無期懲 役(期間を定めない懲役 注2)だから、それではもはや刑罰の目的が達せられないと考えられる場合に、死刑となる。
刑罰の目的について学 説の議論は分かれるが、一般的な社会通念としては、「刑罰を受けることによって罪を償う」という、やや抽象的な理解でも遠くはないのではないか。これに死 刑をあてはめれば、「罪の重さに照らし、生命によるほかではその罪を償うに足りない」から、ということになるだろう。
考えなければならな いのは、「償う」ということの意味である。償うというのは、ある損失の埋め合わせをするという言葉だが、刑罰によって埋め合わせられるものは、いったい何 だろうか。犯人が懲役を受けることによって、受けた傷が治癒するわけではなく、壊れた物が元に戻るわけではない。唯一うまくあてはまるように思えるのは経 済的損失に対する罰金だが、罰金は国に払うのであって、被害者に埋め合わせとして支払うわけではない(被害者に支払うべきは損害賠償請求に対する賠償金だ が、これは民事訴訟によるものであり、刑罰ではない)。
そう考えると、刑罰というのは、実はフィクションであると言わざるを得ないのではないか。刑罰は、犯罪によって損なわれた価値を実質的に埋め合わせるのではなく、犯罪人にある相当程度の負担を課すことにより「償われたことにする」という、取り決めに過ぎないのである。
死刑についても同じである。犯罪人の生命を絶つことによって、社会に対して埋め合わせとして何が提供されるのだろうか。
無論、何も提供されはしない。あるのはただ、社会の中からまた一つ生命が損なわれたという事実だけであろう。
死刑が罪を実質的に埋め合わせるものではないとすると、死刑の必要はどこから導かれるか。最も切実なものは、被害者遺族の感情であろう。その悲しみがどのようなものかは、僕などには到底、語る資格さえない。世論においても、それを根拠とする論者は多い。
し かし、それによって死刑を理論的に根拠づけることは、やはり困難であろう。なぜなら、遺族の感情を根拠とするには、遺族の存在が前提となるからである。そ の理屈からすると、悲しむ人間がいない者に対してなら、殺人を犯したとしてもそれだけ罪も軽いのだろうか。遺族もないようなホームレスや孤児は、殺しても 死刑にはならないのだろうか。これはやはり、明らかにおかしい議論である。その意味で、死刑が遺族の応報感情に応えるものであるということは、現実には重 大な効果・結果の一つではあっても、制度本来の目的とすることはできないはずである。
逆に、もしも死刑囚が心から反省し謝罪することによって、遺族が犯人には更生して一生をかけて罪を償ってほしいと希望するようになることがあったとしても、遺族の希望で死刑を取り消す、又は執行しないという仕組みは、現時点では存在しない。
ま た、死刑賛成論者から反対論者に対し、遺族の身になって考えれば反対など口にできないはず、という主張が述べられることがある。だがこれも、同じように、 賛成論者は自らの親や子供が重大犯罪を犯したとき、「死刑にするべきだ」と主張できるのかという点で、水掛け論になってしまう。
論ずべき点は他にも少なからずあるが、もうひとつだけ挙げておきたい。
死 刑に賛成することを難しくしている、と僕が感じる最も大きな理由は、死刑と無期の境界を引くことが論理的に不可能なことである。死刑となる基準は、現在日 本では最高裁の判例(注3)によって、犯罪の残虐性、被害者の数、遺族感情、犯人の情状ほか、ほとんどあらゆる事情を総合的に考察して決する、とされてい る。一見もっともなようではあるが、いったいどこで線を引くのかということについて、この基準によって何かが明らかにされるわけではない。
例 えば、被害者が同じ2人である別々の二つの事件において、片や無期、片や死刑という裁判は、現実に起こっている。その二つを分ける違いは何なのか。反省の 度合いかもしれないし、幼年時代の生い立ちかもしれない。だが、もし反省の度合いがその分かれ目だったとして、何をもって「心からの反省」というのか。謝 罪の手紙を100通書けばよいのだろうか。では50通ではどうか、10通では。「ですます調」でなければならないのか・・・。このような議論が馬鹿げてい るのは明らかである。突き詰めて考えた時、無限の濃淡を持つ事実のグラデーションの中で生死を分ける明確な判断基準を引くなどということは、結局およそ論 理的ではなく、不可能なのである。
それを割り切るのが法律であり、裁判だということもできるだろう。確かに法律は、争いを解決し、罪を裁 く現実的制度である限り、あるところで形式的に割り切らざるを得ない。法律など所詮は人間が取り決めたものに過ぎないのだから、物理法則のように普遍的に 妥当することはあり得ない、ある意味フィクションなのである。その有用性を認め、国民の大多数がそれに従うことに納得しているというだけだ。
しかし、人の生命についても、法律によってそのよう「割り切り」をせざるを得ない死刑という制度は、僕にはフィクションとしての限界を踏み越えてしまっているように思われる。それがたとえ、犯罪者の生命であってもである。
このように考えてくると、僕は未だ、死刑を根拠づけるだけの十分な論理を知らない。死刑反対というより、賛成できないという方が正確かもしれない。そして、論理の破綻なく説明できる方法がない以上、死刑を行ってはならないと思う。
僕たちの道徳観念が、「生命は絶対の価値を持つ」という前提から始まっている以上、「相対的な事情を束ねたもの」と「生命」を素朴な利益衡量の天秤にかけることは許されないはず。そのような裸の価値判断は、最後の最後の手段である。
死刑について、日本の国民の間では、いまだに「ひどいことをしたのだから当然」という漠然とした賛成論が多いように感じられる。しかし、世界では死刑廃止を選択した国々のほう主流と言えるのであり、例えばEUでは死刑廃止が加盟の条件ともなっている。
裁判員制度の運用開始を控え、なぜ死刑廃止という選択肢があり得るのか、死刑の問題点は一体何かという点を、自分が選択を迫られる前に、可能な限り考え抜く必要がある。
(注1) もちろん、正当防衛等のように、場合によっては罪とみなされない殺人行為もある。しかしこれは「許される」というよりは「罰せられない」と表現したほうが正確であろう。刑法においては、正当防衛等は違法性阻却事由として、「悪くない」行為として扱われる。
(注 2) 「無期懲役でも、何年かすれば仮釈放されて出てくる」という言い方で、制度の不備が指摘される場合がある。実際に、服役中の態度が良好であれば平均20年 で仮釈放されているとのことである。しかしこれは飽くまで行政による運用の仕方であって、無期懲役という刑罰自体がそのような運用を前提としているわけで はない。運用次第では、法的には「終身刑」とする運用さえ可能である。
(注3) 昭和58年7月8日、最高裁によって永山則夫に対して下された死刑判決において示された基準。「永山基準」と言われるもの(刑集37・6・609)。