著者のピエール・テイヤール・ド・シャルダン(1881-1955)は、フランス人のカトリック司祭(イエズス会士)で、古生物学者・地質学者、さらには、思想家・哲学者。イエズス会士でありながら、進化論を支持し、科学者として人間の進化の研究で大きな業績をあげたため、教会からは国を追われ、生前は著作の出版も許されなかった。
私がシャルダンを知ったきっかけは、友人が教えてくれたサン=テグジュペリの『人間の大地』という本の訳者あとがきで、シャルダンのことがとても私の興味をひくような書きぶりで紹介されていたからだった。肝心のその紹介の内容については、忘れてしまった。確認しようと思って本棚から引っ張り出してみたところ、それは堀口大学訳の『人間の土地』新潮文庫版で、確認できなかった。私は図書館でみすず書房の『人間の大地』を読んで、その後新潮文庫版(これはこれで宮崎駿監督の短文が読めるので、貴重)を買い求めたらしい。
さて、シャルダンの主著は『現象としての人間』(1955)で、だいぶ昔読んだときにはかなり難解に感じた。本書は、訳者あとがきによるとソルボンヌ大学での講義のためにまとめられたものとのこと。『現象としての人間』よりも簡潔で読みやすい。本書の末尾には「パリ、1949年8月4日」との記載がある。
本書で主張されている科学者としてのシャルダンの思想は、およそ次のようにまとめられると思う。
宇宙は本来的にそれ自体進化するものであり、それにともなって「複雑化」する。極めて均一の原始的宇宙が、原子や分子を生み、惑星を生み、ついには生命を生むのは宇宙の進化の現れである。人間はその宇宙の進化の最先端にあり、いまだ進化を続けている。しかしそれはもはや生物学的なものではなく、精神的なものであり、最終的には惑星全体を覆う「精神圏」を生む。
シャルダンのイメージは鮮烈で、壮大。私という存在は、宇宙が組織化・複雑化した結果、必然的に現れたものだという考えには、大きく影響を受けた(関連記事「意識の元素」 )。
ただ、自然科学上の主張として考えると、現在ではもちろんのこと、当時でもやはり厳密な検証に耐える性格のものではなかったように思う。
私が一番問題があると感じたのは、宇宙を進化させる力とは、一体何かということ。力というからには、物質に現実に働きかける何かでなくてはならないが、シャルダンはその点特に説明していないし、無論そういった力は現在見つかっていない。
もうひとつは、宇宙が複雑化=進化し続ける、という主張。しかし、地球上で私達が観察できる進化は、宇宙が極端な低エントロピー状態から始まって「熱的な死」へ向かう途中の状態に過ぎないのであって、いつまでも宇宙が複雑化し、システム化し続けると考えることは、できないだろう。
シャルダンは、こうした人間の未来を、希望に溢れたものととらえたと思う。この点は、私とは大きく違う。私は、自分が死んだ後、どんなに人間が進化しようと、私自身が何も知ることができないまま死ぬなら、何にも意味がないと感じる。それが結局、神を持つ人と、持たない人の違いなのかもしれない。私にとっては、私が死んだ後の世界が存在しているのかどうか、それすら疑問だ。
いかに人間の可能性が大きく、未来が明るくとも、私を含むほとんどの人間はそれに与ることなく死んでしまう。シャルダンのような思想においては、そうした人間たちの生命は、どのようにして報われると考えるのだろう?他の著書には書いてあるのだろうか。
シャルダンはそうした破天荒な主張をしたために、怪しげな疑似科学のような扱いを受けることもあるようだ。しかし、シャルダンと北京原人の発見を描いた『神父と頭蓋骨』(アミール・D・アクゼル著、2010)のような本を読むと、シャルダンがいかにプロフェッショナルな科学者で、厳しい鍛錬を受けた人だったかということが分る。単なる偶然の堆積とは到底考えられない進化のエネルギーを、シャルダンは膨大なフィールドワークのなかで実感していたのだろう。
<関連記事> 「意識の元素」
私がシャルダンを知ったきっかけは、友人が教えてくれたサン=テグジュペリの『人間の大地』という本の訳者あとがきで、シャルダンのことがとても私の興味をひくような書きぶりで紹介されていたからだった。肝心のその紹介の内容については、忘れてしまった。確認しようと思って本棚から引っ張り出してみたところ、それは堀口大学訳の『人間の土地』新潮文庫版で、確認できなかった。私は図書館でみすず書房の『人間の大地』を読んで、その後新潮文庫版(これはこれで宮崎駿監督の短文が読めるので、貴重)を買い求めたらしい。
さて、シャルダンの主著は『現象としての人間』(1955)で、だいぶ昔読んだときにはかなり難解に感じた。本書は、訳者あとがきによるとソルボンヌ大学での講義のためにまとめられたものとのこと。『現象としての人間』よりも簡潔で読みやすい。本書の末尾には「パリ、1949年8月4日」との記載がある。
本書で主張されている科学者としてのシャルダンの思想は、およそ次のようにまとめられると思う。
宇宙は本来的にそれ自体進化するものであり、それにともなって「複雑化」する。極めて均一の原始的宇宙が、原子や分子を生み、惑星を生み、ついには生命を生むのは宇宙の進化の現れである。人間はその宇宙の進化の最先端にあり、いまだ進化を続けている。しかしそれはもはや生物学的なものではなく、精神的なものであり、最終的には惑星全体を覆う「精神圏」を生む。
シャルダンのイメージは鮮烈で、壮大。私という存在は、宇宙が組織化・複雑化した結果、必然的に現れたものだという考えには、大きく影響を受けた(関連記事「意識の元素」 )。
ただ、自然科学上の主張として考えると、現在ではもちろんのこと、当時でもやはり厳密な検証に耐える性格のものではなかったように思う。
私が一番問題があると感じたのは、宇宙を進化させる力とは、一体何かということ。力というからには、物質に現実に働きかける何かでなくてはならないが、シャルダンはその点特に説明していないし、無論そういった力は現在見つかっていない。
もうひとつは、宇宙が複雑化=進化し続ける、という主張。しかし、地球上で私達が観察できる進化は、宇宙が極端な低エントロピー状態から始まって「熱的な死」へ向かう途中の状態に過ぎないのであって、いつまでも宇宙が複雑化し、システム化し続けると考えることは、できないだろう。
シャルダンは、こうした人間の未来を、希望に溢れたものととらえたと思う。この点は、私とは大きく違う。私は、自分が死んだ後、どんなに人間が進化しようと、私自身が何も知ることができないまま死ぬなら、何にも意味がないと感じる。それが結局、神を持つ人と、持たない人の違いなのかもしれない。私にとっては、私が死んだ後の世界が存在しているのかどうか、それすら疑問だ。
いかに人間の可能性が大きく、未来が明るくとも、私を含むほとんどの人間はそれに与ることなく死んでしまう。シャルダンのような思想においては、そうした人間たちの生命は、どのようにして報われると考えるのだろう?他の著書には書いてあるのだろうか。
シャルダンはそうした破天荒な主張をしたために、怪しげな疑似科学のような扱いを受けることもあるようだ。しかし、シャルダンと北京原人の発見を描いた『神父と頭蓋骨』(アミール・D・アクゼル著、2010)のような本を読むと、シャルダンがいかにプロフェッショナルな科学者で、厳しい鍛錬を受けた人だったかということが分る。単なる偶然の堆積とは到底考えられない進化のエネルギーを、シャルダンは膨大なフィールドワークのなかで実感していたのだろう。
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