いま、モーツァルトの、「クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581」を聴こう。モーツァルトの晩年(1789年)に書かかれた、クラリネットと弦楽四重奏のための作品。これまでに創作されたあらゆる室内楽曲の うち、この作品こそ最も美しいと信じる人も、きっと多いのではないだろうか。僕自身もフルートを少し吹くけれど、確かにモーツァルトは、フルートよりもク ラリネットに注いだ愛情の方が(少なくとも器楽曲に関しては)大きかったようだ。フルートのための作品といえば、フルート吹きにとっては太陽のようなフ ルート協奏曲や四重奏曲があるが、その内容からすると、やはりクラリネットのための作品群には及ばないのである。

冒頭、イ長調の主和音を 弦楽器が静かに降りてくる。こうして僕がこの作品を聴いたとき、なぜそれが「クラリネット五重奏曲」であると分かるのだろうか。にわかに聞かれても、意外 に困ってしまう。旋律も和音の進行もなんとなく覚えているし、とにかく、自分が記憶している通りの音楽が聞こえてくるからだと、まずは答えるだろう。

で は、もしも弦楽器のパートを全く省いて演奏されたら?それでも、主要な旋律はクラリネットに出てくるし、それだけでも曲の特定くらいはできる。ではもし も、さらにクラリネットの音符のうち、2つに1つを抜いて聞かされたら?これでは、だいぶ危うくなる箇所もあるに違いない。それでも、曲の構造や全体の印 象は、きっと維持されることだろう。では、さらに音符の4分の3を抜いたら?8分の7を抜いたら?・・・たった1つの音符以外の全てを省いたら?当然、そ の過程のどこかで、僕はそれがモーツァルトのクラリネット五重奏であることを認識できなくなってしまうに違いない。

しかし、たくさんの音 符を抜かれてしまったその穴だらけの「作品」が、どの時点で「クラリネット五重奏」では「なくなった」のか線を引くことは、不可能なはずだ。それは、ある 時点で「クラリネット五重奏」で「なくなった」のではなく、それを「クラリネット五重奏」であらしめる何かが、限りなく希薄になっていってしまったと言う べきだろう。

それでも、最後に残ったたった1つの音符でさえ、それは「モーツァルトのクラリネット五重奏曲」たる個性を、限りなく希薄で あったとしても、内包していると言わざるを得ない。完成された作品からただ1つの音符への連続性をどこかで区切ることは、原理的に、僕たちにはできないか らだ。

これと同じことを、僕達の「意識」について、時折に考えてみる。意識は、「自我」や、もっと簡単に「自分」と言い換えることもでき る。僕たちは、自分の意思とは無関係に生を与えられ、また取られる。気がつくと僕はこの世界に生きており、なぜか生きており、またすぐに死んでしまう。誰 もが、この事実の不可解さと理不尽さについて思ったことがあるに違いない。僕がこの後、生きて、死んで、どこへ行くのか。それはまだ分からない。だからせ めて、どうして、いつから僕が「僕」として在ったのかを考えたくなる。

「意識」についての考え方には様々なものがあるが、最も簡単で一般 的なのが、コンピューターのプログラムのようなものという把握ではないだろうか。脳細胞がコンピューター素子、そのネットワークの中で動作する意識はプロ グラムというわけである。「自由意志」という非常に難しい問題があるとはいえ、意識が神経組織の構造と堅固に結びついたものであることは、事実であると 言ってよいだろう。この考え方によれば、「意識」は固定されたモノとしてあるのではなく、神経組織という構造物の中の、ある「パターン」として立ち現れる ことになる。この「パターン」は、徐々に複雑さを増しながら(ある部分はきっと壊れたり、消失してしまったりしながら)、現在の僕となったのだろう。で は、もしその考え方を採用したとすると、この「パターン」はいつから「僕」になったのだろう?

10年前、僕は既に、確かに僕であった。現在とほとんど変わらぬ価値基準で行動していた部分もたくさんあるし、今も鮮明な数々の想い出もある。
では、20年前は?記憶はだいぶあやふやだが、それでも覚えていることもある。その頃生まれた妹は今も間違いなく僕の妹であるし、やはり僕であったことは明らかだろう。
で は生まれる前、胎児であった時は?当然その時の記憶はないが、胎児の時は僕でなかったということはできない。両親は母親の胎内にあった時から僕を僕の今の 名前で認識し、それは今日まで連なっている。いかに脳内の「パターン」が未発達だったとはいえ、胎児にも脳があり個性があり、それはやはり既に「僕」だっ たと言える。僕の意識は羊水の中で外の世界へかすかに不安を感じていたかもしれない。
では、胎児の形さえしていなかった受精卵では?もう明らかだ とは思うが、同様に考えてゆく限り、ここにも僕の「意識」は存在していたと言わざるを得ないのである。なぜなら、受精卵が細胞分裂を繰り返して神経、果て は脳を形作る過程において、明確な境界線があるわけではないからだ。
そして同じ理由で、結びつく前の精子と卵子、それを構成するたんぱく質、その 炭素原子、その中の電子や陽子でさえ、限りなく希薄ではあるけれど、既に「僕」の要素を備えていたと言わざるを得ない。こうして考えると、僕の「意識」 は、世界を構成する最も原始的な要素の中に、既に内包されている。たった1音が、クラリネット五重奏への可能性を確かに含んでいるように。

「意 識」は原子と同様、世界を構成する基本的な要素として、そうして拡散しているのかもしれない。それがある秩序をもって組み合わされる時、その規模と複雑さ の度合いに関連して、僕たちが認識し得るような意識が立ち現れるのかもしれない。そう考えれば植物、言ってしまえば非生命とされる構造物(椅子やテーブル や、絵画や楽譜)にさえ、程度の差はあれ、「意識」が存在すると考えることもできる。

「僕」という「意識」は、砂丘の上に吹き付ける風が 描いた風紋のようなものかもしれないと感じることがある。世界の中で均一に拡散していた「意識」の元素が、何によってか吹き集められ、「僕」に形作られ る。静まり返った宇宙の中の、ふとした不均一。何によって、何のためにその風が起こされたのかは、僕は絶対に知ることはできないだろう。これは恐ろしくなる程に理不尽なことではあるけれど、「僕」というものが絶対的な、けれど前も後もない何かと考えるより、少しは、安らぐものに感じられる気もする。