人は「結晶」を持って行くー小川洋子インタビュー(ケヤキブンガクVol.4) | 今日も花曇り

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図書館で偶然『ケヤキブンガク』という文芸誌を目にしました。

全く知らない雑誌だったのですが、小川洋子さんのロングインタビューが掲載されていて、読んでみたら大変いいインタビューで、心に残りました。

こんな言葉を知る機会を与えてくれる、図書館というのは本当にありがたい場所だと改めて思いました。

 

 

全部をそっくり引用したいくらいなのですが、それはできないので、心に残った部分を紹介します。

 

インタビュアーが小川さんの『夕暮れの給食室と雨のプール』とオウム事件に触れたのに対して

死刑は執行されましたけれど、彼らはね、きっと裁判で、言葉にできないものがいっぱいあったと思うんです。それを言葉にできないまま、彼らは死んでいったのですが、そこをすくい取るのが物語の力で、やはり調書に残る言葉だけでは、解明できないんですね。(中略)

オウム真理教の信者が言っていましたね。自分は悩みを抱えて、いろいろな宗教を渡り歩いた。でも教会へ行って人の話を聞いても、それが風景みたいに通り過ぎていったと。私はそれを聞いて、風景でいいんじゃないかと思ったんですよ。風景が通り過ぎて、その風景を見て、自分の心の中でね「ああ、そこに森がある」「川がある」と自分の心を映し出していけば、それが宗教なんじゃないかと思うのだけれど、それでは物足りなかったんでしょうね。もっと強い力でこっちへ来いって引っ張ってくれるものが必要だったんでしょう。本当にそれが気の毒だなと思いました。その風景の中に物語を見出せれば、オウム真理教に行かなくてすんだのだと思います。(29頁)

先日ちょうど、人はなぜフィクションを必要とするのかについて書いたところだったのですが、そのヒントにもなるお話でした。

 

小川さんの『密やかな結晶』が映画化されることの話題を前提に、老いることについて。

やはりだんだんこの年になってくると失うものが増えてくるわけですよね。それを「無くしたくない」とすがりつくと、余計に辛くなる。

以前、上皇后美智子様がおっしゃっていましたよね? 首が痛くなってピアノを弾くことが出来なくなったときに、 「ピアノを弾く喜びはお返ししました」と。

いろんなことができなくなる、頭の回転が遅くなるんだけれども、それはもう自然のなせる業なんだからジタバタするのではなくて、残っていくものを楽しみにする。

「ピアノを弾く喜びはお返ししました」・・・美智子上皇后はそんな素晴らしい言葉を使われる方だったのかと、初めて知らされました。

 

最後に、じゃあ自分がもし認知症になった時に何が残るんだろうかというと、それが自分が一生をかけてこしらえた「結晶」だと思うんです。

うちの父は、最後の方は認知症が進んで娘のことも分からなくなってしまったんですけれども、本を持って行って、「私が書いた新しい本よ」って言うと、「これ全部あなたが書いたんですか? こんなに書いたら死んでしまいますよ」って心配してくれたんです。

ああそうか、娘はわからなくなったけれども、心配する心が「結晶」として残っていて、ありがたいなと思いました。人生の最終盤にいる父から、心配する心の恩恵を受けることができる。認知症は社会問題ですけれども、ちゃんと恵みももたらしてくれるという経験をしました。(中略)

人は、その人の大事なものをもって、次の世界へ行くのではないでしょうか。誰でも大事なものは百も二百もあるわけじゃないので、ひとつの「結晶」を持って行くのだと思いたいですね。(以上、39頁)

この部分を読むとどうしても涙が出てしまうのですが・・・

 

私は幸い、認知症の親族を介護するつらさも、自分の認知能力が衰えていく苦しさも、まだ経験したことがありません。

でも遠くない将来、大変な現実に直面したとき、小川さんの言葉を思い出したいと思いました。

 

私が次の世界へ持って行ける結晶はどんなだろう。

結晶というのは時間をかけて作られるものなので、とうに人生折り返している私は今さらどうにもならないかもしれませんが、少しでも醜くないものにしたいと思いました。