過去記憶の同一は「生まれ変わり」を意味するか? | 今日も花曇り

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

先日の投稿に関連して

 

 

前世を記憶する子どもたちが存在することが、当然に「生まれ変わり」の証拠となるわけではありません。

そうした子どもには、何らかの原因で過去の記憶がインプットされただけで、過去の人格そのものが宿っているわけではないと考えることもできるからです。

 

この点、著者のスティーブンソンは、記憶だけでなく、本人の趣味、生活様式、行動の癖、身体的特徴等までも故人と同じ傾向を示すケースが多いことから、単に記憶が同一というわけではない「生まれ変わり」説を、控えめながら支持しています。

 

私も知らなかったのですが、調べてみるとこの「人格の同一性」問題、つまり、人を「その人」と定めるものは何なのか、という問題は、古くから哲学者が取り組んできた問題とのことでした。

 

 

確かに、これは難しい・・・

 

もし世界のどこかで、私と全く(またはほとんど同じ)記憶があると主張する人が現れたとしても、私は私で現にいるわけですから、人格として同一だとは言えないと思います(そんな言われたら困る!)。

 

一方で、仮に記憶喪失で過去の記憶を全て失った人がいたとしても、一般的な感覚だと、記憶を失っただけで人格は同一、と考えると思います(本人としては微妙ですが・・・)。

 

つまり、記憶の同一性は、たぶん人格の(重要ではあるものの)一要素にすぎないと私としては思われるのです。

 

私自身は、いまのところは、生まれ変わりは真実であってほしいという気持ちの方が少し強いです。