先日、マイケル・サンデル「それをお金で買いますか 市場主義の限界」について投稿しました。
この本のなかには興味深い議論がたくさんあって紹介し切れないのですが、「罰金と料金の違い」というものがありました。
例えば、国立公園でゴミをポイ捨てする場合、その罰金が5000円であるのと、5000円の料金を払えばポイ捨てしてもよい、というのと、何か違いはあるでしょうか。
経済学的には、ポイ捨てする人にとってのコストは同じであり、何ら違いはありません。
しかし、直感的には、明らかに何かが違います。
本では、こんなふうに書かれています。
「罰金が道徳的な非難を表しているのに対し、料金は道徳的な判断をいっさい含んでいない。
ゴミのポイ捨てに罰金を科すとき、われわれはポイ捨ては悪いことだと言っているのだ。
(中略)そこには、われわれの社会がやめてほしいと願う悪しき姿勢が表れている。」
(第2章「インセンティブ」)
これは大変分かりやすい説明です。
確かに、たとえば日本でも傷害罪には50万円以下の罰金の定めがありますが、それを払えば人にケガをさせてもよい、というわけではもちろんありません。
そしてときには、その罰金すら、問題を「お金」にしたことで道徳的規範が失われてしまう場合があるようです。
イスラエルのいくつかの保育所に関する研究が紹介されています。
それらの保育所は、親の迎えが遅れる問題に直面し、遅れた場合に罰金をとることにしたところ、かえって遅れる場合が増加した、というものです。
以前なら、遅刻して迷惑をかけることに後ろめたさを感じていた親が、単にサービスに対して延長料金(罰金)を支払っているだけ、という意識に変化してしまったというのです。
いまは、どんな事柄もまずコストで説明する風潮を感じますし、数字が出るとなんとなく説得力がある気がしてしまうのですが、それにより失われてしまう規範がないのか、問題ごとに考えなければならないと思います。