『それをお金で買いますか 市場主義の限界』(マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳) | 今日も花曇り

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以前に読んだ『これからの「正義」の話をしよう』の続きで読みました。

 

 

原題は "WHAT MONEY CAN'T BUY  The Moral Limits of Markets" です。

原題にあるとおり、市場は万能ではなく、道徳的な限界があり、それが何かを考察する内容です。

 

実は、著者の主張は、序章で要領よくまとめられており、その後の1章からはその具体的な例に即しての検討です。

その序章から引用すれば

 

「あるものを売買してもかまわないと判断するとき、われわれはそれを商品として、利益を得る道具、使うための道具として扱うのが妥当だと、少なくとも心のなかでは判断している。

しかし、このやり方であらゆるものの価値が適切に測れるわけではない。

最もわかりやすい例が人間だ。

奴隷制がおぞましいのは、人間を商品扱いし、競(せ)りの対象とするからだ。

こうした扱いによって、人間の価値を適切に評価することはできない。

人間は尊厳と尊敬に値する人格として評価すべきであり、利益を得るための道具、利用する対象とみなしてはならないのだ。」

 

「生きていくうえで大切なもののなかには、商品になると腐敗したり堕落したりするものがあるということだ。

したがって、市場がふさわしい場所はどこで、一定の距離を保つべき場所はどこかを決めるには、問題となる善ー健康、教育、家庭生活、自然、芸術、市民の義務などーの価値をどう測るべきかを決めなければならない。

これらは道徳的・政治的な問題であり、単なる経済問題ではない。

問題を解決するには、それらの善の道徳的な意味と、その価値を測るのにふさわしい方法を、問題ごとに議論する必要がある。」

 

前著の『これからの「正義」の・・』と比べると、論点が絞られている分、理解も容易に感じます。

 

著者は、市場そのものを批判するのではなく、市場が、これまでは非市場主義的と考えられてきた領域に侵入することが問題だといいます。

その例として米国における豊富な具体例が挙げられており、私達からするとびっくりするようなものもあれば、日本でもすっかり当たり前になってしまったものもあります。

例えば・・・

 

〇絶滅の危機に瀕したクロサイを撃つ権利・・15万ドル(約2100万円)

〇民間軍事会社の一員としてソマリアやアフガニスタンで戦う・・ひと月250ドル(約3万5000円)から1日1000ドル(約14万円)まで

〇成績不振校の生徒が本を1冊読む・・2ドル(約280円)

 

私は「コスパ」(それと「タイパ」)という言葉が正直とても嫌いなのですが、なぜそう感じるのか、この本を読んでわかった気がしました。

本来はコストとの対比で評価すべきでないものにそれが使われることが多くて、嫌なのです。

例えば、恋愛、教育、芸術などです。

こうしたものを「コスパ」で評価するのも当然という風潮とすれば、深刻な病だと思います。

 

ちょうど先日読んだ『武器としての資本論』(白井聡著)でも、こうした傾向が資本主義による「包摂」という用語で説明されていました(ただしこの本はあまり好きではありません)。

 

前著でも感じましたが、著者の言葉の使い方には感銘を受けます。

正確で論理的、こじつけたり、主観の押し付けがありません。

でも主張は明確で、控えめなユーモアも込められています。

言葉はこんなふうに使いたいものだという気がします。

それを感じ取れる翻訳も素晴らしいと思います。

 

ただ、この本を読むと、市場の浸食作用の凄まじさに、私たちは本当にこれを押しとどめることはできるだろうか、気がついたときにはもう回復不能になっているのではないかと、かなり絶望感をおぼえます。

バブルやリーマンショックを体験しても、私たちは市場へ疑問を抱くどころか、いっそう市場価値で人生を評価するようになった気がします。