この本は、ここ1年くらいの間に読んた中では、最も丁寧に書かれ、内容の深さを感じた本のひとつでした。
著者はハーバード大学の教授で、本は大学での学部科目「JUSTICE」の講義を下敷きにしているそうです。
日本でも2011年に出版されて大変売れた本とのこと(例によって私自身は3周遅れくらいですが)。
以前に読んだ『世界は贈与でできている』(近内悠太 著)で著者の本が紹介されていたが著者を知ったきっかけです
邦題はビジネスマン向け自己啓発本の宣伝文句みたいですが、原題は
“JUSTICE: What's the right Thing to Do?”
直訳すると「正義-正しい行いとは何か」でしょうか。
全く色気のないタイトルですが、本の内容にはこのほうがずっとふさわしい。
「いまを生き延びるため」なんてニュアンスは、本文には全くないのですから。
翻訳ものではこうしたことが少なくありません(映画の題名もそう)。
よい作品でも売れないと仕方がないので、販売側の苦労もわかるのですが、作品自体の価値を下げてしまうようで、なんとなく残念です。
前置きが長くなりましたが、本の内容は、題名のとおり「正義とは何か」。
哲学ど真ん中の内容ではありますが、常に、現実の問題(税金による企業の救済、所得の不平等、兵役、等々・・)にあてはめて議論されるため、読んでいても実感があり、抽象論に終わりません。
「正義」というと大上段な感じがしますが、私たちが日常的に目にする社会的な論争は、いつだって何らかの正義をめぐる争いです。
正義に関する問題に接すると、私たちの心には無視できないざわつきが生まれます。
例えば今の状況であれば、医療機関に重度の肺炎の患者が搬送された際、限られた医療資源をどこに配分するのか、治癒の可能性のある患者を優先することは「正しい」のか。
哲学者が考え抜こうとするのは、こうした倫理上の深刻なジレンマが生じる場面です。
著者は、正義の基準として、哲学者たちが積み上げてきた議論から、3つの立場を紹介します。
ベンサムとミルの功利主義、カントとロールズの自由主義、アリストテレスの目的論的思考です。
読んでみると、私たちが議論の際に持ち出す論拠はだいたいこれらのどれかにあてはまると言ってよく、自分たちではその時一生懸命考えているつもりでも、実は大昔から哲学者が徹底的に議論してきたところなんだなあと知ると、その成果を知らずにいるのはもったいない、と感じます。
この本の内容は非常に濃いので思うところを書き出すときりがないのですが、一番感銘を受けるのは、物事を考える、その姿勢です。
哲学的に思考するとはこういうことなのかと思います。
正義とは何か、なんて、はっきり言って絶対に明白な結論なんて出せっこありません。
何かの判断基準を設定すれば、なぜその基準が正しいと言えるのかという新たな疑問が生じるのは避けられないため、必ず堂々巡りになります。
でも、哲学はそこで諦めないんですね。
説明できなくなれば、別の視点を探し、別の表現を探し、新しく概念をこしらえることさえする。
決して結論が出ないとしても、その限界線の輪郭だけでも明らかにしようとする。
その努力、粘り強さ、誠実さ、しつこさ(!)
「こうした混乱の力と、その混乱の分析を迫る圧力を感じることが、哲学への衝動なのだ。こうした葛藤に直面して、われわれは正しい行為についての判断を修正するかもしれないし、あるいは、当初は信じていた原則を見直すかもしれない。新たな状況に出会って、自分の判断と原則のあいだを行きつ戻りつし、たがいを参照しつつ判断や原則を修正する。この心の動き、つまり行動の世界から理性の領域へ移り、そしてまた戻る動きのなかにこそ道徳についての考察が存在する」(第1章)
理性とか知性を信じる西洋の文化のすごみというか、厚みを感じます。
この本を読んで、なぜ自分がノア・ハラリの『ホモ・デウス』の描く未来にあれほど反発を感じたのか分かった気がしました。
全ての問題はただのデータ処理というその態度が、結局は思考停止で全く理性を用いていないためなのでした。
著者は、現代では個人の自由をあまりに尊重するため、政治が過度に価値中立となり、道徳的な価値観を切り捨ててしまったことが問題だと指摘します。
そして、政治に道徳的目的を掲げることについて、著者自身が生きている中で最も有望な発言をした政治家として、ロバート・F・ケネディをあげています。
1968年3月18日のカンザス大学での演説の一部を紹介しているのですが、それが非常に感動的で、読むたびに涙が出ます。
少し長いですが引用します。
「アメリカのGNP(国民総生産)はいまや年間8000億ドルを超えています。
しかし、そのGNPの内訳には、大気汚染、タバコの広告、高速道路から多数の遺体を撤去するための救急車も含まれています。
玄関のドアにつける特製の錠と、それを破る人たちの入る監獄も含まれています。
セコイアの伐採、節操なく広がる都市によって失われる自然の驚異も含まれています。
ナパーム弾、核弾頭、都市の暴動で警察が出動させる装甲車も含まれています。
それに・・・子供たちにオモチャを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれています。
それなのに、GNPには子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しません。
詩の美しさ、結婚の強さ、市民の論争の知性、公務員の品位は含まれていません。
われわれの機知も勇気も、知恵も学識も、思いやりも国への献身も、評価されません。
要するに、GNPが評価するのは、生き甲斐のある人生をつくるもの以外のすべてです。
そして、GNPはアメリカのすべてをわれわれに教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれないのです。」
この言葉にどうしてこんなに感動するのか、自分でもよくわからないのですが・・・。
ケネディといえばJFKの方しか知らなかったのですが、ロバート・F・ケネディという人はこんなに立派な言葉をもった政治家だったのかと、初めて知りました。
ひるがえって自分の国の政治家の言語の貧困を思うと、改めて深く失望してしまいます。
言っても仕方のないことではあるのですが・・。
これもまさに、政治哲学の歴史の差なのでしょうか。
選ぶほうも含めてのことですが。
最後に、この本は翻訳も素晴らしいと思いました。
著者の控えめで慎重ながら議論は厳格、でも読者にとっての分かりやすさに心を砕いている姿勢が、とてもよく伝わってきました。