読書は斧。読書は対話。 | 今日も花曇り

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読んだ本や考えたこと、仕事について。

若い頃から、趣味を書く欄があると「読書」と書いていました。
あまりに普通すぎて趣味とも言えない気がして、ちょっと嫌でした。

でも最近になってますます、読書の大切さや素晴らしさを感じます。
自分の年齢があがるにつれ、著者との「対話」をすごく感じるようになりました。

著者との対話って、よく言われますが、私自身「でも本は実際には話さないし」と、比喩の一つくらいにしか考えていませんでした。

今は、自分の頭の中の働きとして、本当に対話していると感じます。
読む意味のある本であれば、必ず、読み手の価値観や認識を変化させる部分があります。

昔読んだカフカの言葉の中に、本というものは私達の中にある凍りついた海を叩き割る斧でなければならない、というものがありました。
本当にそうだなあと感じます。

動揺して、なぜなのか、どういうことなのか問うわけですが、丁寧に書かれた本であれば、問いへの答えやヒントもまた、同じ本の中に含まれています。
思想書や学術的な本であれば、はっきりと反論や疑問の検討も行われているのが普通です。

何度も読み返して、やっと理解したり、納得したりします。
こういう作業って、現実の人間相手ではなかなかできない。
現実の人間と、ひとつのことを突き詰めて話すというのは、疲れるし、どちらかが感情を害する場合も多いし、大変です。
だから、現実の人間との対話以上に、本とはつっこんだ話ができます。

文字を持たない文化・文明から見たら、紙についたシミを眺めて感激したり、考え込んたり泣いたりするのは、ものすごく奇妙に思えるでしょうね。
そうやって何十年、何百年も前の人とだって対話できるのだから、もはや降霊術レベルです。

内容を理解して、いつでも思い出せるくらいになるまで何度も読むので、時間がかかります。
こういう読み方で読む本は、私は1年に3、4冊がせいぜいです。

世の中にはこんなに名著があるのに、死ぬまでにあと数十冊か、と考えるといかにも残念ですが、でも他人を本当に理解するのはとても大変なことなので、本来こんなものかもしれません。