Michael S. Gazzaniga は1939年生まれの脳神経科学者・心理学者で、認知神経科学の父と言われる世界的権威とのこと。
ノア・ハラリの『ホモ・デウス』を読んだ際、ハラリは「自我とはただの妄想で、意識は単なるプログラムである」との主張をするにあたり、このガザニガの著書を多数引用していたため興味を持ちました。
ガザニガは、治療のために脳梁(左右の脳をつなぐ神経線維の束)を切断した「分離脳」患者の研究で著名とのこと。
この本では、そうした研究で明らかになった脳の奇妙な仕組みと、自由意志について書かれています。
本の前半の概要は以下のような内容です。
私たちは、「私」という統一された意識があると感じています。
しかし実際には、脳内には、意識を構成する様々な要素ごとの処理を担当する「モジュール」群が分散しています。
にもかかわらず、「私」という単一の認識が生まれるのは、それらモジュールのひとつである「インタープリター・モジュール」が、各モジュールから上がってくる情報を統合し、首尾一貫する解釈を行う結果です。
時間的にも、インタープリター・モジュールが解釈するより前に、実際には各モジュールでの処理はすでに終わっており、「私」が自由意志により選択したと感じている結果は過去のものです。
意識の仕組みの不思議さに、事実をどう解釈したらよいのかわからなくなります。
意識が、時間的には現実に遅れているという事実は衝撃的です。
「私」の意識にのぼることは全て事後であり、私はこの世界のただの観客にすぎないことになるからです。
それ自体でも十分ショックですが、さらに、「私」が自由意志をなぜか感じるために、正しい選択を求めて死ぬまで迷い続けるのだとしたら、さらに絶望的に不合理です。
意識と出来事との間のこの時間差自体については以前から報告があったようで、私自身も大学時代に出会ったペンローズの『皇帝の新しい心』(1989)で知りました。
なお『皇帝の新しい心』でも分離脳患者について記述があり、ロジャー・スペローの研究として紹介されていますが、実は本書の著者ガザニガは、このスペローの弟子筋だそうです。
なんだかご縁を感じます。
本書で最も興味深かったのは、インタープリター・モジュールの存在と機能でした。
インタープリター・モジュールは他のモジュールからあがってくる情報に解釈を施すのですが、解釈といっても、思い込みや、意識的な推論というレベルではなく、普段、私がありのままの現実そのものと感じていること自体が解釈であるということです。
例えば、因果関係は右脳が知覚します。
一方、インタープリター・モジュールは左脳にあります。
赤いボールが動いてきて青のボールに接触した瞬間、青のボールが動き出すとします。
すると、私たちは「青のボールは赤いボールとぶつかったために動き出した」と当然に認識します。
しかし、赤いボールが動いてきても、接触する前から青のボールが動きだしたり、接触してから少し時間を置いて青のボールが動き出した場合、私たちは赤のボールと青のボールの動きの因果関係を当然に感じるわけではありません(右脳の働き)。
しかし、分離脳患者は、ボールの動きにおける因果関係知覚(右脳)の情報が左脳に入ってきません。
そこでインタープリター・モジュール(左脳)は、どの場合でも因果関係を勝手に推測して、当然に青のボールは赤のボールが原因で動き出したと認識してしまいます。
患者は何も疑問を感じません。
つまり、私たちが判断の基礎にしているつもりの目の前の事実でさえ、インタープリター・モジュールの解釈の結果だということです。
またインタープリター・モジュールは、もっと高度な、物語的な解釈も自動で行ってしまいます。
例としてカプグラ症候群が紹介されています。
これは脳の異常により、近親者が瓜二つの偽者に入れ替わっている等と主張する病気です(ただしこれが純粋に精神的な原因によるのか、脳の器質的な異常が原因なのかは、実際には議論があるようです)。
患者は自分の父親について「父そっくりだが、父ではない。私の世話をするためにを父が雇ったそっくりさんである」などと主張するそうです。
ある人間の容貌が父親の容貌と一致することは判定できるのに、実際の人間との同一性を判定する部分に異常がある。
そこでインタープリター・モジュールが「雇われたそっくりさんである」という認識を作り出すらしいのです。
これは、患者がそう思い込んでいるのではなく、患者としてはそれが疑いのない事実であるということです。
このような、物語的な意味付けまでインタープリター・モジュールが自動で行ってしまうなど、にわかに信じがたい気がします。
でも、考えてみると、例えば夢などは、まさにそれだと思いました(ちょうど先日、夢のことを書いたところでした)。
夢は「私」が考え出したわけでもないのに、かなり複雑で、時には「私」なんかの発想より、よほど独創的でクリエイティブな物語を創り出します。
これこそたぶん、インタープリター・モジュールの働きなのでしょう。
ここまでが本書の前半で、後半は、自由意志と責任の議論になります。
本の原題は「Who's in Charge? Free Will and the Sience of the Brain」(責任者は誰か?自由意志と脳科学)なので、たぶん後半の方が本題のはずなのですが、率直に言ってかなり大雑把で浅い議論なので、説得力を感じませんでした。
著者は自由意志を否定せず(これは私も賛成)、精神プロセスが脳を制約することがあるといいます。
ただその根拠について著者は、意識は複雑系で創発的だからというのですが、なぜそれが根拠考えられるのか、とてもわかりづらい。
複雑系も創発的であることも、決定論的であることを覆す根拠にはなりません。
計算や予測が理論的にまたは実際として不可能であっても、決定論的であることはあります。
円周率のなかに1が100兆桁続く部分があるのか否か、決定はしているはずですが、実際に計算する前に証明することはできません。
この点の不足は著者も自覚しているようで、終章で
「この本で取りあげた話題を振りかえりながら思ったのは、精神プロセスが脳を制約する、あるいはその逆のときに起こることを、的確に伝える表現を考える必要があるということだ」
と書いています。
この本の原著は2011年出版です。
確かにもう10年前ではありますが、その時点での先端的な研究成果を踏まえてなおこの内容だとすると、自由意志の問題を科学的に扱うのは本当に難しいのだと改めて思いました。