これまで法律と関係ない話題はもうひとつ別のブログに書いていたのですが、両方ともなかなか更新できないので、読書の記事はジャンル問わずこちらに集めようと思います。
今回読んだのは、量子論における不確定性原理で有名な物理学者ウェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg 1901-76)の「現代物理学の思想」(原題 Physics and Philosophy)です。
内容は、現代物理学の哲学的な意義について。ここで言及されるのは、相対性理論と量子論です。現代物理学とはいっても、この本の出版は1958年、物理学の状況の記述としてはだいぶ古いということになると思ます。
しかし、相対論と量子論の哲学的問題は今でもあまり変わらないでしょうし、著者は量子論の創始者の一人であるハイゼンベルクその人なのですから、今でも十分読む意味を感じます。
この本の論点を短くいえば、リアリティとは何か、ということです。本文でも「リアリティ」という言葉が頻繁に使われています。
リアリティ(reality)という単語の意味は通常「現実、真実、実在」などですが、この本ではとても繊細な意味合いで使われていて、実在とか物自体と言ってしまうと、哲学用語としての意味に引っ張られてしまい、おそらく著者の意図とはずれてしまいます(本文では訳さずそのまま「リアリティ」とされており、その旨の断りが訳者後書にもあります)。
あえて言うなら、「人間が観察可能な物理的存在」と言い換えられるかもしれません。観察可能な、としたのは、例えば位相空間における確率波のように、それ自体を人間が観測できないものは、「事象についての観念と現実の事象との中間にある或るもので、まさに可能性とリアリティとのちょうど中間にある、奇妙な一種の物理的リアリティ」とみなし、リアリティとは呼んでいないためです。
なおこの点、例えばペンローズ(Roger Penrose 1931-)は著書「皇帝の新しい心」で、観測される前の、複素数の重み付けで重ね合わせられた量子状態をも「客観的物理的実在」と呼んでいます。プラトン主義者を自認するペンローズとしては、当然かもしれません。
さて、本書では相対論の哲学への影響も説明されていますが、やはり中心は量子論です。それは量子論こそが現代科学の構造における本当の割れ目である、というのが著者の考えだからです(第1章)。
確かに、量子論における量子化、観測、物質波、波動関数の収縮等の考え方は、初めて接する者にはあまりに異様で、自然がこんな姿をしているとはとても信じられないようなものです。ハイゼンベルク自身も
「わたくしはボーアと何時間にもわたって夜遅くなるまで討論して、しかもほとんど絶望に終ったことを記憶している。そうして討論が終ったとき、わたくしはひとりで近所の公園を散歩しながら、自然は原子のこれらの実験において我々にそう見えるように、そんなにばかげたものでありうるだろうかと疑問をいくたびとなく、くり返した」
と書いています。
物理学では現象を数式で表現します。通常、その数式の「意味」はおおよそ自明です。数式は、私達の目の前で起きている物理的現象を表現しているからです。しかし量子論は私たちが直接見たり触ったりすることが不可能な現象をも扱うため、量子論における数式は極めて高い精度で実験事実と合致するものの、いったいその数式は何を「意味」しているのかは、自明ではありません。そこで様々な解釈がなされることになります。
中でもボーアやハイゼンベルクら量子論創設の中心的位置していた学者から提案された解釈はコペンハーゲン派と呼ばれ、現在ではほぼ不動の解釈になっているようです。しかし、これは古典物理学的な唯物論を破壊するとして、アインシュタインやシュレーディンガーは反対しました。本書はそうしたコペンハーゲン派の解釈への反論に対する再反論の書という面もあるようです。
著者の結論は、量子論に関する哲学的な不満は、まず言語の問題であり、古典的世界にしか適用できない人間の自然言語を、そもそもそれがあてはまらない量子論的な自然にあてはめるからだとします。
またハイゼンベルクは、人間が構築する物理学は、客観的真理そのものではないことを強調しています。
「我々が観察するものは自然それ自身でなくて、我々の質問の仕方にさらされている自然だということを、考えておかなければならない。物理学における我々の科学的仕事は、我々のもっている言語で自然に問いかけ、我々の勝手に使える手段によって実験から解答を得ようとつとめることからでき上がっている。」(第3章)
でも、そう言われても、量子論反対論者は納得しないでしょう。おそらくこの点は科学的信念の問題なので、単なる言語の問題だといわれては、反対論者は余計に腹立たしいだけでしょう。
一方で興味深いのが、ハイゼンベルクは人間はそうした自然言語によるコミュニケーションしかできないのだし、それをやめるべきでもない、なぜなら自然言語は定義にあいまいな点を残しながらも、長い人間の歴史の中で確かにリアリティに結び付いたものだから、といいます。
人間は、確かにリアリティと結びつきながら、それを絶対の客観的真理として把握することはできない、というのがハイゼンベルクの結論のようです。アインシュタインやペンローズのような人からすれば悲観的に過ぎる態度かもしれませんが、とても誠実で謙虚であるとは思います。