先日観てきた是枝裕和監督の映画「そして父になる」が、ものすごくいい映画でした。
さて、だいぶ前に担当した刑事事件で、私が弁護人を担当したときのお話。
公判期日前に検察官から開示された取調請求予定の証拠の中に、ご遺族のお話を検察官が聞き取って書面にしたもの(いわゆる検面調書)があり、そこに何十通ものご遺族以外の人たちの手紙が添付されていたのです。
被害者の方が亡くなってしまった大変不幸な事件で、被害者の生前に面識のあった多くの方々が、各々その死を悼むお気持ちを手紙にしたため、それを持参したご遺族の検面調書に手紙が添付されている、という形式でした。
そして、本体であるはずの検面調書の内容といえば、ご遺族が「本日これらの手紙を持参しました」というのみの内容なのです。
私はびっくりしてしまいました。
刑事訴訟法では、人の話(供述)を書面にしたものは原則として証拠にすることはできず、被告人が証拠とすることに同意しない限りは、裁判官や検察官の面前で録取されたものが例外的に証拠にできる場合があるのみと規定されているからです。
そのとき添付されていた多数の手紙の書き手に検察官は直接話を聞いていないのですから、これを証拠とすることは基本的にできません。
調書に資料を添付することはありますが、それは多くの場合写真や図面であって、調書に録取された供述を明確にするために付けられるものです。
しかしこのときの供述調書はそうではなく、通常ならまず証拠にし得ない書面を、証拠にし得る検面調書に添付するというかたちで証拠化をはかったものでした。
これは、刑事訴訟法の潜脱以外のなにものでもありません。
率直に言って、こうした証拠を堂々と出してくる検察官の神経を疑いました。本気でこれを証拠にしようというのかと。こうした手紙を法廷へなんとか提出したいというご遺族の意向を汲んでのことなのかもしれませんが、法律家として、あんまりです。
しかし、当日は被害者関係者が多数傍聴に来られることが分かっていたので、その面前で調書を不同意とすることに被告人は相当プレッシャーを感じ、迷っていました。
相談したうえ、罪を認め反省しているとはいっても、不当な方法で作られた証拠まで認めることはできないとの結論に至りました。その旨を検察官に伝えたところ、ひともめしましたが、結局証拠調べ請求自体なされませんでした。
基本的に、私は検察官とも出来る部分は協力し合いたいと考えているタイプなのですが、こうしたことがあると、やはりだいぶ感覚のズレがあるなあと痛感せざるをえないのでした。
※なおこの記事では、そもそも情状に関する証明は自由な証明で足りるとの議論はひとまず措いてあります。