自らメリーゴーランドに乗って困っていると言う人達 | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

一昨日書いた日記です。


大切なのは後半から。



税金が政治家の女遊びに使われているのは本当に論外な話で、これもまた昭和の後遺症だと俺は思うけど、

このニュースの中で一番驚いたのは3:30の部分にある、

「役職辞任した藤原青年局長の後任に今日、2児の母、鈴木貴子衆院議員が起用されました」

というナレーションだった。



もう一度言います。



「役職辞任した藤原青年局長の後任に今日、2児の母、鈴木貴子衆院議員が起用されました」



もう一度言います。



「役職辞任した藤原青年局長の後任に今日、2児の母、鈴木貴子衆院議員が起用されました」



何かおかしくないですか?



もう一度言います。



「役職辞任した藤原青年局長の後任に今日、2児の母、鈴木貴子衆院議員が起用されました」



わかります?



もう一度言いますね。



「役職辞任した藤原青年局長の後任に今日、2児の母、鈴木貴子衆院議員が起用されました」



わからんですか?



もう一度言いますね。



「役職辞任した藤原青年局長の後任に今日、2児の母、鈴木貴子衆院議員が起用されました」



えーっと、

それ必要ですか?

明らかな意図を感じる部分ですが、

俺はこうした性別によって正義だの悪だの、可哀想な被害者だの、加害者だの、

ステレオタイプな刷り込みや固定観念、偏見が依存症の視点から見て大嫌いなんです。

因みにこの“依存症の視点”とは、殆んどの人が共依存症に侵されていると言われる日本人女性や、同じく“悪”や暴君であることを刷り込まれている男性諸君のことです(そもそも上のナレーションが普通にまかり通るお国柄病)。



いや、だったらチップを口移ししている議員とかもイチイチ“○児の父”と紹介しろよ。

そもそも「子育ては夫婦で行いましょう」と言われている時代に未だに、いかにも女性だけが子育てで苦労しているかのものの言い方。

しかも育児休暇に恵まれてそうな議員の話題で。

これが日本の報道の自由や正確さが世界的に低い理由なんですよね。

本当に虫酸が走る。



昨日、俺はとある保健所主催の依存症家族教室に出席してきました。

毎月一度必ず足を運んでいるのですが、昨日の議題は“依存症者の暴力からどうやって自分を守るか”という内容でした。

そのテーマを見てすぐに俺は『あー、またいつもの“女は可哀想な被害者です”か…。これが依存症の原因でもあるのに…、どうせ依存症は旦那(男)で困っているのは女という設定で始まるのでしょ?』と白けた所でしたが、

その内容は意外にも始まりから「あなたがそうさせている」だったことは驚きでした。

その直前に俺は“そう”話していたのです。



“あなたが変わるしかない”

“あなたがそうさせている”

そんな文章を一通り聞き終えた後に感想を求められた俺は、

「家族に向けたこんなにいい勉強材料があったことに驚いている。しかし、これを聞いた家族(俺の頭の中は妻、または両親)は十中八九“でも、だって”から始まるだろう」と答えた。

現実はそうで、あなたよりも何十倍も知識や経験のある専門職や回復者がそう言っても、これを素直に聞き入れる人を俺は見たことがない。

「困っています、助けてください」と来るのはいいけど、大抵が自分の求めた答えとは違った時点で耳栓をしてしまうか、

ここで、または、ここにいる誰かが治してくれると思ってやってくる。

が、まずそれはない。

だから俺は、

「依存症はアルコールを飲む動作の病気ではなくてあくまでも心理学、精神科。考え方そのものが“否認の病気”。だから自分のことを被害者だと思い込んでいる家族も必ず否認から入る、つまり依存症の人。」と言う。

自分の浅い知識や経験、つまり自分だけの普通以外を受け入れようとはせず“でも、だって”を巧妙に使い正当化、つまり否認をすることに依存してしまっている。

“否認の病気”と言うけれど、本人にとってはそれが“普通”であり、周りから見たら“否認”でしかなく、こちらから見たらあなたが“おかしい”のであって、お互いにしていることは“自分だけの普通の押し付け合い”なのだ。



俺は依存症を見る上で“人と人の関係性”を重要視する。

昭和で特に刷り込まれた“男女”という呪いを、

まるで壇上で演劇をさせられているように、今を生きる男も女も、その刷り込みで暴力を奮わされたり、奮われたり、被害、加害、可哀想、ズルいなど、無意識レベルで演じさせられているだけなのだ。

今でもつくづく感じるのは、俺は平和を愛し、トラブルが苦手な人間だ。

しかし、幼い時から暴力に悩まされ、そして親からしたくもない喧嘩や暴力を無理矢理させられていた。

それは弱い親父のコンプレックスであり、俺は親父が俺に求めた“歪んだ男らしさ”や暴力的な強さ以前に、

性別こそ男であるが、男でも女でもなく、俺は俺だったのだ。



1つの例えを挙げてみる。

メリーゴーランドの話だ。

どれが先頭の馬かは置いといて、その馬はアルコールの入った瓶を咥えている。

その馬を後ろで必死に追いかけているアルコール依存症者がいる。

そのアルコール依存症者を必死に追いかけている配偶者や両親がいる。

その両親を『私達を見て!』と悲しそうに追いかけている子供がいる。

ずっと同じところをグルグル、グルグルと、慌てふためいて走っている人達がいる。

このメリーゴーランドで起きていることは結局、皆が酒を追いかけており、それしか見えていないということだ。

依存症の世界を長年見てきて本当に驚くのは、アルコール依存症と診断された人なら納得も行くが、

なぜか「依存症者の家族に悩んでいる」と言っている“被害者面”した人達の方が“アルコール”を手放そうとしない。

これは物理的な話ではなく心理的な話であり、被害者面した人達の多くはアルコールを飲まなくともアルコールという存在に囚われている。

巧妙に利用している。

まさに酒瓶を咥えた馬を追いかけることに必死で、

本質を説けば、“被害者”という立場に依存し、意地でもその立場(生き方)を変えようとしない。

そもそも人間は良い変化ですら、変化を恐れる生き物だ。



ところが、俺の元嫁はすぐにこのメリーゴーランドから降りた。

本当に酷い女性だったが、この部分だけは『凄い』と感じたし、離婚してくれたことには今でも感謝している(俺は絶対に離婚したくなかったが)。

そして俺も精神病院幽閉中にこのメリーゴーランドに気付きその場を降りた。

そして俺が降りた後のメリーゴーランドを、それでも追いかけ続ける母、3歳歳上の養子、その後ろを追いかける姉、その後ろで無関心そうに馬に跨がっている弟を降りた先から暫く見つめ、

俺はその人達と絶縁をした。

この人達の近くにいては、いつまでも可哀想な母親を苦しめる加害者役を俺は求められ演じなくてはならない。

そうすることによって兄弟達に“母を護る”という誤った大義を与え、不幸の連鎖が永遠にループしてしまう。

親でもある兄弟達も我が子、我が配偶者とそれを繰り返し…………、

それに、気付いて見れば、俺はこのメリーゴーランドで酒乱の父を追う母の背中を必死に追いかけていたはずなのに、

俺もやっぱり酒瓶を咥えた馬を追いかけさせられていたのだと気付いたのだった。

いや、

俺は酒瓶を追う父を追いかけていた母の後ろ姿をずっと追いかけていたのに、先頭を走っていた父を16歳で亡くしてからいつの間にか母を追い抜き先頭を走っていた。

きっと幼い傷を背負ったままの俺はそれに気付いて欲しくて母を追い越し、

現に末期状態だった俺は常に母に向かって「何故、あの時(幼い頃の虐待を受けている)俺を助けてくれなかったのだ?」と酒や薬を飲みながら訴え続けていたのだ。



絶縁してから俺は必死に回復過程を歩み、毎晩のように九州各地の自助グループをスクーターで走り回っていた。

その帰りに俺は車に跳ねられ救急搬送されてしまう。

その救急車内で「だれか身寄りは?」との質問に俺は「誰もいない」と答えつづけた。

しかし、身寄りがいなくては病院に搬送出来ないと押し問答が続き、母の連絡先を伝えた。

救急搬送された俺を見に来た母は病んで精神薬を服用しており、自分の妹にささえられ俺の前に姿を表した。

その時、俺は母に向かって「今日、あんた達の虐待が認められて障がい者手帳が交付されたよ」と言った。

結局、俺の酒が問題としていた母だったが、俺が酒を止めても病んでいたのだ。



依存症が全て悪いと言っていた人達の中には、その人が酒を止めた途端、病む人が存在する。

無意識に壇上で演じさせられていた自分が被害者であるための大切な存在である加害者が居なくなってしまうわけだから、

今までそれに依存して生きてきた生き方を見失い混乱してしまうのも当たり前だし、それまでの人生で身に染み付けた“悪者を見つけて自分を確立する”生き方に混乱する。

だから俺は言う。



自分が変わるしかない。



他人は変えられないし、

他人に「変われ」と言う前に、




まず自分が変わってみろよボケ。


と言う話。



因みに、あと数日(俺は3月19日を逮捕記念日と呼んでいる)で酒、煙草、ギャンブルを断って11年だ。

引きこもりを断って9年、精神薬を断って7年。

この12年という長い時間で、果たしてあの時の俺に「変われ」と言って無理やり精神病院に幽閉した人達は何か変わったのだろうか?

元妻を含めて、きっと変わっていないと思う。

そうさせる理由は、

被害者を演じているからだろう。



私たちは自分の問題に目を向けるより、他人の心配をする方が簡単に出来る。

そうすることで例えば、自分の欠点をよく見ないで済むのだ。


最後に添えておく。

父も、母も、いつかはメリーゴーランドに乗り、誰か(主に両親)を追いかけていた。

そして俺のように気が付かない内に先頭を走っていた。

つまり、最初から罪は無く、罰もない。

だから、そんな人達が、誰かに罪や罰を求めないで欲しいと思う。

あくまでも、そのメリーゴーランドには過去、今は存在しなくとも先祖達が乗っており、ずっと同じ失敗を繰り返してきた。

世代間連鎖(世代間伝播)というメリーゴーランドなのだ。

それに気付いた子孫がそこから降り、恨むのではなく理解し、南無阿弥陀仏(例えば)と言うから先祖供養になる。

そこが理解出来ず墓参りの回数だけ重ねているのは、納経帳や札の色を濃くして自己満足している“あの人達(先達)”と同じ。



俺には昭和世代(特に女性は殆んど)が意思を持たないからくり人形に見える。

こんなことを言う理由は非難したいわけではなく、

“自分を生きて欲しい”から。

色を付けるのは、自分の人生。

その為の白さ。


持ち物ばかり色付けてどうするよ。

本尊(如来)の多くは質素なのに…、

それをお参りする者が派手でどうするよ。

神社仏閣の神の前で“おねだり”続ける人達を神の側から見たら、

その服装、その化粧で、もう充分満たされてると見えるさ。

依存症者に悩む(と自称する)人達も同じよ。



俺は今、1つの悩みを手放そうか、これもまた“悩んでいる”。

いや、逃げ出したいのだ。

しかし、何故手放そうか“悩んでいる”かと言えば、

その悩みを手放した所で、俺は必ず次の悩みを探し出すからだ。

と考えれば悩みは俺にとって必要なもの

これは多分、多くの人もそうだと思う。

長年悩んだことが遂に晴れた先にあったのは、次の悩み。

多分、人間は死ぬまでこれを続ける。

それに早く気付いて“加害者”から降りなさい。