国民年金追納に残る過去の傷痕 | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ








輪廻転生を信じていながらも、


『世の中不公平だな』と思うこともある。


年に数回だけど国民年金の追納のお知らせが届く。


それを開く度に、精神疾患に振り回された過去の取り返しのつかない傷痕を再認識させられる。



今の時代に見たくもない“Z”と言う侵略の象徴が並ぶ俺の国民年金追納のお知らせ。

“Z”とは全額免除を意味していて、何らかの理由で払えないことを示し、勿論その期間分の年金受給額は減ることになる。(全額納めた場合の半額)

追納出来るものならしたいけど、未来の不安が叫ばれる年金に追納することもリスクなのかもしれないと迷うし、

今の時代に合わせた考え方をするとすれば、我が身を守る他の手段を考えた方が“自分にとって”は賢いのかもしれない。



この国民年金追納の知らせの意味が変わりだしたのは最近の話。


この写真で言えば、俺は平成25年の3月の31歳の時に逮捕され、そこから断酒を継続しているから、

これに記載されている“Z”の文字の殆んどは、酒や煙草を断ち、必死に回復に努めている期間が多い。

勿論、依存症は病んでいた時期の3倍(2倍とも)は回復に時間を要するとも言われるから、決してのうのうと過ごしていた訳ではない。

これよりもっと過去の約10年間は、時々働くことは出来ていたから1/3程度は納められていただろうと思うが、“Z”すら表示されない未納が多い悲惨なものだろう。



精神を病んでいた時期に並ぶ“Z”の意味と、それから回復を始めてからの“Z”の文字。

書いてある文字や意味が一緒であっても、俺にとっては全然意味が変わるものだ。



『世の中不公平だな』と思うのは、

何故、俺は働ける大切な時期を精神疾患に振り回されたのだろう?という部分だ。

同じ依存症者の多くは大抵50代や定年後まで働くことが出来て、

身体が持たなくなるか、定年を迎えた後の空白に、それまで他で満たしていた依存症がアルコールやギャンブルと言う形で表面化する。

歳を重ねてから依存症と言う病気と共存するには、高齢による凝り固まった思考や、身体に染み付いてしまった“身体依存”の問題から困難ではあるが、

若くして発病したらしたで、大切な土台の時期を失い、その代償を背負って生きることに苦しむことになる。

若くして回復を始めることは後に残された時間の関係で、それはメリットとも思われるが、

そのメリットであるはずの残された人生の期間が、職歴と年齢の壁から始まる壁として牙を剥くことになる。

「若い内から断酒すれば、人生の再起は可能」

これは事実である反面、

そう出来なかった人達の妄想もかなり多く含む。




平成29年の10月からは、ありがたいことに納められており、ここ数年は調理師試験の受験資格を満たせられる程度ではあるが、働くことが出来るまで回復した。

納められている理由や、働けるようになったのはビーニャさんとの結婚や、母の協力を意味しており、彼女のお陰で俺は税金も納められ、安心して回復に充てられるようになった。

苦しめられることも多すぎるが、彼女と出会って以来“年相応”になっていく自分の色んな変化(老化)に、過去の傷からの解放をとても感じている。



先ほども述べたように、一向に理解の進まない依存症という病気の回復は一生をかけて行うものだ。

見ていると、この重すぎる十字架をやっと下ろし始めるのは80歳前後になった頃だろう。

それまでは病気の症状や後遺症は勿論、過去の代償が色んな形で壁として現れるし、

依存症という影に隠れていた病気の黒幕、

俺の場合、虐待による複雑性PTSDによる鬱、不眠、対人恐怖などの症状と“素面”で向き合い挑み続けることになる。

その苦労にも勝る“経験”や“気付き”があることを忘れず述べておきたいが、

決して平坦な道でもなく、綺麗事な世界ではないことは肝に命じて、屍の上を裸足で歩き続けたいと思う。



今、恐れることなく徹底して自分の生きてきた足音の本を書きながら、

人はこの本を読み『何て最低な人間なのだ!もっと人目を避け、息を殺し、償いながら生きろ!』と思うだろうと感じている。

こんな場所で堂々と発言している神経を疑い、旅をしている俺に『もっと苦しめ』と思うだろう。

しかし、自分で自分にこう言い聞かせている。

「それをしてどうなる?」と。



クズにはクズの生き方がある。



この世のゴミであるはずの俺が息を殺し、人目を避けて生きたところで、それは本当のゴミにしかならない。

いても、いなくても変わらないとしたら『ゴミらしく、消え失せろ』と思う。



ならば、クズの経験を世の中に少しでも生かして貰おうではないか。

「あんな人間にはなりたくない」

「あんな人生は歩みたくない」

そう思って貰えることが何よりの、

俺の人生が人の役に立てた証だろう。



最近だけで“気付く”ことなく同世代が3名亡くなりました。

アルコールにより身体を壊してしまった人と、酩酊中の事故によってです。

この道は棘の道ではなく、屍の上歩む道。

外科手術のように他人が治してくれる訳ではなく、自分を矯正していかなくてはならない。

“腐っても鯛”があるならば、

俺は新鮮になってもアル中の前科者。