新東宝で製作・公開され、阿部豊が監督を務めた。4姉妹は高峰秀子、山根寿子、轟夕起子、花井蘭子といった新東宝の看板女優を起用した。製作費は当時の作品としては破格の3800万円で、洪水シーンなどで特撮が使われている。1950年度キネマ旬報ベストテン第9位[7][8]。
監督 | 阿部豊 |
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脚本 | 八住利雄 |
原作 | 谷崎潤一郎 |
製作 | 阿部豊、竹井諒 |
出演者 | 高峰秀子 山根寿子 轟夕起子 花井蘭子 |
音楽 | 早坂文雄 |
撮影 | 山中進 |
編集 | 後藤敏男 |
製作会社 | 新東宝 |
配給 | 新東宝 |
公開 | 1950年5月17日 |
上映時間 | 145分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
製作費 | 3800万円 |
- 妙子:高峰秀子
- 雪子:山根寿子
- 幸子:轟夕起子
- 鶴子:花井蘭子
- 辰雄:伊志井寛
- 貞之助:河津清三郎
- 奥畑:田中春男
- 板倉:田崎潤
- 陣場氏:鳥羽陽之助
- 中村哲[要曖昧さ回避]
- 松尾文人
- 音やん:杉寛
- 野村:小林十九二
- 板倉の父:横山運平
- 陣場夫人:千明みゆき
- 板倉の妹:香川京子
- 悦子:山崎隆子
- 板倉の母:本間文子
- 奥畑のばあや:浦辺粂子
- お春:津山路子
- 御牧:藤田進(特別出演)
- 三好:堀雄二(特別出演)
低画質フル動画
画質がきつくて、話が全然入ってこない。
板倉:田崎潤って安倍豊監督じゃね?
宮城県桃生郡矢本町(現在の東松島市)の出身。仙台市立東二番丁小学校から私立東北中学に進学。1912年(大正元年)、中学を退学してロサンゼルス在住の叔父をたよって17歳で弟と渡米[1][2][3]。特に目的があっての渡米ではなく、何となくアメリカに憧れたのだという。農家に住み込んで農作業を手伝いながら小学校へ通い、ハイスクールへ進学。友人に誘われ演劇学校に通い始め、そこで撮影所が日本人エキストラを募集していることを知り応募、早川雪洲と青木鶴子主演の『神の怒り』に端役で出演する[3]。
それ以後、数々の映画にエキストラ出演する中で、米国在住の日本人俳優と交流するようになる。阿部は、早川・青木夫妻の居候となり、早川の求めに応じて映画の脚本を書くようになる[3]。早川の薦めでセシル・B・デミル監督の『チート』で本格的に映画デビュー。「ジャック・アベ」、「ジャック・ユタカ・アベ」の芸名で、ハリウッド映画で活躍。トーマス・H・インス(Thomas H. Ince)、フランク・ボーゼイジ(Frank Borzage)の両監督からは演出術を学び、映画監督になるべく帰国。
1925年(大正14年)に日活大将軍撮影所に入社して『母校の為めに』で監督デビューする。翌1926年(大正15年)にはハリウッドのソフィスティケート・コメディを日本映画に移植した『足にさはつた女』を制作して、日本映画に新風を吹き込んだ。
1934年(昭和9年)8月、日活を退社した永田雅一が第一映画社を立ち上げると、阿部も合流した[4]。
太平洋戦争中は東宝で活躍し、円谷英二の特撮を存分に生かした『燃ゆる大空』、『南海の花束』、『あの旗を撃て コレヒドールの最後』などの国策戦争映画に辣腕を振るう。
終戦直後の1948年(昭和23年)には、久板栄二郎の脚本により島崎藤村の『破戒』映画化に挑む。久しく俳優業から遠ざかっていた池部良を主演に迎え、市川崑や大日方伝なども参加したこの作品は、日本映画の復活を目指したものだったが、同年発生した東宝争議によって映画化は頓挫する[5]。これによって阿部は東宝に見切りをつけ、新東宝に移籍することとなった。
新東宝では『細雪』、『女といふ城』などの女性映画に才能を発揮する一方、戦後史もの『私はシベリヤの捕虜だった』や、戦争大作『戦艦大和』を手掛ける。また撮影3日目で病気降板した佐分利信監督の後を継いで、二・二六事件の初映画化である『叛乱』の監督も担当している。終戦時の宮城事件を描いた1954年(昭和29年)の『日本敗れず』では、自らプロデューサーもこなし、早川雪洲に阿南惟幾陸相役(映画での役名は川浪陸相)をオファーした意欲作だったが、興行的には振るわなかった[6]。
1955年(昭和30年)の『花真珠』を最後に新東宝を離れ、製作を再開した日活に戻る。 新東宝を離れた理由は、プロデューサーの佐川滉によれば「超A級のギャラ[注釈 1]が原因」であるという[7]。 今東光原作の話題作『春泥尼』、小林旭主演の『二連銃の鉄』などのヒット作を量産した。しかし、阿部のオーソドックスな演出スタイルが時勢に合わなくなったうえ、石原裕次郎や小林旭といったスターを起用すれば誰が監督であっても当たるという状況になり、日活側から演出料の大幅値下げを切り出されたことを契機に1961年(昭和36年)の『いのちの朝』を最後に日活を退社。本人は完全に引退したつもりではなかったが、結果的に映画界から身を引くことになった[3]。
「インターナショナル」佐々木孝丸が大和艦長役。
原作
『細雪』(ささめゆき)は、谷崎潤一郎の長編小説。1936年(昭和11年)秋から1941年(昭和16年)春までの大阪の旧家を舞台に、4姉妹の日常生活の明暗を綴った作品[1]。阪神間モダニズム時代の阪神間の生活文化を描いた作品としても知られ、全編の会話が船場言葉で書かれている。上流の大阪人の生活を描き絢爛でありながら、それゆえに第二次世界大戦前の崩壊寸前の滅びの美を内包し、挽歌的な切なさをも醸し出している[2]。作品の主な舞台は職住分離が進んだため住居のある阪神間(職場は船場)であるが、大阪(船場)文化の崩壊過程を描いている。
谷崎潤一郎の代表作であり、三島由紀夫をはじめ、多くの小説家・文芸評論家から高く評価され、しばしば近代文学の代表作に挙げられる作品である。『細雪』は昭和天皇にも献本され、天皇自身は通常文芸作品を読まないが、この作品は全部読了したと谷崎は聞いたという[1]。
谷崎は第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)に谷崎潤一郎訳源氏物語(旧訳)を完成させ、1942年(昭和17年)9月下旬には山梨県南都留郡勝山村(現在の富士河口湖町勝山)の河口湖湖畔にある富士ビューホテルに滞在しており、その滞在中の様子をモチーフとした場面が『細雪』下巻に描かれている。
1943年(昭和18年)、月刊誌『中央公論』1月号と3月号に『細雪』の第1回と第2回が掲載された。夫人の松子、義姉、義妹たち4姉妹の生活を題材にした大作だが、軍部から「内容が戦時にそぐわない」として6月号の掲載を止められた[1][2]。
谷崎はそれでも執筆を続け、1944年(昭和19年)7月には私家版の上巻を作り、友人知人に配ったりしていたが、それも軍により印刷・配布を禁止された。中巻(544枚)も完成したが出版できなかった[2]。疎開を経て、終戦後は京都の鴨川べりに住まいを移し、1948年(昭和23年)に作品を完成させた。
戦後に発表が再開されたものの、今度はGHQによる検閲を受け、戦争肯定や連合国批判に見える箇所などの改変を余儀なくされた[1]。それらの過程を経た『細雪』全巻の発表経緯を以下にまとめる。
- 1943年(昭和18年)
- 上 - 『中央公論』1月号、3月号
- 1944年(昭和19年)
- 私家版『細雪 上巻』(非売品)を7月に刊行。
- 1946年(昭和21年)
- 『細雪 上巻』を6月に中央公論社より刊行。
- 1947年(昭和22年)
- 『細雪 中巻』を2月に中央公論社より刊行。
- 下 - 『婦人公論』3月号-12月号
- 1948年(昭和23年)
- 下 - 『婦人公論』1月号-10月号
- 『細雪 下巻』を12月に中央公論社より刊行。
- 1949年(昭和24年)
- 『細雪 全巻』を12月に中央公論社より刊行。
『細雪』はベストセラーとなり、谷崎は毎日出版文化賞(1947年)や朝日文化賞(1949年)を受賞した[3]。
1950年代に、英語(The Makioka Sisters(英語))に翻訳、アメリカで出版された[4]ことを皮切りに、世界各国でも出版されており、スロベニア語・ドイツ語・イタリア語・中国語・スペイン語・ポルトガル語・フィンランド語・ギリシャ語・フランス語・セルビア語・ロシア語・韓国語・オランダ語・チェコ語・トルコ語[5]に翻訳されている。
なお、作中には年号の表記が出てこないが、作中で四季の移り変わりと、阪神間を襲った大きな気象災害(土砂災害)が克明に描かれているため、この作品は日中戦争勃発の前年1936年(昭和11年)秋から日米開戦の1941年(昭和16年)春までのことを書いているとされている[1][6]。
- 『細雪』の舞台となった場所
- 兵庫県武庫郡住吉村(現・神戸市東灘区)の谷崎の旧邸は、保存運動がNPO法人「谷崎文学友の会」と地元住民によって進められ、六甲ライナー建設による移築保存を1990年(平成2年)に成しとげ、「倚松庵」と名づけられている。
- 岐阜県不破郡垂井町表佐地区(業平川)が5月下旬から6月中旬にかけての「蛍狩り」の舞台である。同町で谷崎が執筆する為に使用した「爛柯亭」は現在同県郡上市へ移築されている。
やっぱインターナショナルの臭いがする