『戦艦大和』(せんかんやまと)は、1953年6月15日に公開された、新東宝製作・配給による戦争映画である。
日本映画で初めて戦艦大和を題材とした作品[1]。原作は吉田満の『戦艦大和ノ最期』。教導として戦艦大和の副長であった能村次郎が参加している。
大和の造形物は製作費200万円をかけた本編セットや、1/44と1/70の二種類のミニチュアが用意され、新東宝発足以来初めて大規模な特撮となった[1]。
配給収入は1億3601万円[2]。
- 総指揮 : 田辺宗英、徂徠善一
- 製作 : 篠勝三、望月利雄
- 監督 : 阿部豊
- 応援監督 : 松林宗恵
- 原作 : 吉田満 『戦艦大和ノ最期』
- 脚本 : 八住利雄
- 教導 : 能村次郎
- 撮影 : 横山実
- 照明 : 藤林甲
- 録音 : 神谷正和
- 美術 : 新藤誠吾
- 音楽 : 芥川也寸志
- 特殊撮影 : 上村貞夫、黒田武一郎
- 合成技術 : 天羽四郎
- 合成美術 : 渡辺善夫
- 編集 : 後藤敏男
- 音響効果 : 栗原嘉男
- 協賛 : 日本電気、沖電気工業、東京計器製造所、日本光学工業、丸玉屋小勝煙火店
- 副長・能村次郎大佐:藤田進
- 電測士・吉村少尉:舟橋元
- 第二艦隊司令長官・伊藤整一中将:高田稔
- 艦長・有賀幸作大佐:佐々木孝丸
- 聯合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将:小川虎之助
- 軍医長・山田少佐:見明凡太朗
- 哨戒長・臼淵大尉:伊沢一郎
- 西田少尉:片山明彦
- 高田少尉:高島忠夫
- 森少尉:片桐餘四郎
- 電探士・大森中尉:中山昭二
- 尾形少尉:丹波哲郎
- 甲板士官・江口中尉:河合健二
- 通信士・中谷少尉:和田孝
- 加藤中尉:有田稔
- 鈴木少尉:小笠原弘
- 聯合艦隊参謀1:近衛十四郎
- 聯合艦隊参謀2:中村伸郎
- 聯合艦隊参謀3:竜岡晋
- 聯合艦隊参謀4:三津田健
- 聯合艦隊参謀5:青野平義
- 聯合艦隊参謀6:宮口精二
- 補給参謀:十朱久雄
- 森少尉の妻:久我美子
- 西田少尉の妹:嵯峨美智子
- 山田軍医長の妻:関千恵子
- 瀬川路三郎
- 鈴木脩一
- ほか
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宮城県桃生郡矢本町(現在の東松島市)の出身。仙台市立東二番丁小学校から私立東北中学に進学。1912年(大正元年)、中学を退学してロサンゼルス在住の叔父をたよって17歳で弟と渡米[1][2][3]。特に目的があっての渡米ではなく、何となくアメリカに憧れたのだという。農家に住み込んで農作業を手伝いながら小学校へ通い、ハイスクールへ進学。友人に誘われ演劇学校に通い始め、そこで撮影所が日本人エキストラを募集していることを知り応募、早川雪洲と青木鶴子主演の『神の怒り』に端役で出演する[3]。
1925年(大正14年)に日活大将軍撮影所に入社して『母校の為めに』で監督デビューする。翌1926年(大正15年)にはハリウッドのソフィスティケート・コメディを日本映画に移植した『足にさはつた女』を制作して、日本映画に新風を吹き込んだ。
1934年(昭和9年)8月、日活を退社した永田雅一が第一映画社を立ち上げると、阿部も合流した[4]。
太平洋戦争中は東宝で活躍し、円谷英二の特撮を存分に生かした『燃ゆる大空』、『南海の花束』、『あの旗を撃て コレヒドールの最後』などの国策戦争映画に辣腕を振るう。
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宇宙戦艦ヤマト - Wikipedia 軍医長・山田少佐:見明凡太朗
1963年10月、オフィス・アカデミーを設立[23]。しかし金銭的には厳しく、創価学会系の民主音楽協会(民音)のイベントを中心に糊口を凌いだ[12][5]。ショー製作の本数は約200本[19]。民音事務局長で後に公明党の国会議員となる大久保直彦に重用されていたが、後に嫌われて遠ざけられたという[24]。
1968年に西ヨーロッパへ渡航し、フランス人プロモーターの進行助手となる。共産圏の舞踊団やバレエ団を招いて舞台制作をして、約1年半ヨーロッパ全土を巡業してまわり、最終的にはロードマネージャー兼マネージャーを務めた[22][21]。3年間のヨーロッパ生活で受けた人種差別に反発し、このことは後に製作した『宇宙戦艦ヤマト』に思いが込められているという[25]。