七人の花嫁・旗本退屈男 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

旗本退屈男捕物控 七人の花嫁

1950年製作/68分/日本
配給:東映
劇場公開日:1950年9月23日

 

監督
 
  萩原遼
脚本
比佐芳武
撮影
川崎新太郎
 


月形龍之介
高田浩吉
大友柳太朗
進藤英太郎
宮城千賀子
喜多川千鶴
朝雲照代
千石規子
横山エンタツ
桂春団治
桂五郎
戸上城太郎
沢村国太郎
原健作
上代勇吉
水野浩、
島田照男
団徳麿
橘公子
月宮乙女
香織由起子
松浦築枝
前田静男
岬弦太郎
山内八郎
大丸巌
伊東亮英
志茂山剛
近松竜太郎
おきときお
赤木春恵
宮川喜美枝
松平明子

 

 

フル動画前編

後編

 

 

毒殺魔殿・旗本退屈男 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

旗本退屈男捕物控 後編 毒殺魔殿|一般社団法人日本映画製作者連盟

旗本退屈男捕物控 

後編 

毒殺魔殿(1950年10月7日)

 

前編

 

 

旗本退屈男 - Wikipedia

旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)は、小説家佐々木味津三原作の時代小説および同作品に登場する主人公・早乙女主水之介さおとめもんどのすけの異名。

 

初の映画化は1930年(昭和5年)、市川右太衛門プロダクション主宰の俳優市川右太衛門が、原作小説を読んで気に入り、自ら主演作として制作した。以後33年にわたって演じ続け、これは日本映画で同一俳優が同一人物を主人公として演じた最長記録である[注釈 2]

劇中の、左手前に刀を持った主水之介の必殺の構え「諸羽流正眼崩し」は、右太衛門が狭い室内での立ち回りを考慮して編み出したものである。戦後、作を重ねるごとに派手さがエスカレートしていった主水之介の衣装も、「派手な芝居に合わせよう」という右太衛門の意向によるものだった。東映作品では新作ごとに新しい着物を仕立て、主水之介一人の「天下御免の着流し」に衣装代の8割が使われていた[1]

 

1930年の第1作『旗本退屈男』から1963年(昭和38年)の『謎の竜神岬』まで計30本が製作され、早乙女主水之介は一貫して市川右太衛門が演じ、彼の代表作となった。また次男の北大路欣也が霧島京弥役などで度々登場、親子共演が話題になった。

「禄は低けれど直参旗本」、「天下御免の向う傷!」などの決まり文句は、右太衛門独特の台詞廻しと相まって流行語化、その後のシリーズでも必ず出る名ゼリフとして定着した。

 

 

戦後チャンバラ解禁後の第1作目

東横映画 - Wikipedia

東横映画マーク - YouTube

東横映畫株式會社(とうよこえいが、1938年6月8日 設立 - 1951年3月31日 合併)は、かつて存在した日本の映画会社である。東急資本のもとに映画館経営から出発し、第二次世界大戦後に旧満洲映画協会(満映)のメンバーを中心にして、京都太秦の「大映第二撮影所」で劇映画を製作した。東映の前身の1社である。

 

1938年(昭和13年)6月8日、東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)の興行子会社として設立。社長は同電鉄の五島慶太、資本金は30万円。設立に先立つ同年3月、渋谷に開場した「東横ニュース劇場」、同年11月に開場した「五反田東横劇場」を経営。1943年(昭和18年)、昭和興業、新宿興業、京浜興業を合併して資本金を50万円に増資、劇場を7館に増やす。

 

1944年(昭和19年)3月、五島に代り浦川睦臣が社長に就任、翌1945年(昭和20年)、空襲などで全劇場を喪失。同年8月15日の終戦を経て、同年12月、十条に映画館をオープン、明けて1946年(昭和21年)1月1日、渋谷の東横百貨店内大映作品と松竹作品を公開する映画館3スクリーンのほかに、3つの劇場をオープンする。同年2月、東急本社の黒川渉三専務が兼務で社長に就任。同年内に五反田東横映画劇場を再建、新宿に映画館を開き、「多摩川園」を吸収合併し、資本金を300万円に増資。同年11月、同社の定款に映画の製作・配給を加え、大映との提携を進めた。

 

1947年(昭和22年)、大映との協定を結び、「大映第二撮影所」を借りて製作する準備が始まる。同年9月、資本金を2,000万円に増資、同撮影所を「東横映画京都撮影所」とし、旧満映のメンバーを中心に製作を開始。設立第1作は稲垣浩監督、上原謙轟夕起子主演による『こころ月の如く』で、同年9月16日に大映の配給により公開する[1]

 

1949年(昭和24年)5月、資本金を5,000万円に増資、同年9月、黒川に代り比嘉良篤が社長に就任。同年10月1日、映画配給会社「東京映画配給」を設立、従来の大映から配給を移管。移管後の第1作は松田定次監督、片岡千恵蔵主演による『獄門島』で、同年11月20日から公開された [2]。同年12月、比嘉に代り鈴木幸七が社長に就任した。

1951年(昭和26年)4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して「東映」となる。東横映画撮影所は「東映京都撮影所」に、太泉映画スタジオは「東映東京撮影所」になり、東京映画配給の配給・興行の機構は、本社および支社、直営館として東映を構成した。

同社は、製作会社としては、1947年3本[1]、1948年10本[3]、1949年12本[2]、1950年26本[4]、1951年6本[5]、合計57本を製作した。

 

2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、『のど自慢狂時代』(監督斎藤寅次郎、1949年)、『獄門島』(監督松田定次、1949年)、『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(監督関川秀雄、1950年)、『殺陣師段平』(監督マキノ正博、1950年)の4作のほか[6]、『三本指の男』(監督松田定次、1947年)[7]、『にっぽんGメン 第二話 難船﨑の血鬪』(監督松田定次、1950年)[8]、『乱れ星荒神山』 (監督萩原遼、1950年)[9]、『千石纏』(監督マキノ雅弘、1950年)[10]、『女賊と判官』(監督マキノ雅弘・萩原遼、1951年)[11]の5作の上映用プリントを新たに収蔵した。東映チャンネルは、上記のほか、『にっぽんGメン』(監督松田定次、1948年)[12]、『旗本退屈男捕物控 七人の花嫁』(監督松田定次、1950年)[13]、『旗本退屈男捕物控 毒殺魔殿』(同)[14]、および『レ・ミゼラブル あゝ無情 第一部 神と悪魔』(監督伊藤大輔、1950年)と 『レ・ミゼラブル あゝ無情 第二部 愛と自由の旗』(監督マキノ雅弘、1950年)を133分にまとめた「総集篇」[15]を放映している。福岡市総合図書館が所蔵するものは、上記『殺陣師段平』のみである[16]。全57作中、13作のみ、現存が確認されているということである。

 

 

ネタ元は化け猫 - Wikipedia

佐賀藩藩主龍造寺氏が公儀権力の介入によって重臣鍋島氏に政権交代させられた鍋島騒動をもとに創作された物語[19]。龍造寺氏の恨みが化け猫化し、鍋島氏を苦しめる筋書き。女を装った化け猫が行燈の油を舐め、猫の頭が影絵となって映し出されたことで本性が露になる場面が定番となった[20]

肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説[21]

史実では鍋島氏以前に龍造寺氏が肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が自殺、その父の政家も急死。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天祐寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている[21][22]。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したとの指摘もある[23]

この伝説は後に芝居化され、嘉永時代には中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演された。題名の「嵯峨野(さがの)」は京都市の地名だが、実際には「佐賀」をもじったものである。この作品は全国的な大人気を博したものの、鍋島藩から苦情が出たために間もなく上演中止に至った。しかし上演中止申請に携わった町奉行が鍋島氏の鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になる結果となった[23][24]

後年には講談『佐賀の夜桜』、実録本『佐賀怪猫伝』として世間に広く流布された。講談では龍造寺の後室から怨みを伝えられたネコが小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて家を祟る。実録では龍造寺の一件は関係しておらず、鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種のネコが怨みを抱き、殿の愛妾を食い殺してその姿に成り変わり、御家に仇をなすが、伊藤惣太らに退治されるという筋である[25]

昭和初期にはこの伝説を原案とした『佐賀怪猫伝』『怪談佐賀屋敷』『秘録怪猫伝』などの化け猫映画が大人気となり[26]、化け猫役を多く演じる入江たか子鈴木澄子といった女優が「化け猫女優」として知られることとなった[18]

 

 

この時代で毒殺と言えば

帝銀事件 - Wikipedia

帝銀事件(ていぎんじけん)とは、1948年昭和23年)1月26日東京都豊島区長崎帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店(1950年に統合閉鎖され、現存しない)に現れた男が、行員らを騙して12名を毒殺し、現金と小切手を奪った銀行強盗殺人事件。

画家の平沢貞通が逮捕され死刑判決を受けたが、平沢は獄中で無実を主張し続け、刑の執行がされないまま、1987年(昭和62年)に95歳で獄死した。

第二次世界大戦後の混乱期GHQの占領下で起きた事件であり、後述のように多くの謎が残るため、未解決事件とされることもある。