10. 今日限りの命 ( 113分 モノクロ 1933年 )
監督 : ハワード・ホークス
出演 : ゲーリー・クーパー
第一次世界大戦下のイギリスへ留学したボガードは、ダイアナと知り合う。
やがて、ボガードは爆撃機の射手として出陣するが、戦死の報告が彼女の元に届き…。
アクションあり、ロマンスありの戦争ドラマ。

 

今日限りの命 - Wikipedia

''Today We Live'' poster 1933 Mixed Media by Stars on Art - Fine Art ...

ウィリアム・フォークナーの原作を基にハワード・ホークスとリチャード・ロッソンが共同監督、ジョーン・クロフォードゲイリー・クーパーが主演した。

本作はクロフォードとクーパーの唯一の共演となった。

 

監督 ハワード・ホークス
リチャード・ロッソン
脚本 イーディス・フィッツジェラルド
ドワイト・テイラー
原作 ウィリアム・フォークナー
製作 ハワード・ホークス
出演者 ジョーン・クロフォード
ゲイリー・クーパー
撮影 オリヴァー・T・マーシュ
編集 エドワード・カーティス
配給 メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
公開 アメリカ合衆国の旗 1933年3月3日
日本の旗 1933年10月
上映時間 113分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 659,710ドル[1]
興行収入 590,000ドル(北米配収)
445,000ドル(海外配収)[1]

 

予告

 

 

大邸宅の令嬢。金欠で米国の成金に賃貸貸し。

Today We Live (1933) Review, with Joan Crawford, Gary Cooper, and ...

実兄と婚約者、海軍に入隊

Today We Live (1933)

間借り人に二股

Joan Crawford and Gary Cooper in Today We Live 1933. Riding Bikes to ...

尻ガール(軽)

Images 1933

尻軽、WACに志願、安アパートに引っ越し

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この安アパートに入居の際、部屋でゴキブリを捕獲。

ウェリントン公爵と命名して愛でる。他のGとバトル対戦させるのはワーテルローでナポレオンをやっつけた英国人の誇り、にしてもG=英国の誇りとするところに米国人の悪意を感じる。

 

原作がウィリアム・フォークナー

フォークナーは、第一次大戦勃発後に軍への入隊を希望し、1918年7月に英空軍に入ると訓練生としてカナダのトロントに送られている。しかし、同年11月に戦争が終わったため、実戦に出向く機会のないまま少尉に特別進級し除隊となった。この際、復員兵に対する特別措置を利用し、翌年9月にミシシッピ大学に入学する。教養学科の授業を受けるがほとんど興味がもてず、1年で退学。しかし、この頃から大学の新聞雑誌に詩や小品を発表し始める。

 

軍務中の尻軽

Rivalità eroica - Today We Live (1933) - CIAKHOLLYWOOD

婚約者がいるけど

Today We Live (1933)

間借り人と付き合い

Today We Live (1933) Movie Review - 2020 Movie Reviews

実兄ともやってる

Today We Live (1933)

近親相姦はハワード・ホークス監督の趣味らしい。

ハワード・ホークス

1931年、ヒューズと組んでギャング映画『暗黒街の顔役』を製作、しかし、過激な暴力描写や近親相姦を彷彿させる内容が問題となり、映画検閲機関である映画制作倫理規定管理局を擁していたアメリカ映画制作者配給者協会(会長のウィル・ヘイズにちなんでヘイズ・オフィスと言われた)はラスト・シーンもホークスたちの了解もなしに勝手に撮り直し、結局、公開されたのは半年後の1932年だった(2年という記述もあるが誤り)。

 

 

ゲーリー・クーパーが爆撃機操縦士。なんか既視感があると思ったら、これ。

ちょい役だったけど。

 

ラスト、尻軽にフラれる二人が魚雷を抱いて特攻する。

魚雷艇 - Wikipedia

19世紀後半の水雷兵器の発達とともに、これを主兵装とする戦闘艇として登場したのが水雷艇であった。当初は外装水雷や曳航水雷が用いられていたが、攻撃用水雷の決定版として自走水雷(locomotive torpedo; 後の魚雷)が登場すると、こちらが広く用いられるようになった[3]。当時、重砲でも大型の装甲艦を撃破することは難しかったのに対し、魚雷を用いれば、安価な小型艇であってもこれを撃破しうることから、1880年代には各国海軍は競って水雷艇を建造した[4]。しかし1890年代に、水雷艇を大型化した駆逐艦が登場すると、水雷艇のニッチはこちらに奪われていき、残った水雷艇も沿岸用の小型駆逐艦としての性格が強くなっていった[5][6]

一方、この時期には、内燃機関を用いたモーターボートも登場していた。当初は手軽さが買われて主に内水域での水運で用いられていたが、1900年代にはその高速性・機動性を生かしたモーターボート競走も盛んに行われるようになった[7]。そして第一次世界大戦が始まると、各国でその軍事利用が模索されるようになった[2]。モーターボートによる水雷襲撃という点で先鞭をつけたのがイギリス海軍で、1915年夏、3人の大尉がソーニクロフト社を訪問し、艦載水雷艇のように運用できるモーターボートの開発を提案した。この計画は後に海軍が正式に推進するところとなり、まず40フィート型12隻が1916年1月に発注されて、同年8月に完成した。最終的に、40フィート型は合計39隻が建造されたほか、より大型の55フィート型は69隻が建造された。従来の水雷艇(torpedo boat)と区別するため、これらはCMB (Coastal Motor Boatと呼称された[2]

イギリス海軍の40フィート型CMB

 

日本のカミカゼとか昨今の自爆テロとか、戦前から気分が醸成されてたっぽい。

 

 

 

ちょっと忘れてた。

最近見た尻軽系動画でバカ受けだったのがこれ。