最善観 | カラフル

カラフル

地方でエンジニアをしています。趣味は読書とビリヤード。日常の一幕やビリヤードのことなんかを綴っています。最近、アプリ開発をはじめました。

 わが身に降りかかる全ての出来事は、二度とない私達の人生の中での出会いとも言えましょう。私達は、過去の判断が正解か間違いかと思うこともあります。ですが、その答えは正解ではないかお思うのです。なぜならば、過去の瞬間の積重ねで現在の私達が今ココに「ある」のですから。~だったら、~であればなど過去の判断を後悔することもあります。しかし私達は、「そのとき」に自分が持っている情報・知識・気持ちで、最善と思われる判断をしてきたのです。

 すなわち、いやしくもわが身に起こる全ての事柄は、その全てが私達に取って必然であると思うのです。それ故、その事柄が起きたからと言って、私達が悪いとか、能力が足りないとか、運が悪いなどと受け止めるのは、私達が毎日の生活の態度を改める気付きの機会でもあると思うわけです。

 最善観というのは、必然的に出会った事柄を、肯定的にも否定的にも捉えず、まるで「ヒトゴト」のように客観的に捉え、自分にとって都合の良い展開を勝手に思い浮かべることもせず、「今ココ」の私達ができる小さなことに焦点を当てることとも言えましょう。

 不幸というものは、なるほど自分も不幸と感じ、人もまたそれを気の毒、哀れと同情する以上、一応たしかに不幸であり、損失であるに違いないでしょう。しかし、同時によく考えて見れば、かつては自分が不幸と考えた事柄の中にも、そこには、この世の深い教訓のこもっていたことが次第に分かってくる場合も、少なくないでしょう。
 ところが我々は、自分が順調に日を送っている間は、とかく調子に乗って、人の情とか他人の苦しみなどということには、気付きにくいモノです。そこで人間は、順調ということは、表面上はいかにも結構なようですが、お目出たくなりつつあるわけです。

 人生の事すべてプラスがあれば裏にマイナスがあり、表にマイナスがあれば、裏にはプラスがあるというわけです。
 実際、世の中は公平で正直そのものですが、ただ我々人間がそうと気付かないために、表面 事なきものは得意になって、自ら失いつつあることに気付かず、表面 不幸なものは、その底に深き真実を与えられつつあることに気付かないで、いたずらに嘆き悲しみ、果ては自暴自棄になるのです。

 抑うつ状態に陥って、休職や退職をするなど、ある意味では回り道をされた方々あ、なるほど一応はお気の毒お思いますが、しかしもし私達の背後には、いかに書物を読んでも、またどんなにたくさんの金を積んでも、その他いかなることによっても得られず、ただその道を自らの身を持って通過した者おみが知ることのできる、人生の深い教訓のあることに気付かれたとしたら、そんな回り道も決して無駄ではないばかりか、同級生の何人も持ちえない人生の貴重な収穫を得られることと確信してやまないのです。

 

<参考文献> 修身教授録