⏬️馬見塚町神明社⏬️
明治十二年調べの初気の年代に
 神龜三年二月(西曆七二六)
は外に記録が見当らないが
等呂吉田村に 昔の島見坂は
豊橋十八聯隊の所にあり
海辺の一寒村てあった⛩️⛩️
長治年中(一一〇四)行興僧正と
云う高僧が鎌倉へ下る際
ごの村の渡辺某の許へ一泊した
其の頃には氏神と定めた社
がなかったのて僧正に願い
神明社を勧請した⛩️⛩️
其の南北朝の頃天下大乱
のため束国から伊勢参宮
する人々は海陸の関所々々に
悩まされ、この神社を伊勢の
遥拝殿の如く思い当社を
拝して帰国するものが
多く伊勢に献上する神馬など
数多く放たれた、因って
領主から馬見塚神社と
名付けられたと云う 
永正三年に至り今川返の巨
牧野古白が築城に際し
移転したのが現在の地で
当時は海中の小島に過ぎず 
神主の渡辺氏他四五人が
附近を開墾して馬見塚の名を
継続した⛩️⛩️
後天文九年八月太潮が襲い
渡辺次郎忠安が避難の
中途溺死し神明扉縁起書等は
流失してしったとあります⛩️⛩️
海陸的所云々で社名起源には
異論がありますが
現在の馬見塚は
永正二年(西曆一五〇五)頃に
解けたと思はれ、小島であった
事も古地図でうなづけます⛩️
本殿の下に
從二尺五寸横一尺二寸
ばかりの右が納まっており
それを昔東国から来た参宮人
が伊勢の神石 といって
楽したものだといわれています
 祭神は始めは天皇大神一座で
ありましたが元禄十六年九月
の御造営のとき八幡大神
春日大明神を相殿に奉祀して
現在に至っています⛩️⛩️
寛永二十年(西曆一六四三)十二月
渡辺平内兵衛同孫平次の
社殿造立以未十八度の
造営修補がありました⛩️⛩️
本社は社格制定により村社に
物入れ赤芝居舞台の外境内に
あるものに
🌟石標柱、明治三十三年五月違立 
渥美郡吉田方見塚村藍新切 

🌟石鳥居 大正十二癸亥三月
渡辺儀平、森田清三郎、
林?治郎

🌟石灯篭
天保七丙申九月十六日
渡辺平内治?
当所若者中として各一基

🌟石清水鉢
寬政八入丙辰年九月十六日氏子中
☀️晴天☀️
狛犬さん♥







⏬️✨豊川✨⏬️
吉田方地区10社5廟周ります👣💦
資料が大変読みづらい…💦💦