幸福寺

🗺細谷町🗺

✨臨済宗✨東観音寺末

明治三年八月赤坂役所への
届出明細帳に
当寺境内五畝廿步
高四斗五升参合弐勺
年貢地 担家無之 現在無住 
海月院兼務
と記録されているが
その後当所一村が神道に改宗
したため間もなく廃寺となった
当寺の創立時は明かでないが
天文四年九月今川義元
家臣野々山助八郎名儀で当寺に
寄進をし、また当寺に就ての
雪斎宗孚(義元の肉叔にて
軍師の地位にあり)の書翰も
あるので天文初年或はそれ以前と
想像されるが他に文献がなく
廃寺後の処置に就ても不明で
寺趾は現在畑となっている


大定山海月院
🗺細谷町🗺
✨臨済宗✨東観音寺末
建仁二年(一二〇二)創立で
行基菩薩を勧請開山として初め
当村の海辺にあったが
元禄十五六年頃北方に移転した
初住は不明
中興開基天沢周公座元
永久己卯四月十五日寂
二代信応受公座元 
貞永元年四月寂
三代笑目闇公と相次で幕末まで
続いた卍卍
当寺の本尊観世音座像伝恵心作
は江戸本石町村田重兵衛の
寄進と云われ、往古の本尊は
伝定朝作の延命地蔵尊 であった
また当寺の伽藍は、方丈 七間
                                              五間
元禄十五年建立庫裡 六間
                                         四間
外に十王堂があり、往古は
山門もあったが風に朽敗した
享保十三年の書上によると
寺域山林共  東西百三十七間
                      南北百三十間
寺領地九反一畝 十七ヶ所に散在す
とあって相当の大寺院であった
明治三年八月明細帳には
境内一反一畝十五歩 
高九斗二开 
年貢地檀家百廿二戸
とあって、この時まで有力な寺
であったが、維新の際同地の
朝倉仁右エ門氏の首唱で
全村神道改宗となったため
支柱を失い、宝聚庵、幸福寺と
共に廃寺となり、その本堂は
野依嵩山寺に移されたが
不動産、仏像、宝物等の行方に
就ては知る処がない卍卍
現在その寺趾には墓碑だけ
残っている卍卍
当寺の宝物中大般若経六百巻
古写本があって当村八王子社で
転読していたが、この経本が
漸次破損して寛文年間住持
 再興を企てたが百巻未満
延宝三年四月二十一示寂
その弟子空山
元禄三年四月二十一日完成した
と伝えその残欠本の奥書には
承元三年(一二〇九)
康暦元年(一三九七)
至徳三年(一三八六)
応永元年(一三九四)
等の干支があった
天正十九年寄進状
上細谷以我等知行之内、田壱反
屋敷方之事 令寄進候 
可御知?者也 如件 
天正十九年卯月十八日 
宇沢忠右工門重勝 花押 
海月院床下とあった卍卍
宇沢氏は徳川家の旗本と思われる
十六善神 唐画
十六善神 太平寺田竜和尚筆
達磨像 風外和尚筆
滝見観音 田竜和尚筆
渡江達磨 実相寺元麟和尚筆
その他書画多数
以上宝物は享保十三年書上による