杉浦武雄
⇩✨父、杉浦六右衛門✨⇩
杉浦武雄(1890~1963)
杉浦武雄は、明治23年5月20日
渥美郡細谷村に生まれた!!
六右衛門は熱心な自由党員
であったが、武雄はこれに
反して反対党である憲政会に入った
第一高等学校、東京帝国大学法科
卒業という秀才で、卒業後は
司法省に入って司法官として
各地を歴任し、大正10年(1921)
朝鮮総督府の判事となった!!
しかし、ほどなく辞して弁護士
となり、12年名古屋市大津町
(現中区)に事務所を持った!!
武雄の中学校時代、理科を担当
していた講師に大口喜六がいた!!
したがって、大口と武雄は師弟の
関係であり、この関係から
13年に衆議院議員に出馬した
武雄は、大口の渥美郡における
改進党以来の地盤を譲り受け
さらに運動方針についても大口 
から多大の指導受けたのである
このときの選挙運動は、渥美郡
では同郷の前田桂次郎と前田健次
がまた八名郡では県会議員の
憲政会加藤正衛が担当した!!
これら二郡における武雄の陣営は
人心をひきつける魅力を持っており
武雄自身も学識経験のある
『新人雄弁家』との評価をうけた
渥美郡における対立候補はのち
衆議院議員・豊橋市長となった
近藤寿市郎であった!! 渥美郡は
もともと自由党系候補の地盤が
強いところであった!!しかし
選挙の結果は新 人候補の
出現によって渥美郡という地盤が
大動揺をきたし、また言論戦にも
敗れて政友会から立った近藤
落選の憂き目にあったのである!!
以後、武雄昭和3年(1928) 
5年には 民政党から、また
11年には中立、12年には 東方会
から立候補して当選を果たした
その 間、若槻礼次郎内閣では
拓務参与として活躍したのである
しかし、それまで順調に当選を
続けた武雄も、日本が戦時体制を
強化し太平洋戦争中の17年
行われた翼賛選挙には非推せんで
立候補して敗れた!!
⇩✨郷土豊橋を築いた
先覚者たちより✨⇩

これより先、武雄は豊橋に

豊橋民政青年団という民政党系の

団体を設けていた昭和初年

国家改造運動に呼応してこれを

東三新興青年党と改称し

東三政治経済研究所を設立して

東三河をこの運動にまき込もうと

図った!!青年党は

昭和7年市内で幹事会を開いて

武雄を総裁とし、白井順一

副総裁として 機関誌『東三公論』

を発行して運動を盛り上げよう

とした!!そして、青年党は

この年8月に組織改革の必要から

豊橋公民会と再改称し

会長にはやはり武雄が就任した

終戦は、中国にあって

山東省経済建設技術人員協会の

専務理事として迎えた!!

26年、内中八町(現八町通3丁目)

で弁護士を開業したが

追放解除後の30年日本民主党から

出馬して衆議院議員となった

晩年は、参議院議員として

『春秋会』長老として

河野一郎首相実現に夢をかけたが

38年9月12日病没した!!

かっては、大口喜六・ 杉浦武雄・

鈴木正吾(宝飯郡御津町)の

3代議士を選挙区に持つことは

東三河の誇りとまで評された

人物であった!!

⇩✨大口喜六✨⇩