✨朝倉仁右衛門 ✨
(1829~1885)
『朝倉仁右衛門』は…
文政12年(1829) 12月25日
渥美郡上細谷村の大庄屋
父朝倉京次郎の 嫡男として
生まれ幼名を仁作
長じて仁右衛門古完(こたん)
といって朝倉家の9代目を継いだ
幼少の頃は僧祇であった高部玄益
広田秀山 から漢籍を学んだと
いわれており、後に渥美郡二川の
田村家へ商法の見習いに出た
ところが安政元年(1858)父親が
亡くなり、 26歳で家業を継いだ
朝倉家というのは庄屋としてこの
渥美郡を統括するような形で
仕事をやっていた!!
若い頃から各方面の施設を改革し
いわゆる地方更生の実を挙げた!!
即ち時流に即した殖産興業を志し
積極的に地方農村の発展を
企画するために養蚕製糸業を
奨励した!!維新当初は
茶の栽培を奨励して、農村産業の
基幹としようとしたが
これに失敗、明治6年長野産桑苗の
栽培に着手した!!
翌年には成繭1斗(せいけん)
を収穫し、明治8年には2倍の
収穫を得た!!
これより、益々長野方面より
多数の桑苗を購入して地元有志を
勧誘し桑園を開く機運をつくった
のである!!このことは
養蚕業の将来性について世間の
注目を惹起させる!!
原因となり、産繭(さんけん)も
しだいに増加するようになったが
製品販売方法については尚
未熟であったため、販路に
苦し み養蚕家の利益は
微々たるものであった!!
し かし養蚕業発展の為の
奨励努力が無駄になるのを惜しみ
明治9年より郡中の有志
小久保彦十郎、柴田豊水
小柳津忠民、朝倉佐野四郎と
図って、豊橋本町に
50人繰り座繰製糸を開始した!!
この時、当時
福島県二本松製糸工場で修行した
鈴木田鶴を教婦として招へい
有志の妻女、親戚、知友12名に
座繰製糸を伝習させた!!
しかしこの豊橋本町で開始した
座繰製糸は半年程で解散
明治10年より再び有志合同して
改良工夫を加え自宅で座繰製糸を
開始したが、これも多大な損失を
受けて失敗におわった…
⇩✨細谷製紙場跡地✨⇩
昔の写真だと赤煉瓦がある
のですが…💦💦💦