しかし、知多郡に逃げていた
古白の子成三・信成により
永正15年 (1518) の頃、今橋城は
奪い返され、戸田氏は二連木城も
手放し、 大崎へと移った🏯
その後、東三河は西三河の
松平長親の孫にあたる清康
支配下に置かれ、仁連木の豪族ら
が従った💦💦松平氏の支配は
しばらく続いたが、天文6年 (1537)
再び戸田康光が吉田城(今橋城)を
攻め、牧野成敏を追い出し
大崎城主であった戸田宣成
城を守らせた🏯 同年10月
康光は二連木城を修築し
二男の宣光を移して、豊橋市域の
ほとんどを支配下におさめた🏯🏯
戸田氏が東三河の安定した勢力に
見えたのもつかの間で
天文15年 (1546)今川義元は
家臣の天野景貫に吉田城の攻撃を
命じた⚔⚔今川勢は、夜明けと
ともに龍拈寺方面から総攻撃を
かけ、その日のうちに吉田城を
攻め落とした⚔⚔この時
二連木城の戸田宣光は、どの
ような動きをしたのかは不明で
あるがなぜか吉田城落城後も
今川方に属して健在であ った!!
今川義元の吉田城占領により
東三河の情勢はしばらくの
落ち着きを取り戻したが
西三河では織田信秀の岡崎侵入の
気配が濃厚となり、松平広忠
不安をつのらせていた💦💦
天文16年(1547)広忠は今川義元
援軍を求め、 その代償として
先妻との子竹千代 (後の家康)
人質として差し出すことにした!!
ところが、 駿河に送る途中の
竹千代戸田氏が奪い、織田氏
渡してしまった🛶当然のごとく
今川義元は激怒し、直ちに
吉田城にいた天野景貫に命じて
田原城を攻撃させた⚔⚔
田原城は落ち、 田原戸田氏
滅亡した⚔⚔しかし、二連木城の
戸田氏は、本家との関係を絶ち
存続した🏯ここに戸田氏一流の
世を生き抜く術を感じることが
できる🏯こうして、今川氏
しばらく東三河全域を手中に
治めたのである🏯しかし
永禄3年 (1560) の桶狭間の戦いで
今川義元が亡くなったことを
きっかけに、それまで動勢を
うかがって徳川元康今川氏
絶縁するという意味で名を家康
改め、吉田城を攻撃してきた⚔⚔
牛久保の牧野氏も二連木城の
戸田氏もすでに家康に内通して
いたといわれている!!
⇩✨牧野古白家系図✨⇩
夏目広次と竹千代が船に乗って🛶
今川へ送られる時に襲ったのは
戸田家なんですね!!