戸田氏の勢力が順調に伸びた
背景には、遠江へ勢力を広げた
駿河 (静岡県東部)の今川義忠
支援があったという💴ところが
文明8年(1476)義忠が戦死し
当時八歳の氏親 (うじちか)が後を
継ぐにあたり、今川氏の家臣間に
内紛が発生した⚔⚔宗光は、これを
今川氏から離れる絶好の機会とと
らえ行動を起こした⚔⚔
明応2年(1493) 宗光
仁連木(二連木) に築城し🏯
北方進出を図る足場とした!!
田原を子の憲光に任せ🏯
自らは二連木城に移り住んで
三河と遠江の国境船形山(豊橋市雲谷) に築かれていた今川氏の砦に
対抗する構えをみせた⚔⚔
この仁連木の地は、先にも触れたが
伊勢神宮領の薑御園であったが
築城に伴い、当然のごとく戸田氏
支配下に置かれた🏯🏯
明応8年(1499)戸田宗光は戦略上
の要地船形山城を遠江の諏訪信濃守
と組んで攻め落とした⚔⚔
しかし、それもつかの間で…💦
今川方の朝比奈泰以に逆襲され
両人とも討ち取られてしまった⚔💦
こうして合戦に敗れた戸田氏
田原に退き、子の憲光が後を
継ぐことになった!!
⇩✨東田神明宮入口にある
 薑御園遺跡の石柱✨⇩
この頃、戸田氏に対抗して
一色城主 (豊川市牛久保)となった
牧野古白は、当面の策として
今川氏に従いつつ勢力の確保に
努める道を選んだ💦💦
永正2年(1505)牧野古白は、 
今川氏親の指示により
今橋城 (吉田城)を 築城した🏯🏯
これは、当時西三河で勢力を
伸ばしてきた松平氏に備えての
ものである💦💦
田原に退いた憲光は、今川氏
対立することを不利と考え再び
今川氏に従うとともに二連木城を
修理して、子の政光に守らせた🏯
戸田氏のこうした動きにより
豊橋地方は今川氏に従属するものの
牧野氏戸田氏が相対し、両立を
許さない不安定な状況下に置かれる
ことになった💦💦
⇩✨牧野古白のお墓✨⇩
豊橋周辺を支配下におさめた
今川氏親は、永正3年(1506) 8月
今橋の牧野古白一色の牧野成勝
二連木の戸田政光など東三河の
諸将を含め、一万余りの兵を
従えて西三河へ侵攻した⚔⚔
しかし、松平氏の強い抵抗を受け
苦戦したうえ、田原の戸田憲光
背後を襲われる恐れもあると判断し
今川氏は急に兵を引き上げ、駿河
(静岡県中部)にもどってしまった💦
ところが、同年9月松平長親
数千の兵を率いて、今橋城に
攻め込んできた⚔⚔牧野古白
懸命に防戦に努めたが、11月
ついに力尽き自害した⚔⚔💦
これには、今川氏親今橋城を
攻撃したという異説もあり
定かでない???古白討ち死にの
後の今橋城についても戸田憲光の
二男宣成が守ったという説
しばらく空城になっていたとの説が
ある🏯💦💦