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maple8cinnamonのブログ

メープル・エイト・シナモンです。
テレビやWebで見たことをキッカケに、ふと昔のことを思い出したり、
今、自分のすべきことを思い付いたりする年金暮らしの日々。
お暇な方だけお付き合いいただければ幸いです。

私の父方の祖父は戦時中に亡くなったため、直にその顔を見ることはできなかった。

 

小学校低学年の夏休み、岐阜にある父の実家に遊びに行くようになり、その頃にそこで祖父が医者をやっていたことを母から聞いた。

行って見ると確かにもう使われていない医療用什器の幾つかがあり、祖父の遺影も初めて見ることができた。

 

ただ子供だったので、古過ぎるものへの畏敬や不気味さが先立って、聴診器などを見せられてもあまり興味を見せることはできず、ましてやそれで遊ぼうなどとは露ほどにも思わなかった。

 

更に高校生になると祖父が江戸時代生まれだったと聞いた。

それより前にも聞いていたかもしれないが、記憶にはない。

 

私の小さい頃は近所にも江戸時代生まれだというお爺さんが何人かいた。

一時そういうことに興味を持った頃があり、その家(店)に行って不躾にもお爺さんに直接「お爺ちゃん、江戸時代に生まれたの?」と声を掛けて、いろいろ質問をぶつけていたのだと思う。

しまいには友達を連れて引き合わせたりした。今思えば珍獣扱いだ。

我が家には祖父母がいなかったので、私には興味深い話が聞けたのかもしれない。

 

さて、我が祖父について。

江戸時代生まれとは聞いたのだが、肝心の父が祖父の生年月日を覚えておらず、具体的に何年生まれなのかがずっとナゾだった。

明治政府から発行された医師免許の番号がかなり若いので、親戚の間ではそんなにスレスレの幕末ではないのではないかとの推測しかなかった。

最近では、江戸時代生まれなんてひょっとして何かの間違いということもあるのではないかと私の中では疑念も生まれていた。

 

しかし、今回の引っ越しでいろいろ家財をひっくり返している中で、昨日重大な手掛かりを見つけた。

祖父母の位牌があったのだ。

なんだ、これなら岐阜にだってあるだろうに…。

 

普段じっくり見ることはないが、これを見れば故人の生年を特定できるのだ。

そこには故人の没年月日、俗名、戒名、行年が記されているから。

 

それからすると、祖父が生まれたのは1864年。僅かだが1865年の可能性もある。

また元号で言えば、おそらく元治元年(文久と慶応の間)と思われる。

昭和19年、当時としては長寿の79歳で亡くなっている。

 

祖母は、祖父より15歳も年下だったので江戸時代ではなかった。

昭和13年、58歳で亡くなった。

 

これで、父は祖父が54歳、祖母が39歳の時の子供であることも分かった。

4人兄弟の末っ子とはいえ、人生50年と言われた時代としてはかなりの晩年子?と言える。

 

我が両親は10歳差の夫婦で、私は父36歳時の子供。

私は5歳下の妻と結婚したが、36歳で子を授かった。

 

閑産という言葉があるとしたら、ウチの家系はまさしくそれだ。

ここまで生きてみると、世代継承のサイクルは短くあるべきだと思う。

まず親と歳が近ければ、親の育った環境、価値観・考え方を理解しやすいだろう。

ひとつの家系で同時代に世帯が多くあることは、身近により多くの家庭を横に見ながら自らの家庭を築いていける。

より固い絆を感じられる親族が得られる可能性が増える。

我が子は遂に一人っ子となったが、相変わらず晩婚・晩産となれば、子供の未来を案じたまま死ぬほかない。

 

これは国全体に共通する傾向だろう。

孤独で寂しい人生。

それが当たり前に思えたら、悲しい。

 

 

↓ 最近整理して出てきた祖父の遺品

ちゃんと装丁して巻物になって保管されていた。

ネットで見ると紙ペラの状態のものが多いようだ。

 

これは祖父の死直後の昭和19年4月発行との記載があるので、実は新たなナゾになっている。

亡くなった父や伯父はコレクタータイプではないので、これに関与はしていないだろう。

 

ただ鑑定士によると遺品の多くは、極端に古い物はなく、祖父の存命中あるいは晩年期の作品ではないかと言っていた。

祖父がどのような死に方をしたのか知らないが、最晩年に予約をしていたのかもしれない。

この作品は完全に企画ものなので、予約募集後に印刷・発行していた可能性は高い。

現代と違って、当時は思い立っても容易に物を手に入れられない流通体制であるから、予約して購入するスタイルは一般的なものだったろう。

 

伯母たちの話では、明治時代には珍しく、時々来ていたドイツ人の行商からワインを買って飲んでいたとも聞く。

そんな流通だった。

まあ、医業なのでドイツ人の行商が来ていたのは特殊だったろうけど。。。

 

岐阜の家には様々なものが蔵に残されていたが、父に回ってきたのは掛け軸が多かったために傷みが目立ち、

皆二束三文の値で買い取られていった。

どこかに木戸孝允(桂小五郎)の揮毫があるらしいという話も聞いていたが、今回の遺品の中では確認できなかった。

 

 

遂に出たー。
谷根千の地を!
 
遂に、、、山手線の内側から出てしまったー。
 
そして遂に入った。
台東区にー!
 
浅草に来たー!
 

亡き母の実家があり、そして愛する妻の出身地でもある台東区。
また、友人の多くも生まれ育った親しみ深い区である。

思えば私の実家は荒川区だったが、目の前の道は区境いで、お向かいは台東区だった。
荒川区には僅か2ヵ町だけ、山手線内の町がある。

そういうレアな場所で私は生まれ育った。
当然我が家には荒川区報が届き、区民サービスの情報が伝えられるが、全ては日暮里駅の向こう側のことばかりで、関心を持つことはできなかった。
子供の頃は図書館と言えば文京区の鴎外記念図書館、高校に入ると友人と行くのは台東区の図書館だ。

そんな環境や様々な縁によって、若い時は「どうして俺は台東区じゃないんだろう?」と違和感を覚えることさえあった。
そう、今の言い方をすれば、「区同一性障害」みたいな感じ。
今年の初めまで41年住んだ文京区にもアイデンティティーを感じることはなく、終始根津から東~東南を見ていたと思う。
高校は千代田区にあったが、台東区の駅を降りて徒歩5分の間にふたつ区境いをまたいでからの千代田区、というボーダー人生だった。
 
 
これまでに比べれば浅草は区の中核をなす地域で決して端っこではない。自分の中では非常に喜ばしく思ってる。
また、殊の外嬉しいのは今まで必ず坂道を通らないとどこにも行けなかったのに、根津や谷中と違い浅草はどこまでも平坦なこと。
(もっとも今はリハビリ中なのでどこにも行けないが…)
そんな地形のせいで、谷根千住民の私にとって浅草は台東区の中では縁遠い特別な地域だった。
母の実家は御徒町だし、妻と結婚しなければ、正直地理もよく解らなかった。
その点、台東区がかつて下谷区・浅草区に分かれていたことはごく自然なことと思える。
 
 
私が昔のまま台東区への思い入れを強く持っていたら、浅草への引っ越しはあまり気の進まない選択だったかもしれない。
だが、私も世間が広くなるにつれ、変なこだわりは沢山捨ててきたので今はどこでも大丈夫だ。
むしろ、初めて区に対してアイデンティティーが持てそうな場所なので満足である。
 
それにしても年末まで入院してたのに年明け引っ越しは辛かった。
その結果妻にばかり負担がのしかかることになったのは、申し訳ない。
3か月経った今もひと部屋が使えない。(涙)
 
 

民進党(旧・民主党)の合流希望者が全員「希望の党」に移れると思うこと自体、おかしい。

 

今まで様々な大失敗を繰り返して来たのは、本来一緒にいてはいけない集団がくっついたままだったことも、大きな要因だったと思う。

 

元々自らが、整理・選別すべきだったことを、他人の希望の党が当然の入党手続きとしてしてくださるというのに、「全員行けないのか?!」と文句を言っている。

本当はお礼を言うべきところでしょ、そこは。

 

また、なんでこんな単純な話に齟齬が生じるのか分からない。

ほんと、前原という男は常識のカケラも無いのかもしれない。

信じがたいことだが、永田メール事件から何も成長していないようだ。

 

小池さんと合流(という表現は不適切だが)をテーマに会談したら、前原が持ち帰ったような文脈になるはずが無いと、出席していなくたって分かるだろう。

民進党の連中も、何でそんな話を真に受けてるのかも理解できない。

 

希望の党も、いつまでも民進党と関わっているとロクなことは無いから、とっとと片付けた方がいい。

 

 

ちょうど今日で64歳と4カ月。

 

この9月という月、我が人生は音を立てて揺れ動いている。

そして、それはしばらく終わりそうにない。

 

一世一代の急展開!

 

とにかく自分の意志ではなく、生まれてからずっと過ごして来た谷根千の地を出ることになるだろう。

 

こんなことってあるんだな、人生60を過ぎてから…。