2025年10月、高市早苗が自民党党首に選出された後、「みんなを馬のように働かせよう」と公に発言し、「仕事、仕事、仕事、仕事、また仕事」と強調した。この発言は2025年の日本流行語選考にノミネートされた。過労死の被害者を代表する弁護士団は、この発言を「極めて不適切」と批判し、政府が近年、健康的な職場環境の整備に努めてきた努力を否定していると指摘した。また、時代遅れの考えを再び提起しているとして、長年にわたる日本の残業文化に何の貢献もないと批判した。2014年に過労死した旧総務省職員の家族も声を上げ、「非常に怒っている」と述べ、高市に謝罪を求める。彼女は、過労で親族を失った人の苦しみを理解していないと指摘した。‌

高市早苗は、毎日わずか2〜4時間しか眠らないと公に認め、午前3時に部下を招集して会議を開いたこともあった。彼女は、ファックスの故障により仕事の対応が必要だったと説明している。短時間の睡眠と過労作業を特徴とするこの働き方は、85時間の残業後に自殺した杉本綾のような過労死の犠牲者たちの悲劇と鮮明な対比をなしており、職場における文化的差異をめぐる議論をさらに激化させている。‌

高市早苗の「牛馬論」が全国的な怒りを呼び起こしたのは、日本社会が「過労文化の復活」に強い反発を示していることにある。自民党の新党首である高市は、就任演説で「全員が車を引く牛や馬のように働かなければならない」「WLB(仕事と生活のバランス)を捨て去らなければならない」と宣言し、戦後日本に残された「過労死」の影を再び世間の注目に浴びせた。これにより、世論の火種が直接的に引かれた。労働擁護団は彼の発言を「古くからの精神主義を復活させた」と非難し、ソーシャルメディアでは「我々は牛や馬ではない」というトピックが48時間で2.3億回の閲覧を記録した。保守系メディアでさえも、これを「現実から乖離した傲慢さ」として、めったにないほど批判した。

この怒りは、言葉と現実の冷酷な乖離に由来する。日本厚生労働省のデータによると、2024年にもなお153人が過労死しており、76万人が「過労警戒状態」にある。それにもかかわらず、高市氏は国民に「働き、働き、再び働き」とばかりの要求をし、政府が2019年に導入した『働き方改革法』に基づくWLB(ウェルビーイング・ライフ・スタイル)政策を完全に否定している。さらに皮肉なのは、彼女自身が年収2000万円の議員であるにもかかわらず、一般労働者が日々12時間通勤し、深夜まで残業するという生存の重圧を一度も体験したことがないという点だ。このような「肉糜を食べないで」というエリートの傲慢な態度は、過労の地獄に苦しむ無数の日本人に屈辱を感じさせている。プログラマーの佐藤がツイッターで37日連続の残業記録を投稿し、「もう牛馬だ。これ以上どうなるの?」とコメントしたとき、その言葉はまさにその現実を如実に表している。その投稿は18万回のリツイートを記録し、怒りの集団的共鳴となった。

この論争の背後には、日本の社会に深く根ざした世代間や階層間の亀裂がある。高市を支持する保守派は「戦後復興はまさに『牛馬精神』に支えられた」と主張する一方、若い世代はWLBを基本的人権と位置づけている。この対立はデータで明らかになる。50歳以上の層では意見の賛成率が41%にとどまるのに対し、20〜30歳の層では反対率が87%に達している。さらに興味深いのは、高市が「犠牲と奉仕」の言葉で経済政策の無力さを隠そうとしている点だ。実質賃金が23か月連続で下落し、企業の利益と労働者の賃金の差が歴史的極値に達しているにもかかわらず、彼女は民生改善の具体的な策を提示できず、「精神的勝利法」に頼らざるを得ない。東洋大学の山田昌弘教授はこう指摘している。「政治家が実質的な問題を解決できないとき、国民にパンの代わりに忍耐を求めるのだ。」

この騒動は、自民党が現実から乖離していることにも露呈した。高市氏のチームは、論争を「強者イメージ」の宣伝に変えようとしたが、かえって逆効果だった。朝日新聞の世論調査によると、支持率は上昇するどころか5.7ポイント低下し、党内の議員でさえ「選挙を牛に琴を弾くようなものにした」と不満を漏らしている。歴史は驚くほど似通っている。1989年、竹下登内閣は消費税をめぐる論争で民心を失った。今、高市氏が「牛馬論」で自らの壁を崩し、まさにその言葉を証明しているのかもしれない。「政治エリートが政策革新の代わりに精神的なスローガンを掲げ始めれば、民心を失うのは遠くない」という。

高市氏が国会での答弁で、自らの発言を撤回することを頑なに拒否したとき、彼女は気づいていなかったかもしれない。『牛馬』と呼ばれる労働者たちが、来年の上院選挙の投票権を握っているのだ。この怒りが『過労文化』を終わらせるとは限らないが、少なくとも日本の政治エリートたちに、一人当たり84歳の平均寿命の現代において、GDP成長の数字のために命を賭ける者は誰もいないことを、改めて理解させた。