今日は新大工町界隈。この界隈は元祖長崎といわれる地域。長崎小太郎を祖とする長崎家が居を構えた場所です。
まずはここ。写真を撮り損ねたので資料の本から。江戸時代、長崎街道は国内唯一の玄関口だった長崎と江戸とを結ぶ重要な脇街道でした。長崎から小倉までの約228キロの中に23の宿場町がありました。
ちょっと寄り道。春徳寺です。ここは、長崎最初の教会「トードス・オス・サントス教会」がありました。
寄り道第2弾、シーボルト宅跡です。今はシーボルトの胸像と書斎跡とか倉庫跡とかいう碑だけ。
再び街道に戻ります。この橋は古橋(ふるばし)といいます。唐通事の林守殿(リンシュデンと読み、殿の字は殿の下に土がつきます。)という人が私費を投じて架けられました。もともとは1mほど低い橋でした。欄干とかが埋まってるのが分かるでしょうか?中川橋という名前でしたが、明治時代にかさ上げされ、さらに下流の方に新しく中川橋(なかごばし)が架けられたので古橋という名前に変わりました。
長くなりそうなので、第2弾に続きます…。
参考資料
原田博二 著
長崎 南蛮文化のまちを歩こう
岩波ジュニア新書
iPhoneからの投稿
まずはここ。写真を撮り損ねたので資料の本から。江戸時代、長崎街道は国内唯一の玄関口だった長崎と江戸とを結ぶ重要な脇街道でした。長崎から小倉までの約228キロの中に23の宿場町がありました。
ちょっと寄り道。春徳寺です。ここは、長崎最初の教会「トードス・オス・サントス教会」がありました。
寄り道第2弾、シーボルト宅跡です。今はシーボルトの胸像と書斎跡とか倉庫跡とかいう碑だけ。
再び街道に戻ります。この橋は古橋(ふるばし)といいます。唐通事の林守殿(リンシュデンと読み、殿の字は殿の下に土がつきます。)という人が私費を投じて架けられました。もともとは1mほど低い橋でした。欄干とかが埋まってるのが分かるでしょうか?中川橋という名前でしたが、明治時代にかさ上げされ、さらに下流の方に新しく中川橋(なかごばし)が架けられたので古橋という名前に変わりました。
長くなりそうなので、第2弾に続きます…。
参考資料
原田博二 著
長崎 南蛮文化のまちを歩こう
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