このブログを見て頂いている皆様、あけましておめでとうございます。今年も頑張って更新して参りますので、よろしくお願い致します。

さて、久々の更新となりました。今日は初詣に行って来ました。長崎の三社詣は、諏訪神社、松の森天満宮、伊勢宮神社の3社。

まずはここ。伊勢宮神社です。
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御祭神は天照大神。伊勢宮神社のあるあたりが、まだ新高麗町と呼ばれていた頃、天照大神を祀った祠があったそうです。しかし、当時の長崎はキリシタン全盛。当然弾圧を受け、破却寸前まで追い込まれます。
しかし時代が下って行き、キリシタンを弾圧するようになると、再び、天照大神を再興しようという気運が高まってきます。
無事再興し、祠が中島川のそばにあった事から、三重の伊勢神宮も川のそばという事で、造り等を模して伊勢宮神社としました。そして新高麗町を神社の名前を取り、伊勢町とするのです。

次はここ。松の森天満宮です。
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御祭神は学問の神様、菅原道真公です。受験生ではありませんが参拝させて頂きました(笑)
松の森天満宮の敷地内には、今博多町天満宮や新大工町天満宮をはじめ、いくつかの神社が入っています。
そしてこの場所、もともとは諏訪神社があった場所で、1648年に現在の場所に移転しています。

そして最後、諏訪神社です。
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御祭神は、諏訪、住吉、森崎の3体。住吉神社は現在の正覚寺付近にあり、森崎神社は現在の県庁の所にありました。
この諏訪神社は長崎の総氏神様で、秋には、大祭長崎くんちが行われます。

今回初めて三社詣というのを経験しました。なんか気持ちがスッキリして、今年も頑張るぞ!って気になりますね。気持ちよかったです♪(´ε` )

今年も一年、よろしくお願いします!

おまけ① 玉帯川です。
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上流には白糸の滝という、江戸時代の長崎の景勝地だった滝があります。下流に行くと銅座川になり、昔は直接海に注いでいましたが、明治の港湾改良工事により、現在は中島川に合流して海に注いでいます。

おまけ② シシトキ川です。
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溝のようですが、ちゃんとした川です。端の部分が中心に向かって斜めに切られています。できるだけ水を中央に集め、流れを速くする事によってゴミを溜まりにくくしています。明治時代の最先端の技術で、長崎市内に何カ所か、このような造りの川や溝があります。
今も昔も銅座川に合流し、海に注いでいます。

参考資料:「広助の丸山歴史散歩」より




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皆様、ご無沙汰しておりました。年末は何かと忙しくてなかなか更新できませんでしたが、久々に更新致します。
今日は出島界隈です。

江戸時代の始めの頃、ポルトガル人を管理する目的で作られました。禁教令などによってポルトガル人が国外追放になると一時無人になりますが、その後オランダとの貿易が始まり、オランダ商館などが建ち並び、再び繁栄します。やがて幕末になり、オランダ商館が閉鎖。出島は、その役割を終えて行きます。

と、いう事で町歩き。
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道路の半分くらいの幅の色が違いますね。本当の出島の大きさを表しています。すでに道路になっているので完全復元はできないんですね。ちなみにこの写真は出島の東側です。西側は今の電車の線路近くまでありました。

さっきの道をまっすぐ歩くと、この橋を渡ります。出島橋です。
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正確には出嶋橋(デシマバシ)といいます。現存する(現役の)日本最古の鉄製の橋です。明治23年に作られて、元々は中島川の河口の方に架けられていて、名前を新川口橋と呼ばれていましたが、明治32年に出島の東側に移設されました。建設されて120年くらい経過していますが、車も通るしまだまだ現役です!

最後はこの写真。出島の北側です。
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実は出島の北側、イメージなんです。中島川の変流工事によって出島の北側は15m~20mほど削られました。本当の出島は、今の中島川の川幅の半分くらいまであったんですね。

北側が削られた後、残りの東西南も埋め立てられ、出島は姿を消しました。

ちなみに、昔は出嶋(デシマ)と呼ばれてたそうです。島という漢字は常用漢字で最近の漢字です。昔はすべてが嶋だったそうで、読む時は濁りませんのでデシマとなります。

参考文献

「広助の丸山歴史散歩」




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今日は長崎原爆についての話。

1945年(昭和20年) 8月9日 午前11時2分…、長崎市松山地区の上空で原子爆弾が炸裂しました。

この1発の爆弾で、約7万人の人々の命が奪われ、多くの歴史的な文化財が失われました。戦後60年たった今なお、原爆症に苦しんでいる方が多くおられます。決して繰り返してはいけない惨劇が、日本の、長崎と広島で起こりました。

原爆落下中心地の碑が松山にあります。平和祈念像がある平和公園の隣にある公園です。

しかし、アメリカ軍の当初の目標地点は松山上空ではなかったという事をご存知でしょうか?

当初の目標地点…、それは、長崎市中心部、中島川に架かる常盤橋、賑橋付近でした。

その理由として、ここに落とせば完全に戦意を喪失させる事ができるからです。中島川に架かる石橋群は当然全て無くなっていたでしょう。そして、市役所や県庁、グラバー園や、その周辺の居留地など、すべてが無くなっていたはずですね。もし中島川に落とされていたら、長崎市の歴史は大きく変わっていたでしょう。

ちょうどその日のその時間、長崎市上空は曇り。ちょうどぽっかり開いていたのが浦上の上空だったんですね。爆撃機の燃料の関係で、そこに落とすしかありませんでした。

歴史というのは、少しのタイミングの違いで大きく変わってしまいます。

自分たちは、その歴史の上に立っています。


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