(ドラマなんかでもお馴染みですねf(^_^;)
その時はもちろん今のように、外国船の入港を制限しました。
経済的ダメージを受けたのも今と同じです。
↑長崎は江戸時代、
倉田 次郎右衛門と言う方が私財を投げ打ち
(長崎奉行も資金援助)水樋を敷設しました。
うちの曾祖父は次郎左衛門(^_-)
でも倉田さんが作った倉田水樋は汚物が混入しやすく、伝染病の菌も入り込んでしまう作りでした。

↑そこで明治期にこのように水路に石を敷き、
下水道の整備を指示したのが
(会津藩出身)

県令…県の長官。知事に相当。
そしてもちろん上水道の整備も必要でした。

↑今はダムや浄水場など当たり前、の
水の衛生観念ですが
昔の人々の意識は低いのが普通(数が多い)でした。

↑左は妙相寺川
右は御手水(おちょうず)川。
本河内(ほんごうち)高部ダムは眼鏡橋のある
中島(なかしま)川の上流です(^-^)

↑「タンデム型」のダムとなっています

明治期に作られた旧ダムを埋め、
(今は写真の通り芝生の公園)
昭和57年7月23日の長崎大水害を経て
すぐ上流に二重になるように
今の本河内高部ダムが作られました。
(全体を見に行けなくて残念

)

↑旧ダムの給水塔頂部。
ダムや水道の敷設は、
税金の負担も大きいし…
衛生観念も低いし…

↑こちらは旧ダムの導水隧道(どうすいずいどう)の遺構。

隧道(地中を通る細長い構造物。トンネル。)
じげもんの長崎区長金井俊行(かないとしゆき)も尽力。
長崎商人たちが公益のために積み立てていた
貿易五厘金を全額投入し
そして我が国初と言われる地方債も発行し

↑
吉村 長策と言う技術者にも恵まれて

本河内水道施設(旧ダムや上水道)の完成となりました

大変な反対や困難を乗り越えて作られた近代水道ですが
実は上水道からの水は臭いがあり

「水道の 水を亭主がすすむれど
風味臭か(日下)と
家内(金井)逃げ出す」

↑さて貿易五厘金はその後解散しますが
鎮西大社のお諏訪さんには記念碑がありますよ


↑そうそう…
前回の白髭稲荷の前方(本河内高部ダム内)には
渇水などの時にだけ見られる、
「幻の石橋」
山口橋も沈んでいるんですよ

参考資料
「わかる!和華蘭」
「ヒロスケ長崎 のぼりくだり」
似顔絵 ぱんだラン