黒田寛一は、『資本論』の展開にかんして次のように書いている。
「始元的商品とその内的矛盾の諸規定から価値形態(商品の内的矛盾の外的対立における運動)へ」「——というように展開されていく商品の自己運動の学問的体系が、『資本論』の体系なのである。」(『資本論以後百年』18頁)
この引用部分の前半のカギカッコ内は、第一章の第一、二節と第三節の価値形態にかんするものである。
このことにかんして、黒田から私(たち)は次のように教わった。
第一、二節の展開は、商品A(=商品B)というように、商品Bとの関係においてある商品A、このような商品の内的矛盾にかんする規定だ。第三節は、商品A=商品Bというように、二商品の外的対立を措定して考える。これは、商品の内的矛盾の外化されたものだ(あるいは、商品の内的矛盾の外化されたものとして意義をもつのだ)。二つの円を横に並べて書き、両者のあいだに、イコールの記号を書く。左側の円が商品Aだ。右側の円が商品Bだ。左側の円、商品Aが全体として価値として意義をもち、右側の円、商品Bが全体として使用価値として意義をもつ。商品Aがみずからの価値を商品Bの使用価値で表示する、ということだ。これが、内的矛盾の外化された形態ということだ。このようにして、商品が自己運動するんだ。——と。
しかし、いまから考えると、私には、このような説明は、ヘーゲル的な匂い、あるいは梯明秀的な匂いがするのである。そのような匂いがするのは、商品Aが全体として価値として意義をもち、商品Bが全体として使用価値として意義をもつとされており、商品の内的矛盾が外化されて、内的矛盾の二契機をなすところの、価値が商品Aとして措定され、使用価値が商品Bとして措定されて、商品Aと商品Bとの外的対立が成立する、というようなイメージがわいてくるからである。しかも、引用文のなかで「商品の内的矛盾の外的対立における運動」とか「商品の自己運動」とかというように、「運動」「自己運動」と表現されていることからして、ますますそのようなイメージがわいてくるのである。
もしも、資本家のもっている貨幣が生産手段と労働力とに転態し、この両者が合体されて生産物がうみだされ、生産物が売られて貨幣に転態する、というようなことであるならば、認識主体が対象的なものをこのように概念的に規定したということであって、このようなことがらについては、「運動」「資本の運動」と言えるわけである。これとは異なって、マルクスが体系的に展開しているところのこの叙述、すなわちマルクスが概念的規定を一歩一歩論述していっている叙述展開を、「商品の自己運動の学問的体系」というのはおかしいのではないか、ということである。すなわち、ここに言う商品を商品という概念規定と考えるならば、商品という概念規定がそれを論述しているマルクスをぬきにして自己運動することはないではないか、ということである。他面、商品の自己運動ということを、商品が貨幣に転態し・この貨幣が生産手段と労働力に転態し……という現実の自己運動をさすのであるとするならば、そんなものが学問的体系の叙述になることはないではないか、ということである。商品が自己運動して文章を書いていく、などということはないからである。
黒田に、価値形態の論理について図を描いて教わった何年か後に、たままた、『資本論』のなかの、黒田から教わったところに対応するマルクスの展開を読んだ。私は、エッ、この展開は、黒田から教わったこととは違うじゃないか、とおどろいた。
私は、この問題を、ずっとそのままにしてきていたのであったが、いま検討しているわけである。
そこには、マルクスは次のように書いていた。
「商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立入って考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの自然的形態は使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの自然的形態は価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということが分かった。かくして、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一の外的対立によって、すなわち二つの商品の関係——そこでは、それの価値が表現されるべき一方の商品は直接には使用価値としてのみ意義をもち、それで価値が表現される他方の商品はこれに反して直接には交換価値としてのみ意義をもつところの、二つの商品の関係——によって、表示される。かくして、一商品の簡単な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の簡単な現象形態である。」(青木書店版155頁、太字は原文でも太字。新日本出版社版111~112頁、この訳本では傍点)
いま、この問題を検討しよう。
黒田は、「商品Aが全体として」、「商品Bが全体として」というように、ぞれぞれの全体をとりあげて「として意義をもつ」ということを論じていたのにたいして、マルクスは、「何の自然的形態は何々の姿態としてのみ意義をもつ」というように、それぞれの商品の自然的形態をとりあげて「の姿態としてのみ意義をもつ」ということを論じているのである。このことに規定されて、それが何として意義をもつのか、すなわち使用価値として意義をもつのか、価値として意義をもつのか、ということについては、マルクスと黒田とではひっくりかえっているのである。
このことを見るならば、マルクスは、あくまでも、使用価値と価値との統一をなす商品が同様の商品ととりむすぶ関係、すなわちその自然的形態(すなわち使用価値)と社会的な意味での物的対象性(すなわち価値)との統一をなす商品が同様の商品ととりむすぶ関係を論じており、このことをゆるがせていないのにたいして、黒田は、関係をとりむすんでいる二商品の一方の側を価値一色に塗りつぶし、他方の側を使用価値一色に塗りつぶしているのである。
黒田のこのような捉え方は、やはり、ヘーゲル的であり、梯明秀的である、といわなければならない。黒田が駆使している論理は、あるものに内在する内的矛盾が外化されて二つのものの外的対立がうみだされ、内的矛盾の一方の契機が外的対立の一方の側となり、他方の契機が他方の側となる、という論理をなすからである。この表現のうちの「となる」というところを「として意義をもつ」というように言い換えても、この論理は同じである、といわなければならない。
黒田のこの問題は、『資本論』の第一章の第一、二節と第三節とにマルクスがつらぬいている論理を黒田がつかみえていないことにある、と私は考える。
黒田は、第一、二節は、商品A(=商品B)を措定し、第三節は、商品A=商品Bを措定してマルクスは論じているのだ、と教えてくれた。黒田は、第一、二節にかんしては、商品Bを丸カッコに入れているように、ひとつの商品すなわち「全=個」の商品の内的矛盾が論じられている、というように考えている、と思われるのである。私は、第一、二節も、第三節も、ともに、商品A=商品Bを措定してマルクスは論じているのであり、措定しているもののその内実が異なるのだ、と考えるのである。マルクスは、先の引用文のなかの最後のほうで「一商品の簡単な価値形態は」と表現しているように、価値形態について論じるときにも、等式の左側の商品すなわち商品Aを主体にして論じているのである。このことは、第一、二節でも、第三節でも、かわりはないのである。第一、二節では、右側の商品を丸カッコに入れる、ということではないのである。
マルクスは、次のような方法を駆使している、と私は考えるのである。
マルクスは、出発点においては、ある種類の商品は他の種類の商品と交換関係をとりむすぶ、たがいに交換されるのであるからして、これらの商品はひとしい、ということだけを措定するのである。そして、このことは何にもとづくのか、というように問い、その根拠を明らかにするのである。これが第一、二節である。これにたいして、マルクスは、第三節では、第一、二節で自分が明らかにしたところのものを出発点にするのである。使用価値と価値との統一をなすところのある種類の商品、したがってその商品にふくまれている労働が具体的有用労働と抽象的人間労働との二重的性格をもつところのある種類の商品、この商品と、これと同様の他の商品との関係を措定するのである。そして、前者の商品がみずからの価値を後者の商品の体(からだ)で表示する、ということを明らかにしたのである。
このようにマルクスは、第一、二節から第三節へと、資本制生産の普遍的抽象のレベルという同じ抽象のレベルのうえで、抽象の度合を一歩具体的なものとしたのである。これは、『資本論』を叙述しているマルクスがおこなったことなのである。したがって、このことにかんして、商品の内的矛盾が外化するとか、「商品の内的矛盾の外的対立における運動」とか「商品の自己運動の学問的体系」とかというように言うことは決してできないのである。そのように言うのは、『資本論』を叙述しているマルクスを、書かれている『資本論』の文章のなかに追いやり、そこに埋没させた把握である、といわなければならない。このような把握は、黒田寛一が、『資本論』の体系と展開をヘーゲルの「論理学」でもって解釈した梯明秀を徹底的に批判しつくすことをぬきにして、その理論を、それを批判的に改作するというかたちで継承したことにもとづく、といわなければならない。概念的規定は、それを叙述しているマルクスをぬきにして、かってに自己運動することはないのである。
われわれは、『資本論』の叙述に、これを書いたマルクスを見、このマルクスを感じ・つかみとり、このマルクスをおのれのものとするのでなければならない。
黒田寛一は、1985年になって、「第三節で展開されている」「価値関係の反照論理」を「第一、第二節」に貫徹せよ、とマルクスを批判した(『賃金論入門』224頁、「『資本論』における「労働の質」」論文)。これは、商品の使用価値と価値との内的対立が、したがってまた具体的有用労働と抽象的人間労働との二重的性格が、すでに前提となっているものとして、この規定を前提にして『資本論』を書きはじめよ、とマルクスに要求するものなのである。このように要求する黒田は、マルクスが、第一、二節から第三節へと、抽象の度合を一歩具体的なものとしているということをつかんでいないのである。『資本論』を叙述しているマルクスを省みていないのである。「使用価値の実体としての具体的有用労働の種類のちがいが消失する」(同前)というような変なことを書くのは、このことにもとづくのである。労働の、その種類がちがうという側面をマルクスは具体的有用労働と規定しているのであるからして、具体的有用労働という規定から種類のちがいが消失する、ということはない。ここは、商品にふくまれている労働からその種類のちがいが消失する、としないことには、わけがわからないのである。このようなことになるのは、黒田が、マルクスが『資本論』を書きはじめる最初から、『資本論』の体系には「具体的有用労働」という規定が存在している、とみなしていることにもとづくのである。
われわれは、『資本論』の叙述にマルクスを見なければならない。

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