字数オーバーになったので、区切りました。

 

その9になります。

 

前回の話はこちらから

 

連続小説「A氏の日記」 その8

 

 

 

それでは、本編です。

 

 

 

 

「宇佐見君。ちょっと来てくれ。」
 翌日いつも通り出勤すると、宇佐見はさっそく上司である課長に呼ばれた。又何か文句を言われることでもしたかなと内心思いつつ、宇佐見は課長の前に立った。
 だが、今回課長が宇佐見を呼んだのは、小言を言うためではなかった。昨日の相田部長との接待で、大成功をおさめたことへのお褒めの言葉だった。
「宇佐見君。今相田部長から電話があってね。相田部長、君のことを『今時の若い者には珍しい骨のある若者だ』とえらく君のことを気に入られてね。宇佐見君が担当なら信用できるということで、例の取引は、全面的にうちに任せてもられるとのことだ。」
 課長の言葉が心なしかはずんでいる。無理もない。今までなかなかうまく進まなかった進和食品…相田部長のいる会社である…への原料一括納入先に、宇佐見のいる会社が決定したのだ。年間取引額約一億円余りの商談を宇佐見が成立させたのだ。いつも小言しか言わない課長の渋い顔が、初めてほころんでいるのを宇佐見は見た。
「ありがとうございます。」
 信じられないという気持ちで一杯だった。酒に弱いという悩みが解決しただけでなく、仕事も予想以上にうまくいった。夢でも見ているのではないだろうか。そう思わずにはいられなかった。
「いやあ、本当によくやってくれた。上司として、私も鼻が高いよ。いやあ、本当に…。君はいつか大きな事をやる人間だとずっと思っていたよ。」
 今まで一度も宇佐見を褒めたことのない課長の言葉とは思えなかった。
 …よくいうよ。今まで、さんざん厄介者扱いしてきたくせに…。
 宇佐見はあまりにわざとらしい課長の褒め言葉に少々うんざりしていた。しかし、人に褒められるのは、誰でも気持ちの良いものである。イヤミで減点主義の課長に、こうまで手放しで褒められるなどめったにないことだ。宇佐見の顔には、得意満面といった感じの笑みが広がっていた。
 その日の夕方、会社が終わるとすぐに、宇佐見はA氏の事務所を訪ねた。幸いA氏は事務所にいた。中に通された宇佐見は、A氏の入れてくれたミルクティーを飲みながら、やや興奮ぎみに、A氏に事の次第を報告した。
 それは、時に身ぶり手ぶりを交えた熱弁であった。
「正直言って、最初はこの薬の事を信じていませんでした。」
 興奮もややさめ、宇佐見はA氏の顔色をうかがいながら言った。
「あ、もちろん今は信じてますよ。ホント。疑って悪かったなあって思ってます。」
「宇佐見さん。まあ、そう気をつかわないでください。誰だってこの薬の効果は、簡単に信じられないでしょう。疑って当然です。でも、良かったですね。全てがうまくいって。」
 そう言うとA氏はミルクティーを飲んだ。
「ええ。ほんとにありがとうございます。おかげで助かりました。あ、それで、これ約束の代金です。」
 そう言うと宇佐見はテーブルの上に白封筒を差し出した。中には一万円札が一枚入っていた。
「はい、じゃあ確かに。どうもお買い上げありがとうございます。」
 A氏は封筒の中のお金を確認すると、背後の戸棚を開け、その中に置いてある小箱の中に一万円札をしまった。
「あの、本当にこの金額でいいんですか。」
「ええ、結構ですよ。最初に言った通り、この薬は試作品ですからね。だから値段はあってないようなものなんですよ。だから値段はあってないようなものなんですよ。どうしました。何か気になることでもあるんですか。」
 戸棚に鍵をかけながら、A氏は宇佐見に聞いた。
「いやあ。あの、気を悪くしないでくださいね。」
 そう前置きして、宇佐見は話しはじめた。
「この薬、試作品だってAさん言いましたよね。ひょっとして、僕は、人体実験っていうか、モルモットっていうか、何ていうか…。そういう実験の対象にされていて、だからこんな不思議な効き目のある薬が安く手に入るのかなあ、とか。そんな風に思ったりして…。」
 宇佐見の顔を、A氏はじっと見つめていた。
「あ、ほんとごめんなさい。謝ります。今のは無し。冗談、冗談です。ちょっと思っただけだから。怒んないでくださいね。」
 宇佐見が心配そうに言う。A氏はほんの少しの間、宇佐見を見つめていたが、笑みを浮かべ、口を開いた。
「怒っていませんよ。宇佐見さん。安心してください。あなたの心配はもっともです。でもね、大丈夫ですよ。」
 A氏はミルクティーを一杯飲み、話を続けた。
「前にも言った通り、この薬が人体に害を与えないことは、すでに実験済です。安心してもらって大丈夫です。私の言葉を信じてください。」
 その言葉を聞いて、宇佐見は少し安心したようだった。自分を助けてくれたA氏がそう言うのだから大丈夫だろう…。そう思っていた。
「もし心配なら、その薬、引き取りましょうか。もちろん、代金はお返ししますよ。」
 A氏は宇佐見に聞いた。
「いえ、それは困るんです。信用してますから、この薬をkださい。」
 慌てて宇佐見は言った。
「実は、相田部長にすごく気に入られてしまったんで、これからは僕が相田部長の担当を専属でやっていくことになったんです。だから、これからも飲む回数は確実に増えると思うんです。だから、どうしてもこの薬が必要なんです。」
「ええ。あなたが必要とされるのでしたら、別に問題はありません。どうぞ持って帰ってください。」
「ありがとうございます。」
「ただ、最初に約束したことだけは、必ず守ってくださいね。」
「約束したことですか…。」
 宇佐見は何の約束をしたのか、思い出せなかった。
「薬を飲みすぎないように注意する、という約束ですよ。」
「ああ、そのことですか。大丈夫。ちゃんと憶えていますよ。」
 宇佐見にとっては、あまり重要な事とも思えなかったので、すっかり忘れてしまっていたのだった。
「いいですか。この薬を飲んでいたとしても、お酒を飲むという行為そのものには何ら変わりはないんです。たとえ、瞬時にアルコールを分解できたとしても、当然、体にはそれだけの負担がかかる。これは当たり前のことですからね。」
 A氏は真剣な顔をして言った。
「ええ、大丈夫。分かっていますよ。そんな無理はしませんって。約束しますから。」
 A氏の言葉に対して宇佐見は軽く答えた。本当にA氏の言った意味を理解しているのかどうか、疑わしいものであった。だが、これ以上言っても今の宇佐見の心にはこれ以上自分の発した注意はとどかないだろう。そうA氏は考えていた。
 それからすぐに、宇佐見は例の薬を大事そうに鞄の中にしまいこんで帰っていった。日はとうに暮れていた。かすかに燭台の光しかない、薄暗い部屋の中で、A氏はじっと座っていた。
「果たして、本当に約束を守れるかな。」
 暗闇の中、A氏の表情はわからなかった。が、とてつもなく冷たい、そして意地の悪い表情をしているであろうことは、声から想像できた。A氏の、低い笑い声が部屋の中に響いていた。