さて、昨日に引き続き、「A氏の日記」のその2です。

 

連続小説「A氏の日記」 その1

 

初めて読まれる方は、その1を読んでから読んでください。

 

 

A氏の日記

 

 扉を開けると、十畳ほどの広さの部屋があった。薄暗い部屋で、あちこちに本や書類の束、地図などが散乱しており、足の踏み場のないほどだった。

 事務所というよりは、書斎か研究室と言ったほうがよいだろう。

「さあ、どうぞ。立っていないでこちらに座ってください。」

 A氏にすすめられるまま、男は部屋の中央にある応接セットのソファーに座った。

「ずいぶんたくさん本がありますね。古い本も多いようだけれど。」

 積み上げられた本の中には、和綴じの本や豪華な装丁の洋書もまじっていた。が、前年ながら男には、本の題名すら読みとることができなかった。

「ええ。読書が趣味でして。置き場がなくてこの有り様です。」

 奥のキッチンで紅茶を入れながらA氏は答えた。まもなく銀製のトレイにミルクティーをのせて、A氏が戻ってきた。

「どうぞ、熱いうちに。私、紅茶党でして。あ、お嫌いでしたか。」

「いえ…。じゃあ、いただきます。」

 部屋の中に甘いミルクティーの香りが漂った。

「ああ、そういえばまだお名前を聞いていませんでしたね。」

 ミルクティーを一口飲むと、A氏は男に尋ねた。

「私は『宇佐見』といいます。東邦商事に勤めています。」

 そう言うと男は名刺を差し出した。名刺には、宇佐見の名前と営業部の電話番号が書かれていた。

「商社マンさんですか。東邦商事といえば一流企業じゃないですか。お仕事も大変でしょう。外国とかにもよく行かれるんですか。」

「ええ、まあ、たまには…。けど、私なんてまだまだ新人だから雑用ばっかしで…。」

「いやいや、そんな事ないでしょう。」

「いえ、本当に…。」

「また、そんな謙遜なさって。」

「いや、そんなんじゃないですよ…。」

「いやあ。けど、かっこいいですよねえ。なんだかこう、テレビドラマの主役みたいにキマッてますね。私も子供の頃には、あなたのように外国を飛び回る仕事をしたいと思ってたんですよ。」

「そうですか…。」

 宇佐見の耳にはA氏の言葉はほとんど届いていなかった。ただ、これからどうやって話を切り出したらよいものか、そればかり考えていた。

 しばしの間、二人の間に沈黙の時が流れた。

「それで、悩みというのは、やはりお仕事のことですか。」

 話を切り出したのはA氏だった。

 そう、確かに宇佐見の悩みは仕事に関する事だったが、この部屋に入って、宇佐見はまだ一言も、悩みに関する具体的な事をしゃべってはいない。

 …なんでわかったんだろう…

 少しの驚きと、そして不信をミックスした顔で、宇佐見はA氏を見た。

「そんな顔して私を見ないでくださいよ。」

 A氏は宇佐見を安心させるように笑いかけながら言った。

「私は別に易者でもなければ、まして超能力者でもないんだから。別に宇佐見さんの考えてる事を当てようと思って言ったわけじゃないですよ。」

「……。」

「ただ、こういう仕事 ―悩み事相談みたいなことですが― を長年やっていると、勘っていうんですかねえ。多少話をしてみると、なんとなく相手の悩んでいる事が二つ、三つは予想できるんですよ。」

「……。」

「今話をしていて、宇佐見さんがあまり仕事の事を話したくない様子だったから。だから仕事の悩みかなと思って言ってみたんですよ。」

「そうだったんですか。あんまりズバッと当てられたもんだから、ちょっとビックリして…。」

「驚かせてすいません。じゃ、やっぱり仕事上の悩みなんですね。」

「ええ、実はそうなんです。」

 そう言うと宇佐見はうつむいて、黙り込んでしまった。悩みを抱えているものの、それを打ち明けることをためらっているようだった。

「宇佐見さん。どうぞなんでも気楽におっしゃってください。私なら、きっと、あなたの力になれると思いますよ。」

 そう言うとA氏は優しくほほえんだ。

 笑顔には人を落ち着かせる力がある。A氏の笑顔を見て、宇佐見は、A氏になら力になってもらえるかもしれないと思い始めていた。

 A氏と宇佐見とは、つい五分か十分ほど前に会ったばかりだった。しかし、不思議なことだが、A氏の笑顔を見ていると長年付き合った親友と一緒にいるような気分になり、心が落ち着いた。そして、何でも隠すことなく話してしまおうという気になってしまうのだった。

 宇佐見は意を決した。

「はい。実は、悩みというのは酒に弱いことなんです。」

 宇佐見の言葉を聞いて、A氏は一瞬考え込んだ。

 今まで色々な悩み事を聞いてきた。悩みというのは他人から見ればあまり大した事ではなくても、本人にとってみれば重大な事、というこはよくある。しかし、「酒に弱い」ということは重大な悩みだろうか。ここまで悩むのはいったいなぜなのか。

 A氏は興味を大いにそそられつつ、宇佐見に聞いた。

「お酒に弱い…ですか。なるほど。しかしそう悩むことでもないでしょう。世の中には、下戸の人も大勢いますよ。そう困ることもないじゃないですか。」

「それがよくないんです!!」

 宇佐見は叫んだ。

「私、酒がはいると、酔っぱらってしまうと、何がなんだかわからなくなってしまって、とんでもないことをしてしまうんです。人にからんだり、殴ったり。学生の頃からそうでした。だから、学生時代もできるだけ飲み会なんかには出ないように気をつけていました。けれど、今は仕事上、接待なんかで飲まなきゃならないんです。」

 宇佐見は一気にしゃべった。それまで心に溜め込んでいたものを吐き出すことができたからだろうか。宇佐見は大きくため息をひとつつくとソファーの背もたれにドサッと身をもたせかけた。

「はあ、わかりました。まあ、宇佐見さん。少し落ち着いて下さい。」

 A氏はのんびりとした口調で宇佐見を制した。

「あ、すいません。つい興奮して。」

 宇佐見は冷静さを欠いた自分を子供っぽくも感じ、少し恥ずかしくなった。

「いえいえ、かまいませんよ。」

 そんな宇佐見の心の中を見抜いているのか、A氏はそう言うと、再び「クスリ」と笑った。

「それで。話を続けて下さい。」

「ええ。このあいだのことです。取引先の部長を銀座のクラブで接待したんです。大事な取引先の接待だったので、間違いのないように私も気をつけていたんですが…。」

 そう言うと、宇佐見は一週間前の夜に起こったでき事を話しはじめた。