さてさて、新シリーズです。

 

 今を去ること二十年以上前、二十代の私は、小説家になりたいと夢想する時期がありました。

 その当時、いくつかの短編を書きました。

 今のようにSNSもブログも、ましてネットも無い時代です。発表の場は無く、某出版社のコンテストに応募するも最終予選での落選。

 そんな作品をいつかどこかで日の目を見させてやりたいと少し前から思っていました。

 

 当時は手書きで原稿書いていたので、中々ワードに打つ時間が取れなかったのですが、ちょこちょこ打てたので、ここから分けてアップしていきたいと思います。

 

 当時書いたままの文章です。読みづらいとは思いますが、よければお付き合いください。

 

 それでは、その1です。

 

 

 

 

A氏の日記

 東京。新宿歌舞伎町に夕闇が迫っていた。慌ただしく行き交う人の波。街は昼の顔から夜の顔へと変化を始めていた。

 逢魔ケ時。闇の世界と現実の世界が交差する時間。闇の裂け目に迷い込み、永遠に逃れることのできない無限の空間をさ迷い続ける人もいるという…。

 夕暮れは人を怪しの世界へといざなう。人の心の奥に隠れたもう一つの顔を呼びさます。現実と、非現実の世界をつなぐドアが開く時間…。

 紅い夕闇に覆われた新宿コマ劇場の西にある路地を、一人の男が行ったり来たりしていた。男は小さなビルの前で、ビルの中に入るべきか悩んでいた。中に入る決心がつきかねていたのだ。そして、動物園の熊のように、三十分もただただビルの前をうろうろしていた。

 年令は二十五、六歳。グレーの三つボタンのスーツに、ペイズリー柄のネクタイ。この時間に薄汚れた路地裏に幼児があるようにはとても見えなかった。

 しかし、男には目の前に建つ雑居ビルを訪ねる用事があった。だが、いざとなると、どうしても第一歩を踏み出す勇気が湧いてこなかった。いっそ引き返そうかという気分にすらなってきていた。

「教えてもらった場所は、確かにここだよなあ…。しかし、えらく汚いし、それに何だか怪しいビルだなあ。本当に大丈夫なんだろうか…。」

 男のつぶやきはもっともだった。

 ビルは赤いレンガ造りで、完成当初はさぞかしハイカラな造りだったのだろうが、築五十年は経過しているだろうか。壁のあちこちにヒビがはいり、赤いレンガもくすんだ色になっていた。そのため、夕闇の中に建つビルは、まるで幽霊屋敷のような印象を男に与えていた。これでは、入るのにためらうなというのは、無理な相談だった。

 男は再びビルの前に立った。前には鉄製のぶ厚いドアがあり、樫の木で作られた看板が掛かっていた。看板には墨で大きく「何でも屋」と書かれていたが、長年の風雨でその文字は薄く、今にも消えそうになっていた。

 男の用事はこの「何でも屋」を訪ねることだった。しかし、鉄のドアは堅く閉ざされており、中に人がいそうな気配も感じなかった。この「何でも屋」の噂を人に聞き、一日かかってようやく探し当てたのだが、その努力も無駄になりそうだった。

「やっぱりやめとこう。どんな悩みも解決するなんて、そんな都合のいい話があるわけがないんだから。」

 あきらめて帰ろうとしたその時、不意に背後から声をかけられた。

「あのお、うちの事務所に何かご用でしょうか。」

 少し間の抜けたような、甘いテノールがかった声が、男を呼び止めた。

 振り向くと、そこには黒色のシャツに黒色のズボン、そして黒いコートをまとった、人の良さそうな男が立っていた。

 年は三十歳くらいだろうか。すらりとした長身で品のよい顔立ちをしており、人なつっこい笑みを浮かべていた。

 「若旦那」、という形容詞がぴったりの男だった。かなりの美形だが、その人なつっこい笑みが、ともすればクールに見られてしまう容姿を優しいものにしていた。

 サラリーマン風の男は、しばし目の前に立つ黒ずくめの男に見とれていた。しかし、すぐ我にかえり、黒コートの男に尋ねた。

「あの、ひょっとして『何でも屋』のかたですか。」

 恐る恐る、聞いてみた。

「はい。私、『何でも屋』の『えい』と申します。」

「『えい』…さんですか。」

 男は一瞬、自分が聞き間違いをしたのかと思ってしまった。

「はい。アルファベットの『A』です。」

 少しの間考え込み、ようやく目の前の黒コートの言う意味がのみこめた。

「おわかりいただけましたか。変わった名前なんで、皆さんすぐにはわかっていただけなくて。」

 そう言うと、黒コートの男はすまなそうに頭をかいた。

 確かに変わった名前だった。

「皆さんあなたと同じような顔をします。」

「私と同じ?。」

「ええ、呆気にとられた顔です。」

 そう言うと、「A」と名乗った男は、「クスリ」と笑った。。サラリーマン風の男は、一瞬、自分がからかわれたような気がしてムッとしたが、A氏の邪気のない笑顔を見ると、そんな気分もすぐに失せてしまった。

「あ、ところで先程から事務所の前にいらっしゃったようですが、何かご用ですか。」

「あ、ええ。実は…。その…。」

 いざとなるとなかなか言い出せない。

 本当は困ってここに来たはずなのに、何から話したらいいのか、とっさに言葉が思い浮かんでこない。

「何かご用でしたら、どうぞ中に。ちらかってますけど、遠慮なさらずに。」

 そう言うと黒コートの男は鉄製のドアを開け、中に招き入れる仕草をした。男はA氏にうながされるまま、ビルの中に入っていった。