ワタシの手元に、1970年に頒布されたセガの会社案内があります。拙ブログではこれまでにもここからの引用を含む記事を投稿しているはずなのですが、この資料自体を記事にしたことがありません。そこで今回は、この1970年版セガ会社案内のご紹介をしていこうと思います。

 

▲セガが1970年10月に頒布した会社案内の表紙。

 

この会社案内は版型が少し特殊で、1ページがほぼ正方形です。二つ折り全8ページの構成で、表紙をめくって2ページ目には社長の挨拶とセガの沿革、次の3ページ目には会社概要と海外及び国内の主な取引先が列挙されています。

 

▲2ページ目と3ページ目には会社概要や取引先が述べられている。

 

続く4ページ目と5ページ目では、営業、販売、サービスの各活動内容と、当時の主力商品の画像が挙げられています。

 

▲セガの活動と当時の主力商品を掲示する4ページ目と5ページ目。

 

6ページ目と7ページ目では、研究開発部門、製造部門品質管理部門などの現業部門を紹介し、さらにセガが国際的な企業であることを誇らしげに紹介しています。

 

▲現業部門の紹介と欧米に展開するワールドワイドなビジネスを紹介する6ページ目と7ページ目。

 

最後の裏表紙では42か所にも及ぶ国内の営業所、出張所の住所が記載されています。東京を中心とする関東地方はもちろんのこと、北は北海道から南は九州まで全国を網羅しています。沖縄が含まれていないのは、この時点の沖縄はまだ日本ではなかったからです。

 

以上がセガの70年版会社案内の全容ですが、画像をブログのプラットフォームが推奨するサイズに縮小しているのでディテールが全然見えないとの不満も多かろうと思われます。そこで各写真ごとに拡大して掲載しようと思うのですが、画像が多く記事が長くなってしまうため、次回以降で順次ご紹介させていただきたいと思います。

 

(つづく)

本記事では、拙ブログの過去記事のうち、メダルゲームの歴史に関連する記事を、以下の2つの小分類に分けてまとめています。

 

(1)メダルゲームの歴史総合

(2)国産メダルゲーム機の歴史

 

なお、上記小分類以下の細分類では、見出しの冒頭に「★」を付けて示しています。

 

本記事は、今後更新されることがあります。最終更新日:2026年3月11日

 

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1)メダルゲームの歴史総合

 

 「メダルゲーム」の曙を見た記憶 2016.03.02

まだ「メダルゲーム」というジャンルが業界に確立する以前の1970年ころに渋谷のボウリング場で見たゲームファンタジア実験店舗の記憶。

 

 「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(1) 2017.01.14

メダルゲームが市場に定着した当初、「メダルゲーム」と言う語はまだできておらず、「カスタム方式」、「シグマ方式」、「メダルイン・メダルアウト方式」などと呼ばれていた。

 

 「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(2) 2017.01.14

「メダルゲーム」の語が現れたのはいつごろで、だれが言い出したのか。また、トークンを「メダル」と呼ぶ和製用法になったのはどういうわけか。

 

 「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(3) 2017.01.15

メダルゲームで使用されるメダルの種類と変遷など。

 

 プッシャーに関する思いつき話(1):プッシャーの起源の謎 2018.09.02

メダルゲームに欠かせないジャンル、コインプッシャーの起源に迫る。

 

 プッシャーに関する思いつき話(2):日本におけるクロンプトン 2018.09.09

コインプッシャーの代表的メーカー、英国のクロンプトン社と日本のディストリビューターの関係。

 

 プッシャーに関する思いつき話(3):クロンプトン社の歴史1・「ペニー・フォールズ」 誕生まで 2018.09.16

クロンプトンはいかにしてAM業界に参入し、コインプッシャーの発明に至ったか。英国のウェブサイト「PennyMachines.co.uk」の有料記事から抜粋その1/3。

 

 プッシャーに関する思いつき話(4):クロンプトン社の歴史2・1997年以降 2018.09.23

クロンプトン社の歴史について、英国のウェブサイト「PennyMachines.co.uk」の有料記事から抜粋その2/3。

 

 プッシャーに関する思いつき話(5):クロンプトン社の歴史3・「ペニー・フォールズ」 2018.09.29

クロンプトン社の歴史について、英国のウェブサイト「PennyMachines.co.uk」の有料記事から抜粋その3/3。

 

 プッシャーに関する思いつき話(6):日本のプッシャー 2018.09.30

日本におけるコインプッシャーのオペレーションと日本製プッシャーの変遷。

 

 「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた 2019.07.14

日本のAM市場に「メダルゲーム」はいかにして生まれ、いかに確立され、いかに発展していったか、1960年代後半の胎動期から、黎明期、発展期を経て1970年代末の停滞期までの経緯。

 

 1976年のバーリーの新製品騒動の話 2022.05.23

かつて、メダルゲーム機の最重要供給源だった米国Bally社(正確にはその日本法人バリー・ジャパン社)と日本のディストリビューターの間で生じたなにかしらのトラブルの話。

 

 【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり 2024.01.07

おそらく日本初のメダルゲーム機総合カタログとそこに掲載されている機種について。

 

 【補足】前回提示したいくつかの謎について続報 2024.01.14

前回記事「【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり」に掲載した機種について、ご高覧いただいた方々からの情報を追加。

 

2)メダルゲーム機の歴史

 

初期のメダルゲーム機

 初期の国産メダルゲーム機リスト(1) 1974 2022.08.28

1974年に発売された国産メダルゲーム機14機種のタイトルとジャンル、特徴など。

 

 初期の国産メダルゲーム機リスト(2) 1975 2022.09.06

1975年に発売された国産メダルゲーム機33機種のタイトルとジャンル、特徴など。

 

 初期の国産メダルゲーム機リスト(3) 1976 2022.09.11

1976年に発売された国産メダルゲーム機29機種のタイトルとジャンル、特徴など

 

 初期の国産メダルゲーム機リスト(4) 1977‐1978 2022.09.18

1977年~1978年に発売された国産メダルゲーム機18機種のタイトルとジャンル、特徴など。

 

 初の国産メダルゲーム機の記憶 2016.03.06

当初、メダルゲームで稼働するゲーム機のほとんどが海外製のスロットマシンだったが、やがて国内メーカーが独自に開発するようになった。その国産第一号機と思しき機種について。

 

 【衝撃の小ネタ!】国産初のメダルゲーム機、実はファロじゃない!? 2023.

5.14

従来、拙ブログではセガの「ファロ(FARO)」を国産第一号機としていたが、これが誤りであったことが判明。

 

 初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ 2023.5.21

拙ブログが国産メダルゲーム機第一号機と判断する「シルバーフォールズ」とはどういうゲームか。

 

★ビデオポーカーの歴史

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(1) 2017.02.19

北米のカジノ市場のみならず日本のメダルゲームでも重要なジャンルだったビデオポーカーの歴史をたどる。

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2) それ以前のビデオポーカー 2017.02.19

1970年代の早い段階に存在した、CRTではなくリアプロジェクターを使用したビデオポーカーと、その後のCRTに表示するビデオポーカーの比較。

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3) 米国内の動き 2017.02.25

「スロットマシン・キング」の異名を取る「ウィリアム・サイ・レッド」が世界最大のスロットマシンメーカーIGT社を設立する以前にビデオポーカーを開発したいきさつと、サイの個人的エピソード。プラスIGTとsigmaの奇妙で謎い関係が垣間見える米国の雑誌のエピソードの紹介。

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(4) 80年代の日本におけるビデオポーカーの暗黒時代 2017.03.05

1980年、ビデオポーカーは日本で「Gマシン」として蔓延し、社会的大問題となった

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(5) sigma、ネバダのゲーミング市場に参入 2017.03.12

本来オペレーターだったsigmaは独自にゲーム機を開発するようになり、さらに米国ネバダ州のメーカーライセンスを取得した。sigma製のビデオポーカー機はラスベガスでも広く普及した。

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(6) 90年代のビデオポーカーとsigmaの終焉 2017.03.20

ビデオポーカーの雄だったsigmaはその後も高解像度化などで日本のメダルゲームを牽引したが、2000年にARUZEに吸収合併され、その歴史を閉じた

 

★セガのマスビンゴシリーズ

 セガのマスビンゴゲーム(1)~(4) グループビンゴからワールドビンゴまで 2018.02.18

メダルゲームの重要な一ジャンルであるマスメダルゲーム機の「ビンゴ」のうち、セガが開発した初期の2機種について。

 

 セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975) 2018.02.25

セガ(と言うか日本初)のマスビンゴゲーム機で、のちの「ビンゴサーカス」の元ネタとなった「グループビンゴ」とはどういうゲームだったのか。

 

 セガのマスビンゴゲーム(3) ビンゴサーカス(Bingo Circus, 1989)とその後継機 2018.03.04

後継機が出るまで8年を要したロングラン機であり、台湾では日本から輸入したオリジナル機の倍のコピー機が出回ったと言われる大ヒット機種「ビンゴサーカス」とはどういうゲーム機だったのか。

 

 セガのマスビンゴゲーム(4) ビンゴパーティー(Bingo Party, 1992)とそのシリー  2018.03.11

セガのマスビンゴ機シリーズには、ビンゴサーカスの流れを汲む「サーカス系」の他に、もう一つ異なるゲーム性の「パーティー系」があった。

 

★セガ・FAROシリーズ

 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(1) NEW FAROとFARO II 2023.05.28

国産メダルゲーム第2号機である「ファロ(FARO)」の、以降に続くシリーズについて、「NEW FARO」と「FARO II」はどちらが古いのか。

 

 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(2) NEW FARO後のFAROその1 2023.06.04

「NEW FARO」以降のFAROについて。

 

 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(3)  2023.06.11

FAROシリーズの最後となった「FARO JACK」について。ついでに筐体を使い回した「VEGAS STREET」にも言及。

 

★sigma「The Derby」シリーズ

 sigma「THE DERBY」シリーズの系譜メモ (と、GWに伴う更新スケジュール変更のお知ら 2019.09.28

sigmaのシグネチャータイトルである「THE DERBY」シリーズは、いつ、どんなバージョンが発売されたか。

 

★タイトーのメダルゲーム機

 初期の国産メダルゲーム機(8) タイトー1975 2019.07.28

 セガに次いで早い時期にメダルゲーム機に参入したタイトーの、ごく初期のメダルゲーム機について。

 

 カラービンゴ(タイトー)の発売年の謎

1975年の業界誌に掲載されたタイトーの広告に見える「カラービンゴ」は、しかしなぜか発売は1978年だった。

 

★ユニバーサルのメダルゲーム機

 初期の国産メダルゲーム機(6) ユニバーサル その2a 2018.04.27

タイトーと並んで早い時期にメダルゲーム機に参入したユニバーサル(後のアルゼ)の、1975年のメダルゲーム機について。

 

 初期の国産メダルゲーム機(7) ユニバーサル その2b 2018.05.13

タイトーと並んで早い時期にメダルゲーム機に参入したユニバーサルの、1976~7年のメダルゲーム機について。

 

★その他のメダルゲーム機

 【小ネタ】ビンゴ・ピンボールの謎ふたつ 2020.07.19

ピンボールのビンゴ機が日本に入ったのはいつ頃なのか。記事に寄せられたコメントにその答えと思しき書き込みが・・・

 

 1976年の業界誌から、謎のメダルゲーム機4つ 2023.02.12

1976年の業界誌に見える謎のメダルゲーム「ヤッジイ(YATZY)」、「ダブルオアナッシング(DOUBLE OR NOTHING)」他について。コメント欄やSNSでいただいた情報に価値あり。

 

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▲セガが1974年に頒布した、おそらく日本初のメダルゲームカタログの表紙。二つ折り4ページ仕様だった。

1969年以前で「ゲームセンター」の語が使用されている例の続きで、今回は三件あります。

 

一つ目は、「ああ野麦峠」で有名な山本茂実さんのエッセイ「庶民の常識」です。この第二章「都会に生きる人びと」に収録されている「銀座裏を行く」に、「ゲームセンター」の語が出てきます。「庶民の常識」が出版されたのは1956年ですが、「銀座裏を行く」自体は1952年4月に書かれたものです。

 

▲「庶民の常識」95ページに記述されている「ゲームセンター」の語。

 

ただしこれは「銀座ゲームセンター」と言うパチンコ店の店名であって、業種や業態を示す言葉ではありません。屋号に「ゲームセンター」を名乗る風俗7号(現在の4号)店は少なくとも1980年代までは時々見かけており、違和感があったものでしたが、それが実は1952年時点で既に用例があることがわかったのは収穫です。

 

二つ目は、共同通信社昭和34年1959年)に発行した資料集「日本現勢」の中にありました。「日本現勢」とは、政治、経済、産業、社会、文化などの年鑑のようなものです。

 

▲日本現勢(共同通信社)昭和34年版の表紙。

 

「日本現勢」は850ページを超える分厚い本ですが、民間企業の広告もたいへん多いです。そんな広告の一つ、仙台のナイトスポット(キャバレー)「ソシュウ」に、「姉妹店」として、「総合遊技場 ゲームセンター」の記述が見えます。

 

▲日本現勢・昭和34年版に掲載されている仙台のナイトスポット(キャバレー)「ソシュウ」の広告。「姉妹店」の最後に「総合遊戯場 ゲームセンター」の記述がある。

 

この情報を教えてくださった方は、「他の検索結果から推測するにパチンコ店だったようです」とおっしゃるのでワタシも検索してみたところ、AIの回答として、「仙台のナイトスポット「蘇州(ソシュウ)」は、かつて国分町や二日町エリア(現在のパチンコ店周辺)に存在していたキャバレー(1950年代〜70年代の資料に言及あり)です」とのことでした。

 

余談ですが、「ソシュウ」は体育館二つ分くらいの広さがあり、有名歌手がステージに上がりジャズバンドの生演奏で歌うなど、東北地方随一のグランドキャバレーだったそうです。

 

最後の三つ目は、ガゼット出版社1958年8月に出版した「ボクシング年鑑1958年度版」です。この情報も、先の「日本現勢」を教えてくださった方からいただきました。

 

▲ボクシング年鑑1958年度版(ガゼット出版社)の表紙。

 

このボクシング年鑑にも広告が多数掲載されており、そのうちの一つである「後楽園ゆうえんち」の広告に「室内ゲームセンター」が謳われています。

 

▲ボクシング年鑑1958年度版に掲載されている後楽園遊園地の広告。

 

冒頭に「可愛いおこさまとお出かけくだざい(ママ)」と謳い、他に遊具や遊戯施設が列挙されているところをみると、ここで言う「ゲームセンター」は、これまで上げてきた例のような風俗7号店ではなさそうです。

 

この「室内ゲームセンター」にはどんなゲームが設置されていたのかはわかりません。ただ、1958年の日本は、生活に必要の無いぜいたく品はまだ自由に輸入できなかった関連記事:デイビッド・ローゼン伝 後編)ので、「ゲームセンター」と聞いて我々が想起するような内容ではなかった可能性は高そうです。想像ですが、シューティングギャラリー(射的)や輪投げ、玉ころがし(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 188 玉ころがし」のご紹介)、鬼泣かせ等のいわゆる「カーニバルゲーム」のようなものが主で、これにまだ当時は少なかった国産コインマシンがいくらか置かれていたくらいだったのではないでしょうか。

 

また、この「ゲームセンター」が後楽園ゆうえんちの付帯施設である点にも留意しておくべきかもしれません。ここにアクセスできるのは20円の入場料を支払った客に限られるため、「ゲームセンター」との呼称が広まりにくかったことも考えられます。

 

さて、皆さまのおかげで確認できた、1969年以前に「ゲームセンター」と言う語を使っていた4例を、年代順に整理します。

 

①   1952年 映画「生きる」の作中で映りこむ。内容は不明。

②   1952年 山本茂実さんのエッセイ「庶民の常識」に、パチンコ店の屋号「銀座ゲームセンター」の記述あり。

③   1958年 ボクシング年鑑1958年版掲載の「後楽園ゆうえんち」の広告に「屋内ゲームセンター」として併記。設置機種は不明だが風俗営業店(パチンコ)ではなさそう。

④   1959年 日本現勢・昭和34年版掲載のキャバレー「ソシュウ」の広告に併記。これもパチンコ店と思われる。

 

こうしてみると、「ゲームセンター」の呼称がアミューズメントとパチンコの両方の意味で使われていた時期があったらしいことは興味深いですが、それが現代の用法に定着したのがいつであるかは結局判明しませんでした。どっとはらい。

 

(おわり)

前回の記事「ゲームセンターはいつゲームセンターになったのか」では、60年代前半を描いた漫画でゲームアーケードを「ガンコーナー」と呼んでいたことから、では「ゲームセンター」と言う和製英語で呼ばれるようになったのはいつ頃なのかを探求しようとしました。しかし、少なくとも1969年時点でAM業界が「ゲームセンター」の語を使用しているところまでは判明したものの、それ以前については資料が乏しく殆ど何もわからないという結果に終わりました。

 

この、社会的意義がいかほどあるかも怪しい謎を勝手に設定しておきながら腰砕けとなった不出来な記事はしかし、昨年6月にGooブログからこちらに引っ越して以来の最大のアクセス数を記録し、またSNSでのブログ更新のお知らせにも普段の10倍以上もの「リポスト」と「いいね」をいただきました。一体何がこれほど多くの皆さんに訴求したのかまるで見当がつかないのですが、ありがたいことです。

 

ところで、SNSでの反応の中に、1969年以前に「ゲームセンター」の語が登場する貴重な例を教えてくださる方が何人かいらっしゃいましたので、前回記事の補足として、今回と次回の2回に分けてその例を皆さんと共有しておきたいと思います。

 

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まず一つ目は、黒澤明監督の映画「生きる(1952)」に、「ゲームセンター」を掲げる施設が映っているというものです。名作の誉れ高いこの作品をワタシは迂闊にもまだ観ておりません。つい先日、NHKで放映することを知り録画予約をしたつもりだったのに失敗して見逃してしまいました。

 

これを教えてくださった方は、ネタバレになるといけないという事で詳細は伏せられましたが、その「ゲームセンター」の中身の詳細はわからないものの、パチンコ店、もしくは射的の店だったであろうことは推察できるとの事でした。

 

戦時中は娯楽を不謹慎とする空気が蔓延した(関連記事:「アタミセンター」の謎解明に繋がるか? 「タイガー娯楽」(1))のみならず、庶民は持っている金属を鍋釜まで供出させられたはずですが、パチンコ台などの娯楽機はどういう訳かいくらか残り、終戦直後からいろいろな形で営業が再開されていたようです。

 

▲1946年に名古屋の露天商組合が興した「復興祭り」を謳う商店街。右下に「パチンコ」の文字が見える。

 

また、やはり黒沢作品の一つで「生きる」より早い1949年に公開された「野良犬」には、戦後の闇市における射的やパチンコを遊ばせる店が登場します。拙ブログでお馴染みのカナダのCaitlynは、自身のブログでその場面を画像付きで掲載しているので、そのうちの一つをご紹介しておきます。

 

▲Caitlynのブログに掲載されている「野良犬」のシーンの一つ。「皆様の遊技場」の看板があり、そのすぐ左にはピンボール機も見える。

 

Caitlynのこの記事「exploring the arcade in 野良犬 (1949) aka Nora inu (Stray Dog)」には、この画像以外にもピンボール機、射的、パチンコ台などが映るシーンがあり、また面白い考察もあるので、ぜひともご参照いただければと思います。

 

Caitlynは他にも終戦から間もない時期に製作された、遊技施設が映る映画の記事を書いていますので、この機会にそちらもご参照ください。

 

exploring the arcade in 私刑(リンチ) (1949) aka Rinchi

 

Exploring the arcade in 大当りパチンコ娘 (1952) aka Oatari Pachinko Musume aka Jackpot Pachinko Girl

 

しかし残念ながら、これらで見られる画像には「ゲームセンター」の文字が出てきてくれません。ここはやはりどうにかして「生きる」を見ないといけないようです。

 

(次回につづく)

コイン投入式の娯楽機を設置した遊戯施設自体は昭和初期からありましたが、それらは温泉観光施設や百貨店などの付帯施設でした。日本初の独立した遊戯施設は、1960年に東京・日比谷にオープンした「日比谷ガンコーナー」でした(関連記事:デイビッド・ローゼン伝 後編)。

 

▲日本初のゲームアーケード「日比谷ガン・コーナー」の様子。1961年ころに頒布されたローゼン・エンタープライゼスのカタログより。カタログには「日比谷ガン・コーナ(ママ)」と紹介されている。なお、同ページでは同時期に大阪・梅田で営業していたゲームアーケードを「ゲーム・オ・ラマ」と紹介している。

 

このような遊戯施設は、オリジナルの英語圏では「ゲームアーケード」もしくは単に「アーケード」と呼び、日本でもAM業界人やワタシのようなマニアであればこれに倣うことも多いのですが、一般的には「ゲームセンター(略してゲーセンとも)」という和製英語で呼ばれます。そこで今回は、この和製英語がいつできたのかを追求してみようと思い立ちました。

 

それは先日、昭和時代を代表する漫画家の一人である永島慎二さん(1937~2005)の代表作の一つとされている漫画シリーズ「フーテン」を何十年ぶりかで読み返したのが事の発端でした。

 

「フーテン」とは、定職を持たず盛り場(典型例は新宿)を徘徊する若者、もしくはそのようなライフスタイルのことです。永島さんは、1961年から1964年までの間、既に漫画家として活動する一方、新宿で「フーテンのような生活」をしており、その時の体験をベースに描いたこの作品には、1960年代前半、すなわち日比谷ガンコーナーを皮切りにゲームアーケードが全国に広がっていったまさにその時期関連記事:日本のゲーセンはいつから始まったのか?)の若者(エピソードによっては年配者の場合も)の行動や風俗が描かれているわけです。

 

少し話は逸れますが、「フーテン」という言葉は、永島さん自身が「フーテンのような生活」から脱した数年後の1960年代後半に発生しています(映画「男はつらいよ フーテンの寅」の第一作目が公開されたのは1970年)。永島さんは、おそらく自らの体験を漫画に落とし込む際に、この新語が以前の自分たち及び現在もなお多く存在する同じような若者たちを最も端的に指し示す言葉だったことから表題に採用したのだろうと思います。

 

前置きが長くなりましたが、この漫画「フーテン」に、「ガンコーナー」及び「ガン・センター」という言葉が出て来るシーンがあります。つまり1960年代の前半は、まだアーケードを「ゲームセンター」とは呼んでいなかったことが窺われるのです。

 

 

▲永島慎二さんの「フーテン」より、「ガンコーナー」及び「ガン・センター」の言葉が出てくる場面。説明は無いが、状況から今で言う「ゲームセンター」を指すであろうことは容易に推察できる。

 

ガン・センター」という呼称にも注目されます。「ヘルスセンター」や「ボウリングセンター」など、特定のサービスを提供する独立した施設を「センター」と呼ぶネーミングはよくあります。日比谷ガンコーナーを始めた米国人デイビッド・ローゼンは、日本では個人で銃を持てないことから、当初は意図的にガンゲームを多く輸入しており、「ガン・センター」もそのあたりから発生したものと思われます。

 

▲1961年頃の、大阪梅田のアーケード「ゲーム・オ・ラマ」の様子。不鮮明だが、ここに見えるゲーム機のほとんどがガンゲームである。

 

という事であれば、アーケードに設置されているゲーム機のジャンルがガンゲームばかりでなくなれば、「ガン・センター」の呼び名も変わってもおかしくなさそうです。実際、1969年にオープンした池袋のアーケードの写真を見ると、ガンゲームはむしろ少なく、ピンボール機やプライズ機など多彩なゲーム機が並んでいて、「ゲームセンター」と呼ばれるのももっともと思われる様相となっています。

 

▲タイトーが1969年に池袋のロサ会館内にオープンした「ゲームランド」。この時点でガンゲーム機は僅かしか見えない。なお、ロサ会館自体のオープンは1968年だが、タイトーステーション池袋ロサ店のX(旧Twitter)での公式アカウントは、この画像を1969年のものとしている。

 

また、1969年に当時の業界団体「全日本遊園施設事業協同組合」が発行した「‘69遊戯機械名鑑」でも、数カ所に「ゲームセンター」の語が現れています。

 

▲‘69遊戯機械名鑑の中の数カ所に見られる「ゲームセンター」の記述のうちの一つ。

 

さて、1969年の状況はわかりましたが、これより古い時代の状況が知れる資料がなかなかみつかりません。別のアプローチから何か拾えないかと手元に僅かにある古いゲーム機のフライヤーも調べてみたところ、「ゲームセンター」の言葉が記述されているものが少数見つかりましたが、それが頒布された時期が特定できず、1969年より古いものと断定することができませんでした。

 

 

▲サニー東京(関連記事:大阪レゲエ紀行:エレメカ研究所(大阪・北区中崎町)その3)が頒布したクレーンゲーム機「メリカード」のフライヤーの表裏。裏に「ゲームセンター」の記述が見えるが、頒布時期は不明。「サニー東京」の名は1970年の中期まで使われているため、このフライヤーが1969年より前のものであると断言することができない。

 

ようやく日本遊園設備1965年に頒布したと思われる「フリダシゲーム/ラクダイゲーム」のフライヤーに、「遊園地、百貨店、ゲーム場、ホテル、ヘルスセンター等」との記述を見つけることができました。

 

 

▲日本遊園設備が1965年頃に頒布したと思われる「フリダシゲーム」と「ラクダイゲーム」のニコイチフライヤー(上)と、「ゲーム場」の記述のある部分の拡大(下)。「ゲームセンター」ではなく「ゲーム場」となっている。

 

しかし、これが1965年時点で「ゲームセンター」と言う呼称が発生していなかったことの証明にはなりません。それでも、少なくとも他の呼び方を圧倒するほど人口に膾炙していた呼称ではなかったと思われる程度のことは言えるのではないかな、みたいな弱気な主張くらいはしておきたい気がします。

 

今回の調査で殆ど何もわからない暗黒の時代となっている1960年代半ばは、ボウリングブームが発生しボウリング場が林立した時期でした。日本のAM産業の発展もそのボウリング場にほぼ必ず併設されたゲームコーナーによるところが非常に大きいとされています(関連記事:TV報道番組に見る1978年のAM業界(3) 当時の参加者意識とAMの歴史)。しかし一方で、ガンコーナーから始まるアーケードのこの期間の状況を示す資料は乏しく、結局「ゲームセンター」と言う言葉の起源は判明しない、竜頭蛇尾の結果となってしまいました。

 

最後に一つ、怪しい情報。海外で「ピンボール (Pinball)」と呼ばれているゲーム機が日本ではなぜか「フリッパー (Flipper)」と呼ばれるのは、セガがゲーム機の輸入を始めた当初からピンボール機を一貫して「フリッパー」と呼んでいたから。

原則として毎週日曜日更新を目標としている拙ブログですが、ただいま年に何回も無い繁忙期で、今週の更新が間に合いそうもありません。申し訳ありませんが、今週は1回休みとさせていただきます。

 

しかしただのお知らせでは何とも申し訳ないので、今回はワタシの手元にあるナムコ黄金期のインストラクションカードコレクションの一部をご紹介してお茶を濁したいと思います。なにとぞご了承ください。

 

▲GALAXIAN(1979)。なぜか英語版。

 

▲RALLY-X(1980)。こちらもなぜか英語版だが、「NEW」じゃない方なのが貴重かも。

 

▲POLE POSITION(1982)。実はこれも英語版はあるのだが、省略。

 

▲SUPER PAC-MAN(1982)。これも英語版。これら英語版はどうやって入手したのか、記憶にない。

 

▲XEVIOUS(1982)。「アンドア・ジェネシス」なのか「アドーア・ギレネス」なのか、論議を巻き起こした。

 

 

▲LIBBLE RABBLE(1983)。ワタシがビデオゲームの最高傑作と信じる大傑作。基板は保存してある

 

▲MAPPY(1983)。最近、このゲームをテーマにしたショートアニメシリーズ「まっぴーちゅう!」が話題らしい。Youtubeでも見られるのでお勧めしておいてみる。

 

▲パック&パル(1983)。実はあまりやったことが無い。ゲーム自体を見かけなかった。

 

▲PHOZON(1983)。このゲームは・・・ 論評を避けておこうと思います。

ビデオゲーム機のパイオニアでありトップメーカーだった米国ATARI社は、1976年11月にピンボール機「The Atarians」を発売しました。多くのメカを伴うピンボール機の開発に要する技術はビデオゲーム機とはずいぶん異なるはずですが、IPDBで調べると、The AtariansのメカニックにはかつてBallyでゲームデザインをした「Bob Jonesi」が起用されているとあります。

 

ATARIのピンボール機の最大の特徴は、その筐体にありました。以前のピンボール機では、プレイフィールドの幅は20.5インチ(約52センチ)が一般的だったのですが、ATARIは何を考えたのかそれを従来比約1.3倍の27インチ(約68.6センチ)に拡張してしまいました。それは一般に「ワイドボディ」と称され(ATARI自身はフライヤーの中で「ワイダー・プレイフィード」と言っている)ました。

 

▲The Atarians (ATARI, 1976)の、二つ折り4ページのフライヤーのうち表紙部分。

 

この新しい波に最初に追随したのはWilliamsで、1978年5月に発売した「Contact」が同社初のワイドボディ機になります(IPDB調べ)。ATARIの「The Atarians」発売の1年半後ですが、御三家の他二社、BallyGottliebが初めてワイドボディ機を発売するのはさらにその翌年の1979年になってからのことですから、かなり早い反応だったと言えるでしょう。

 

ところで、当時のセガも独自にピンボール機(SS機)を開発していました。そしてWilliamsに遅れることわずか4か月の1978年9月には初のワイドボディ機「Cha-Cha-Cha」を発売しています。もともと機を見るに敏なるところがあるセガですが、こちらもかなり素早い対応です。

 

 

▲「Cha-Cha-Cha」のフライヤーの表(上)と裏(下)。

 

筐体が大きくなればより多くの仕掛けを仕込むことができますが、それは製造コストを上げるだけでなく、より広い設置面積を要することでもあり、経済効率という点では悪くなるはずです。しかしプレイヤーはこの変化を拒否せずあっさりと受容し、他社も続々と追随することで、「ワイドボディ」は「ピンボールの新たなもう一つのスタンダード」として定着しました。

 

セガは翌1979年に、2機種目のワイドボディ機「Adventure」を発売しました。

 

 

▲「Adventure」のフライヤーの表(上)と裏(下)。

 

ただ、日本のピンボール市場においてセガのシェアは低く、ワタシはこのセガの二つのワイドボディ機を、遊ぶどころか見たことすらありません。セガ自身が運営するか、またはセガの息がかかったロケにでも行けば見られたのかもしれませんが、不運なことにこの時期のワタシの通常の活動域にはそのようなロケはあまりありませんでした。


そしてセガは、この「Adventure」を最後にピンボールの開発から手を引いてしまいました。セガがピンボール市場に戻るのは、1994年に「データイースト・ピンボール(Data East Pinball)」社を買収して「セガ・ピンボール(Sega Pinball)」社としてからですが、以前のようにセガの叩き上げが開発販売したわけではありませんでした。そして「セガ・ピンボール」も、1999年にはゲイリー・スターンに売却し、セガは再びピンボールメーカーではなくなりました。売却された会社は、「スターン・ピンボール(Stern Pinball)」社として、2026年現在もピンボールの灯を絶やすことなく活躍しています。

▲米国の業界誌「Cash Box」1961年4月15日号に掲載された、当時の日本のゲームセンター事情の記事。詳細は過去記事「日本のゲーセンはいつから始まったのか?」を参照されたし。画像提供は拙ブログではお馴染みのCaitlyn。

 

【歴史】AM業界

本記事では、拙ブログの過去記事のうち、AM業界の歴史に関する記事を、以下の5つの小分類に分けてまとめています。

 

(1)業界団体と業界紙誌の変遷

(2)日本のゲームセンターの歴史

(3)関連法令に関する記事

(4)一般マスコミから見たAM業界

(5)業界のコンベンション

 

本記事は、今後更新されることがあります。最終更新日:2026年3月15日

 

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(1)業界団体と業界紙誌の変遷

 AM産業と業界誌の謎(1) 2022.05.01

業界誌「アミューズメント産業(アミューズメント)」、「アミューズメント」、「全日本遊園」など、AM業界団体と業界紙誌の変遷の謎についての序章。

 

 AM産業と業界誌の謎(2) 2022.05.08

日本のAM産業界の成り立ちを戦前にさかのぼって記録。

 

 AM産業と業界誌の謎(3) 2022.05.15

1941年に初めて結成された日本のAM業界団体から、2018年結成のJAIAまでの業界団体の推移と、発行されていた業界紙誌のまとめ。。

 

【追加・訂正】AM産業と業界誌の謎(延長戦):ゲームマシン紙誕生の秘密判明 2022.05.22

2022年までweb版として継続していた業界紙「ゲームマシン」ができた経緯。

 

2日本のゲーセンの歴史

 日本のゲーセンはいつから始まったのか? 2024.09.01

米国の業界誌「Cash Box1961年4月15日号に掲載された、当時の日本のゲーセンに関する記事と、日本初のゲーセン「日比谷ガンコーナー」について。

 

 デイビッド・ローゼン伝:前編 2025.07.06

後に「セガ・エンタープライゼス」の母体の一つとなった企業「ローゼン・エンタープライゼス」を興した米国人「デイビッド・ローゼン」の物語前半。スピード写真で成功するが模倣者が現れ、次の一手を考えなければならなくなった。

 

 デイビッド・ローゼン伝:後編 2025.07.13

デイビッド・ローゼンの物語後編。日本初の「ゲームアーケード」を興した後、セガと合併して社長となり、更には日本初のAM機メーカーの業界団体「NAMA」の会長まで務めた。

 

(3)関連法令に関する記事

 ゲーセンと法律の話(1):まずは風適法の解説から 2020.01.26

風適法の概要とAM業界が風俗営業となる経緯について。

 

 ゲーセンと法律の話(2):風俗第5号営業(ゲーセン)の要件と制約 2020.02.02

2016年の法改正と風俗5号営業となる遊戯設備の説明と風俗営業であることによる制約。

 

 ゲーセンと法律の話(3):新概念「特定遊興飲食店」をゲーム業界に活かせないものか 2020.02.16

2016年の法改正によって新設された新概念「特定遊興飲食店」と、衰退の一途を辿るゲーセン産業復興のために現行の風営5号の枠から外せないのかという提案。

 

 プライズの上限価格、21年ぶりに改訂 2022.3.05

プライズ機で扱う景品の上限価格の歴史的推移と、「おおむね800円」とされていた当時時点の上限が「おおむね1000円」に改訂された件。

 

(4)一般マスコミから見たAM業界

 TV報道番組に見る1978年のAM業界(1)メダルゲーム 2019.02.23

1978年10月に放映されたTV報道番組「ビジネスナウ!」で組まれた特集「大流行・ゲームマシン」より、1978年のAMショウのレポート前半と、業界誌アミューズメント産業の編集長も務めていた故中藤保則氏による当時のAM業界の解説。

 

 TV報道番組に見る1978年のAM業界(2)アーケードゲーム 2019.03.01

1978年に開催されたAMショウのレポートの後半、アーケードゲームについての様子と、ショウ実行委員長で中村製作所(後のナムコ)の社長、中村雅也氏へのインタビュー。

 

 TV報道番組に見る1978年のAM業界(3) 当時の参加者意識とAMの歴史 2019.03.08

当時の一般人の娯楽に対する意識調査とAM業界がこれまでに至る経緯の解説。

 

 TV報道番組に見る1978年のAM業界(4) 1978年のゲーセンルポと(なぜか)メダルゲームの 2019.03.15

当時のゲーセン市場の広がりとゲームファンタジア・リトルサーカス店長へのインタビュー。

 

 TV報道番組に見る1978年のAM業界(5):インベーダーブーム直前とテーブル筐体の台頭 2019.03.19

「インベーダーブーム」の言葉ができる直前の1978年10月時点でのAM市場の様子とテーブルの筐体を導入した飲食店へのインタビュー。

 

 ポパイ@1979年(1):AMゲームは「カッコいい」ものだった(らしい) 2020.11.29

ファッション雑誌「ポパイ1979年4月25日号の特集記事「ゲームのことしか頭にないのだ! POPEYE GAME BOOK」より、アーケードゲームに関する部分の概要。

 

 ポパイ@1979年(2):その1・ビデオゲーム 2020.12.06

当時のビデオゲーム機の紹介。

 

 ポパイ@1979年(3):その2・フリッパー・ピンボール 2020.12.13

当時のピンボール機の紹介。

 

 ポパイ@1979年(4):その3・ビンゴ・ピンボール 2020.12.20

「ピンボール・ビンゴ」機の紹介。

 

 ポパイ@1979年(5・最終回):その4・スロットマシン 2020.12.27

sigmaのフリーペーパーからのパクリが多いと疑われる、「ポパイ」が見るところのスロットマシンの認識。アンティークマシンにも言及。

 

(5)AM業界のコンベンション

 1970年の第九回アミューズメントマシンショウ(1) 2022.06.19

業界誌「全日本遊園70年11月号より、1970年に開催された「第9回アミューズメントマシンショウ」の出展社と出展機種のリスト。

 

 1970年の第九回アミューズメントマシンショウ(2) 出展機種画像1 2022.06.26

同じくオリエンタル興業、関西精機、コパルマシン、サニックコーポレーション、三共遊園設備(後の三共)、三精輸送機、児童遊園設備各社の出展機種画像。

 

 1970年の第九回アミューズメントマシンショウ(3) 出展機種画像2 2022.07.03

同じくセガ、タイトー、東光遊園設備、中村製作所(後のナムコ)各社の出展機種画像。中村製作所は「こまや」の代理出展も行なっている。

 

 1970年の第九回アミューズメントマシンショウ(4) 出展機種画像3 2022.07.10

同じく日本自動販売機、日本展望娯楽、ホープ、さとみ(後のサミー)他各社の出展機種画像。

 

 JAEPOショウ2018で気になったこと3つ 2018.02.11

2018年に開催されたJAEPOショウの様子。

 

 (今週も予定変更)JAEPOショウ2019に異変! 2019.01.27

2019年に開催されたJAEPOショウの様子。複数社がピンボール機を出展。

 

 【予定変更】JAEPOショウ2020メモ 2020.02.09

2020年に開催されたJAEPOショウの様子。台湾のメーカーが開発したピンボールのビンゴ機を出展(但し少なくとも日本では普及しなかった)。

本記事では、拙ブログの過去記事のうち、シグマ(sigma)社(及び富士電子工業社)に関連する記事を、以下の5つの小分類に分けてまとめています。

 

(1)sigmaの歴史に関連する記事

(2)sigmaのロケーションに関連する記事

(3)sigma製のゲーム機に関連する記事

(4)富士電子工業に関連する記事

(5)その他

 

本記事は、今後更新されることがあります。最終更新日:2026年3月8日

 

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(1)sigmaの歴史に関連する記事

「メダルゲーム」の曙を見た記憶 2016.03.02

sigmaが1970年頃に渋谷のボウリング場で展開していた実験店舗を見た記憶。

 

「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(1) 2017.01.14

初のメダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ」開業時の業界事情に言及。

 

「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(3)メダルの種類 2017.01.15

sigmaのロケで使用されていたメダルと、他のメダルとの比較。

 

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(1) 2017.02.19

sigmaが1978年に発売した日本初のビデオポーカー機「TV POKER」とその続編で1979年に発売したカラーの「TV-POKER」に言及。

 

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2)それ以前のビデオポーカー 2017.02.19

sigmaが発売したビデオポーカー機と、過去に米国で発売されていたリアプロジェクターによるビデオポーカー機の比較。

 

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3)米国内の動き 2017.02.25

ビデオポーカー機を積極的に推進した米国SIRCOMA社(後のIGT社)とsigmaとの繋がりに言及。

 

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(5) sigma、ネバダのゲーミング市場に参入 2017.03.12

sigmaがスロットマシン類の製造に取り掛かり、さらには米国ネバダ州でのメーカーライセンス取得に言及。

 

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(6) 90年代のビデオポーカーとsigmaの終焉 2017.03.20

ビデオゲーム機の発達に伴うsigma社のビデオポーカーの発展と、アルゼによる吸収に言及。

 

【備忘録】sigmaとIGTの間に何かがあった 2024.05.12

「ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3)米国内の動き」で言及した「sigma」と「SIRCOMA」の両方のロゴが入った筐体について、米国「Loose Change Magazine」がSIRCOMAの社長サイ・レッドに話を聞いた記事の紹介。

 

(2)sigmaのロケーションに関連する記事

新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶 2017.09.09

新宿地下街「サブナード」にあったロケーション「ゲームファンタジア・リトルサーカス」と「ビンゴイン・サブナード」を報じる業界紙の記事。

 

ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地 2017.09.26

日本初のメダルゲーム専門店「ゲームファンタジア・ミラノ」とその開店時初期の店内の様子。

 

ゲーム場チェーン「マジックランド」の記憶 2020.11.15

ワタシの自宅にほど近い東横線都立大学駅前に、1979年にオープンしたロケ「マジックランド」の記憶。

 

ロンゴロンゴ(sigma, 1993):最もバブリーなロケーション 2021.09.19

1993年、渋谷道玄坂にオープンしたロケ「ロンゴロンゴ」の記憶。

 

新年お年玉企画 2021.01.09

1975~8年頃に頒布されたsigmaのフリーペーパー「How to Play Bingo」の紹介(記事中で募集しているプレゼント企画は終了しています)。

 

【続報】「HOW TO PLAY BINGO」頒布時期探求メモ 2022.01.16

1977年秋に頒布されたsigmaのフリーペーパー「GF」に見る、当時のsigmaのロケの数々。

 

sigmaのフリーペーパー「ビンゴゲーム入門」(1985) 2021.07.18

1985年に頒布したフリーペーパー「ビンゴゲーム入門」の紹介(記事中で募集しているプレゼント企画は終了しています)。

 

(3)sigma製のゲーム機に関連する記事

NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」 2017.04.23

米国Bally社が開発したメカ式の競馬ゲーム「ウィナーズ・サークル」と、sigma初の自社製メダル機「The Derby Mark φ」について。

 

sigma「THE DERBY」シリーズの系譜メモ (と、GWに伴う更新スケジュール変更のお知ら 2019.04.28

sigmaの看板タイトルとなった「The Derby」シリーズの発売年等の情報を年代順にまとめた。

 

「マジックトッパ―ズ (Magic Toppers)」の謎 2022.03.20

sigmaが1981年に製造した「マジック・トパ―ズ」と、それ以前のルーツとなった機械について。

 

(4)富士電子工業に関連する記事

富士電子工業(FDEK)のダイスゲームとその後 2021.10.17

長くsigmaの下請けとしてメダル機を製造してきた富士電子工業が、(おそらく)初めて自社ブランドとして発売したメダル機

 

富士電子工業製品の製造年に関する自分用メモ 2021.10.24

sigmaから離れ、独自に商品展開していった富士電子工業の数々の製品のフライヤー。

 

(5)その他

1981年の新日本企画 2022.06.12 

sigmaのビデオゲーム「レッドタンク」の記述あり。

拙ブログはこの2月に10周年を迎えることができました。これも皆さまのご支援、ご声援あってのことです。どうもありがとうございます。今後もできる限り継続していく所存ですので、変わらずのご指導、ご鞭撻をいただけますようお願い申し上げる次第です。

 

ただ、困ったことに、10年に渡り総計500を超える記事を掲載していると、以前に何を述べたか、あるいはあの話はどの記事で述べたかなどの記憶がずいぶんと薄れてきており、その確認に手間取るケースが増えてまいりました。

 

Amebaブログにも記事をテーマ別に分類する機能はありますが、複数のテーマを含む記事でもどれか一つのテーマに押し込まなければならず、分類としては不完全でした。そこでブログ設立10年を機に、過去記事を独自の基準で分類した「過去記事検索リンク集」を作成して、今後発生する確認作業を容易にしようと考えました。

 

本来ならば、分類のストラクチャーは現時点ですでに確定されているべきですが、ワタシの能力では追い付かず、未完成です。とりあえず、記事のタイトル冒頭の【】で囲んだ部分でその記事の大分類を示し、続く部分で中分類を示します。小分類が必要な場合は、各記事の中で適宜行うことにいたします。大分類は、現時点で以下の8 個を考えておりますが、今後追加または変更する可能性があります。

 

過去記事検索リンク集の分類構造 (暫定・最終更新日202639日)

凡例

【XXXXX】 ←大分類(記事タイトルの冒頭)

   ◎◎◎◎◎ ←中分類(記事タイトルの大分類に続く部分)

(小分類は記事ごとに適宜定め、記事内で見出しとして使用する)

 

1:【歴史】

   AM業界

   メダルゲーム

   ビデオゲーム

   ピンボール/メカ

   スロットマシン

   風営7号(4号)

2:【ゲーム】

   メダルゲーム

   ビデオゲーム

   ピンボール/メカ

   スロットマシン

   ギャンブルゲーム

3:【AM関連企業】

   シグマ&富士電子

   セガ

   タイトー

   ユニバーサル

   Bally

   SEGASA

   その他

4:【ロケーション】

   東京・関東

   大阪・関西

5:【海外カジノ】

   ラスベガス

   リノ/カーソンシティ

   その他

6:【博物館関連】

   海外

   国内

7:【コンベンション】

   海外

   国内

8:【Caitlyn関連記事】

 

今回はその第一弾として、「【AM関連企業】シグマ(sigma)&富士電子」をアップしました。これにより、拙ブログが過去に述べたシグマ(sigma)社の歴史、製品、ロケーション、そしてシグマと密接な関係にあった富士電子工業に関する過去記事を検索することができるはずです。

 

「過去記事検索リンク集」は、今後も様々な基準で分類したリンク集を折々に追加していく予定です。

拙ブログをご高覧下さる皆様にも、「この件についてもっと突っ込んだ情報はないか」などと思われたときにご活用いただければ幸いです。