【前回まで】

 ギャンブル機の非犯罪化によりAM機の人気は退潮し、また1970年代後半のスペイン経済危機は、インフレ、人件費の高騰、そして世界的な不況を伴い、Sonicのピンボール事業に「壊滅的な打撃」を与え、Sonicは1978年にピンボールの生産を停止した。

 

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◆ピンボールへの回帰と新たな変化

 

・1984年、かつてレアル・マドリードで活躍した有名なサッカー選手で、引退後は自身が1980年にオープンしたアーケード「エル・トレボル」でオペレーターとしての経験を持っていたマノロ・ベラスケス(1)がSonicの営業部長に就任した。

 

▲マノロ・ベラスケス。

 

・1986年、ゼネラルマネージャーに任命されたエドゥアルド・モラレス・エルモは、ビデオ機器(タイプA)(2)の生産を減らし、「模倣されにくい」機器に注力し、スロット機器(タイプB)の生産を増やす決定を下した。

 

・さらに、スペインでピンボールが再び人気を集めていた時期には、ピンボールの生産が時折再開された。工業デザイナーのフェデリコ・バルドとアートディレクターのミゲル・アンヘル・エチャバレン・アラメンディアは、これらの機器のデザインで重要な役割を果たした。

 

▲ミゲル・アンヘル・エチャバレン・アラメンディア。なぜかDECOが1987年にリリースした「Laser War」のバックグラスを持っている。

 

商標および特許登録簿によると、SonicはWilliams社製の2つのモデル、CometとSpace Shuttle(3)を、設計図と図面を提供して登録していた。しかし、理由は不明だが、1985年後半にCirsa-Unidesa社4)が先手を打ってComet、High-Speed、Space Shuttleの各モデルを500キットずつ発注し、スペインで自社ブランドで販売した。

 

・1980年代初のピンボールゲームとして、SonicはPinstar社からGamatron5)を購入した。Pinstar社は、業界危機の最中(6)にStern Electronics社が倒産した後、サム・スターンの息子であるゲイリー・スターンが設立した会社である。オリジナルのGamatronはBally社製のマシン用のコンバージョンキットだったが、アートワークに顕著な違いがあり、Sonicがこれらのキットを直接購入したかどうかは不明。Sonicのキットはより明るく鮮やかな色で再描画されていた。それでも、この試みは商業的に大きな成功を収めることはなかった。

 

▲Gamatron(1986)のフライヤー。

 

・より独創的な解決策を模索したSonicは、Peyper社7)と契約を結び、同社のタイトル「Odin」のライセンスを取得し、Sonicはそれを「Odin De Luxe」として製造した。実質的には同一であることを考えると、皮肉な名前と言えるだろう。

 

▲Odin De Luxe (1987)のフライヤー。

 

PeyperとSonicの二度目のコラボレーションは、「Odisea」で実現した。このモデルは、ボードを動かすためのサイドコントロールが組み込まれていたため、特にPeyperにとって大きな意味を持った。

 

▲Odisea(1987年)のフライヤー。

 

・この技術と独自のデザインを活用して、ソニックはさらに 4 つのピンボールを発売した。

 

 

 

▲上からSolar Wars(1986)、Pole Position(1987)、Star Wars(1987)のフライヤー画像。これらのフライヤーには裏面もあったものと思われるが、オリジナルには表面の画像しかない。

 

・1988年4月28日に開催されたイベントで、エドゥアルド・モラレスはいくつかのマシンの発表中に、Sonicにおけるピンボールマシンの生産、特にStar Warsについて次のようにコメントしている。

SEGA(原文ママ)は1978年にピンボールマシンの生産を中止しました。それまではウィリアムズの技術を用いて製造されていましたが、技術的な問題により、あまり良い結果には至りませんでした。JPのおかげ(8)でピンボールが再び脚光を浴びると、SEGA(原文ママ)もその復活を検討しました。経験豊富なデザイナー、エウロジオ・ピンガロンの協力を得て開発が始まりました。その後、ソーラーウォーズ、ガラトロン(原文ママ)、そして最終的にポールポジションといった独自のデザインを開発しました。他のモデルと同様に、ポールポジションの生産中であったため、少量かつ慎重にストリートテストが行​​われました。プレゼンテーションと仕上げは完璧で、圧倒的な存在感を持つマシンです。

 

・Star WarsはデザイナーたちからPole Positionよりも優れていると考えられていたが、商業的にはPole Positionほどの成功を収めることはできなかった。 1987 年は事実上彼がピンボール業界で働いた最後の年であり、最後の作品はSEGAのヒットゲームをベースにした「Hang-On」だった。

 

 

▲Hang-On(1987)のフライヤー画像の表裏。

 

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注1・マノロ・ベラスケス:原文では「Manolo Velázquez」とあるが、正しくは「マヌエル・ベラスケス(Manuel Velázquez)」らしい。1943生まれ、2016年没。

 

注2・ビデオ機器(タイプA):ビデオゲーム機器のこと。オリジナルは概ね時系列に沿って述べられていて、「ピンボールへの回帰と新たな変化」のチャプター以前でSEGASAがビデオゲームに参入する経緯や生産した製品に言及しているが、この抜粋と要約では構成を変えているため、話の順番が前後することになった。ビデオゲームについては次回から触れる予定。

 

注3・CometとSpace Shuttle:共にWilliams社製で、オリジナルのSpace Shuttleは1984年、Cometは1985年にリリースされている。

 

注4Cirsa-Unidesa:1982年にスペインに創立されたゲーム機器メーカー。前出のWilliamsのComet、Space Shuttle、それにHigh-Speed(19896)をスペインで販売している。IPDBではその時期を1986年としている。UnidesaはCirsaのグループ企業の一つ(子会社か?)で、スロットマシンメーカーとして現存している。

 

注5・Gamatron:Pinstar社が1985年にリリースした機種。Sonicはこれを1986年にスペインで発売している。

 

注6・業界危機の最中:ビデオゲームの爆発的な普及に伴い、米国では1980年頃よりピンボール機の人気が急激に落ち込み、業界は危機的な状況を呈していた。

 

注7・Peyper社: 1977年設立のスペインのゲーム機メーカー。記事に言及されている「Odin」は、IPDBによれば1985年のリリースとのこと。

 

注8・JPのおかげ:「JP」が何を指しているのか不明。日本のセガのことであれば、セガは確かにSEGASAのピンボール機を扱っていたが、これを意味しているのだろうか。

▲日本のセガが1977年に頒布した価格表より、工場でSEGASAのピンボール機を組み立てているところ。この機械は、Williamsの「Satin Doll」をSEGASAが1P用に作り直した「Baby Doll (1975)」。

 

(ピンボール終わり。次回、ビデオゲーム 前編につづく)

【前回まで】

 米国のピンボール機メーカー、Williamsの親会社であったSeeburg社がSEGASAの株の50%を取得したことで、SEGASAはピンボール機の製造、開発のノウハウを入手することが容易になり、1973年にはWilliamsのピンボール機「Spanish Eyes(1971)」のコピーをスペインで製造し、販売するに至った。

 

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・その後SEGASAは、「Triple Action」や「Darling」(注1)など、Williams製のピンボール機を次々とコピー(注2)していった。それらの一部はタイトルやプレイヤー数が変更された。

 

 

 

 

 

▲SEGASAが販売したWilliams製ピンボール機のコピーのフライヤー。上から順に「Gulf Stream(1973/1972)」、「Triple Action(1974/1973)」、「Casbah【オリジナルはDarling】(1974/1973)」、「Dealer’s Choice(1974/1973)」、「Big Ben(1975/1974)」。各タイトルの後のカッコ内はSEGASAの発売年/オリジナルの発売年。バックグラスのアートワークはいずれも新たに描きおこされていて、オリジナルとは微妙に異なる。

 

・ある時(注3)、SEGASAは自社のピンボールマシンを米国に売り込むことを決意した。ただしこれは計画的で確固たる戦略に基づくものではなく、世界最大の市場に足場を築けるかどうかを試す実験だった。米国では、Gottlieb、Bally、そして自身のパートナーであるWilliamsといった巨大企業が数十年にわたる経験、確立された流通網、そして忠実なファンを擁して業界を席巻しており、結果は商業的には失敗に終わった(注4)。

 

1976年2月、親会社だったSeeburgはSEGASAの株式を売却することを決定し、SEGASAはピンボール機のデザインの使用ライセンスを失った。しかしSEGASAは1977年までWilliamsの技術を用いたピンボールマシンの生産を続け、1976年9月にはSeeburg社から設計の無断使用を理由に訴訟を起こされた。しかし訴訟はその後発展することもなく、両社の間で何らかの合意があったものと推測される。

 

1976年末、SEGASAは日本のセガ・エンタープライゼスと合意に達し(注5)、社名を「Sonic」に変更した。この決定は、SEGASAの歴史に新たな局面をもたらしただけでなく、「SEGASA d.b.a. Sonic」(「Sonicの名で事業を展開するSEGASA」)という名称を用いることで、国際市場におけるブランドの差別化を図ろうとするものだった。

 

▲Sonicの企業ロゴ。

 

・1975年のフランコ首相死去により、1976年には既にギャンブルは非犯罪化されていたが、1978年に施行された新法により、バー1軒につき最大3台のギャンブルゲーム機、アーケードには無制限の台数の設置が許可された。だがギャンブルゲーム機1台は1日あたり約100ドルの収益を上げていたのに対し、ピンボールやビデオゲームは25~30ドルにも満たない収益しか得られず、この大きな差によりスキルマシンとピンボール事業はスペインのバーからほぼ完全に姿を消し、メーカーや運営会社は利益率の高いギャンブル機に注力せざるを得なくなった。

 

・このような急激な状況の変化と国内外の競争の激化に直面して、Sonic は1978 年にダイナミックなサウンドとストロボ ライトを導入した Williamsの「Flash」 (ヨーロッパでは Storm として販売) などの革新的な製品をライセンス供与されて発売した。また最新の自社製品である Third WorldNight Fever は新しいスクリーンを組み込んだにもかかわらず、バランスはギャンブルへと傾いていた。また1970年代後半のスペイン経済危機は、インフレ、人件費の高騰、そして世界的な不況を伴い、Sonicのピンボール事業に「壊滅的な打撃」を与え、生産量が急激に減少し、1978年にはピンボールの生産を停止した(注6)。

 

 

▲Third World(1978)とNight Fever(1978)のフライヤー。

Williamsも1978年に「Disco Fever」を発売しているが、Night Feverはまるで関係ない。

 

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注1・Darling:Williamsが1973年にリリースした2P用のピンボール機。同じゲームの4Pバージョンとして「Jubilee」がある。SEGASAはこれを1P機として「Casbah」の名でコピーした。IPDBではCasbahの販売年を1972年としているが、これではオリジナルよりも早く、またWilliamsの親会社であるシーバーグ社がSEGASAに資本参加したのが1973年であることからも、矛盾しているように見える。今度問い合わせてみようと思う。

 

注2・Williams製のピンボール機を次々とコピー:SEGASAは、「Spanish Eyes」以降、1975年までに少なくとも9機種のWilliams製ピンボール機をコピーし、1976年からオリジナルのピンボール機の開発を始めている。

 

注3・ある時:原文では「un momento dado(ある時点で/かつて)」となっている。SEGASAがWilliamsのコピーでないピンボール機を売り出し始めるのは1976年からで、おそらくこの時期を指しているものと思われる。ただし、当初はWilliamsの機械を相当に手本にしていたように見える。

 

注4商業的な失敗に終わった:SEGASAは1976年から「Sonic」を名乗るようになり、そのピンボール機は日本にもかなり輸入され、ワタシも実際にたくさん見ているが、本家米国は壁が厚かったようだ。余談だが、1970年代後半の日本では、Playmatic社やRecreativos Franco社等、スペイン製のピンボール機がずいぶん輸入されていた。

 

注5・1976年末日本のセガ・エンタープライゼス株式会社と合意に達し:どういう筋合いで日本のセガと合意を必要としたのか全く不明。現在のセガの顔である「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」が発売される15年も前の事なのでこれとは関係ないはずで、だとすれば「SEGA S.A.」を名乗るにあたって日本のセガと何らかの了解事項があったということなのだろうか。ともあれ確かに1976年12月に発売したピンボール機「Faces」のエプロンには「Sonic」のロゴが見られる。

 

▲1976年12月発売の「Faces」のエプロン部分。「Sonic」のロゴが見える。画像はIPDBより拝借

 

注6・1978年にはピンボールの生産を停止した:実はSEGASAはその後もピンボールを作るのだが、長くなるので続きは次回後編で。

 

(ピンボールメーカー 後編につづく)

【お知らせ1】毎週日曜更新を目指している拙ブログですが、来週10月12日は聖地巡礼のためお休みとさせていただきます。

 

【お知らせ2】今回掲載している画像はオリジナル記事に使用されているものですが、推奨サイズ(縦横最大640ピクセル)に合わせて縮小してあります(今後連載される記事においても同様。ただし本文のみで、注釈の画像は除く)。

 

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・スペインはマドリードのアデラ・バルボア通りに本拠を構えたSEGASAは、まず1968年に、セガが1966年に発売を開始したエレメカのバスケットボールゲームをライセンス生産(前回記事参照)した。翌1969年にはやはりセガが同年に発売したエレメカ機「ミサイル」を発売した。

 

▲SEGASAが頒布した「ミサイル」のフライヤー。左上には「SEGA」のロゴが見えるが、右下には同じ字体で「SEGA S.A.」(注1)と記されている。

 

・この年(1969)、ブロムリー(と、スチュワート)はセガの株の80%を、米国の巨大コングロマリット「ガルフ・アンド・ウェスタン(以下、G+W)」に売却した(残る20%はレメアーが保持した)(関連記事:デイビッド・ローゼン伝 後編)。この時、ブロムリーはG+Wに、クラブ・スペシャルティ・オーバーシーズに対してセガ製品のほぼ全世界への販売権(注2)を付与させた。

 

・その後SEGASAはセガの「ヘリコプター (1968)」、「グランプリ (1969)」、それに「EL ALAMEIN (1972)」(注3)と次々に発売していった。

 

▲SEGASAが頒布したフライヤー。上から順に「ヘリコプター」、「グランプリ」、「EL ALAMEIN」。この3つのうち、「EL ALAMEIN」のみ「SEGA S. A.」ではなく「SEGASA」と表記されている。ライセンス品とオリジナル品(注3参照)で使い分けている・・・?

 

1973年の初頭、SEGASAはパルラ郊外に移転した。新オフィスは7000平方メートルの工場スペースに100平方メートルの管理オフィススペースを持つ、国内最大かつ最も近代的なコインマシン工場であった。これによりSEGASAは生産ラインを拡大し、従来のエレメカ機だけでなく、ピンボール機も生産するようになった。

 

▲SEGASAの新社屋。この画像は1974年に撮影されたもの。壁面に大きな「SEGASA」の文字が見える。

 

・その1973年の9月、米国のジュークボックスメーカー、Seeburg社(ルイス・ニカストロ社長)(注4)がSEGASAの株式の50%を取得した。Seeburg社はピンボール機メーカーのWilliams Electronics社の親会社であったため、SEGASAはWilliamsのピンボール機の技術を参照することが可能になり、ライセンス生産及び自社設計のピンボール機の製造が容易になり、その製造と輸出を開始した。SEGASAが初めて市場に投入したピンボール機は、Williamsがオリジナルの「Spanish Eyes注5)」だった。

 

▲SEGASAが頒布した「Spanish Eyes」のフライヤー。オリジナルはウィリアムズ製。

 

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注1・SEGA S. A.:この「S. A.」は「Sociedad Anónima」の略で、日本の「株式会社」に相当する法人形態を指す表記。つまり「SEGA S. A.」は「SEGA株式会社」の意味ということになる。社屋やフライヤーなどに「SEGASA」の表記が多く見られるのは、ひょっとするとそれは「SEGA S. A.」の意味ではなく、スペインのセガ株式会社のブランド名、もしくはビジネス名だったりするのだろうか。1976年頃にはビジネス名に「Sonic」を使うようになっている。

 

注2・セガ製品のほぼ全世界への販売権:ワタシの調査では、クラブ・スペシャルティ・オーバーシーズが独占販売権を得た範囲は、「アジア圏(日本、沖縄、韓国、インドネシア)を除く全世界」ということだった。「クラブ・スペシャルティ・オーバーシーズ」の名で頒布されたセガ製品のフライヤーには、「Worldwide Distributor (世界的ディストリビューター)」と標榜しているものもある。

 

注3・EL ALAMEIN:第二次世界大戦における、北アフリカ戦線での枢軸国軍と連合国軍の戦いをテーマとしているらしい。セガのエレメカ機でこのオリジナルとなる機種は思い当たらず、「SEGA RETRO」によれば、どうもSEGASAのオリジナルであるらしい。

 

注4・Seeburg社:日本ではジュークボックスのメーカーとして知られているが、かねてよりスロットマシンの製造や、子会社のWilliamsを通じてピンボール機の製造も行なっていた。Williamsは、ピンボールから撤退した後は株式市場での銘柄コードである「WMS」を社名としてスロットマシンメーカーに転身したが、2013年に「Scientific Games」社に買収され、そのScientific Gamesも2022年に一部の部門を身売りした後に「Light And Wonder」に社名変更している。

 

注5・Spanish Eyes :Williams製が発売されたのは1971年。SEGASAがこの機種を第一号に選んだのは、自身がスペインのメーカーだからなのか、それとも単なる偶然なのかは不明。

 

(つづく)

◆はじめに

 

今回は、今年の8月15日にウェブ上で公開された「Ther story of Segasa Sonic」という記事の抜粋・要約です。内容は、ワタシが長年その情報を探し続けて来た「SEGASA」と言う、かつてスペインにあった謎のゲーム機メーカーの歴史です。

この情報を教えてくださったフレディ関連記事:【続報】セガのMills機は海賊版などではなかった?)によると、この記事を執筆したEddie Morales氏はフレディの古い友人で、マーティ・ブロムリー関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1) まずは過去記事から概説)のためにスペインでセガを率いてきた人だとのことです。

 

ワタシはフレディに、この情報を(日本の)他のオールドゲームファンに共有したいが構わないかとお尋ねしたところ、有難いことに「もちろん構わないとも」とのお返事をいただきましたので、今回から何回かに分けてご紹介していこうと思います。

 

ただ、この記事に書かれている内容は、これまでのワタシの認識とは異なる部分も少なからずあります。拙ブログが過去記事で言っていることと違う部分があることに気づかれる方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はその相違の追及はせず、単純にオリジナルの通りに記述しますので、「諸説あるらしい」と認識していただくか、またはご自身でも調べてみていただければ幸いです。

 

なお、オリジナルの記事は全部で12のチャプターから構成されていて非常に長いため、この抜粋・要約ではかなりの部分を割愛します。その中には、Eddie Morales氏がこの記事を書こうと思い立った動機や、SEGASAと関連が深い、拙ブログでもこれまで何度か言及してきたセガの起源(そのソースの多くはフレディから頂いた資料やメールによる口伝だった)など、本来なら省略したくない重要なエピソードも含まれていますので、ぜひオリジナルもご参照ください。ただし、本文はスペイン語で書かれていますので、機械翻訳の環境は必須です。

 

(オリジナル記事はこちら↓)

La historia de Segasa Sonic

 

▲La historia de Segasa Sonicの冒頭に掲げられているSEGASAのカンパニーロゴ

 

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◆SEGASAの概要

 

・SEGASA(登記上はSega, S.A.、後にSonicに改称)の誕生は1968年3月25日。日本にセガを作ったマーティン・ブロムリーリチャード・スチュワートレイモンド・レメアー、それにスコット・フォーブス・ドッテラー(注1)が、クラブ・スペシャリティ・オーバーシーズ(注2)から50万ペセタの資本金を得て設立された。

▲SEGASAのカンパニーロゴ。

 

・SEGASAは、娯楽およびギャンブル機器分野に特化したスペインの企業で、アーケードゲームとピンボールをヨーロッパに輸入したパイオニアであり、「ポン」、「スペースインベーダー」、「ギャラクシアン」、「パックマン」、「アステロイド」などのタイトルをスペインに持ち込んだ実績がある。またSEGASAはAM機器の輸入(注3)に加え、独自のピンボールも製造し、スペインにおける電子娯楽産業の主要企業の一つとしての地位を確立した。

 

・設立当初は、ブロムリーの親しい友人であり、後の1987年から1992年までATARIの社長を務めたローレンス・デビッド・シーゲルの父であるバートラム(バート)・シーゲル(注4)がゼネラルマネージャーに就任した。

▲バート・シーゲルの肖像。

 

・SEGASA創業時の本社はマドリードのアデラ・バルボア通り3番地にあり、そこでセガのアーケードゲーム機の製造を開始した。最初の機種はセガのオリジナルゲーム「バスケットボール(注5)のライセンス版で、1968年に発売された。

 

注1・スコット・フォーブス・ドッテラー:拙ブログでは初めてとり上げるが、ブロムリーの仲間の一人で、セガの歴史を調べているとスチュワートやレメアーとともにしょっちゅう出てくる名前。

 

注2・クラブ・スペシャルティ・オーバーシーズ:ブロムリーがパナマに置いたシンジケートの中枢関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(2) 4つの「Service Games」。はじめは「サービス・ゲームズ・パナマ」を名乗り、後に社名を変更した。

 

注3・AM機器の輸入:許諾を得てスペインで製造したコピーを含む。当時のスペインは高関税と保護主義的な税制により輸入品の価格が高かったため、スペイン(およびヨーロッパ市場)に向けてセガを含むいくつものメーカーのゲーム機を製造(コピー)した。

 

注4・バート・シーゲル:セガの情報を集めたウェブサイト「SEGA RETRO」では、「バートが長年の友人であるブロムリーとSEGASAを共同設立した」としている関連記事:【小ネタ】SEGASA (AKA Sonic)とSEGAの関係メモ

 

注5・バスケットボール:セガが1966年に発売したエレメカゲーム。2P対戦だが、フライヤーでは1Pでも遊べる(1 or 2 Players)と謳っている。本文では「セガのオリジナル」とあるが、米国Midway社が、やはり1P/2Pどちらでもプレイ可能なバスケットボールゲーム機を1964年に作っている。

▲米国Midway社の「バスケットボール」のフライヤー。

 

(つづく)

ただいま年に一度あるかどうかという繁忙期のため、今回は次回以降のテーマの予告編でお茶を濁します。もし、拙ブログを楽しみにされている奇特な方がいらっしゃいましたら、お詫び申し上げます。

 

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かつて、スペインに「SEGASA」というゲーム機メーカーがありました。創立は1968年とのことですが、日本のオールドゲームファンの間でもあまり話題に上りません。1970年代半ばには「Sonic」の商号(今のセガのキャラクターのソニックとは無関係)でピンボール機を開発・販売しており、それらは日本にも結構輸入されていたのですが。

 

ワタシがこのメーカーを知ったのは1990年前後に入手したフライヤーからだったのですが、「SEGASA」のロゴが日本のセガの旧ロゴに酷似しており、いったいセガとどんな関係があったのかそれともなかったのか、大いに気になりました。爾来、ことあるごとにSEGASAに関する情報に注意を払ってきましたが、断片的な情報が僅かに集まるのみで、それをまとめたのが2020年8月に公開した「【小ネタ】SEGASA (AKA Sonic)とSEGAの関係メモ」です。

 

▲SEGASAのカンパニーロゴ。字体がセガの旧ロゴとよく似ている。

 

しかしながら、それ以降SEGASAに関する追加情報はなかなか得られず、ワタシの理解も深まることもないまま時は流れました。そこについ先日、これまでワタシに古いゲームの資料をご提供くださったり、あるいはゲームメーカーの歴史について多くの事を教えてくださったりしていた米国の古い業界人、Freddy Bailey氏(以下、フレディ)関連記事:【続報】セガのMills機は海賊版などではなかった?)より、「SEGASAについて良い情報を見つけたのでファイルを送る」とのeメールをいただきました。

 

メールには「The story of Segasa Sonic」と題する、本文がスペイン語で書かれたhtmlファイルが添付されていました。フレディにこの情報を他者と共有しても構わないかと尋ねたところ、もちろん構わないとのお返事をいただいたのでさっそく拙ブログに転載しようと思ったのですが、話はSEGASAの創立者(の一人)であるマーティン・ブロムリー関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1) まずは過去記事から概説)の時代のセガから始まっていてページ数が多く、また画像も多いので、一度には紹介しきれません。また、画像の一部はなぜか縦横比がおかしく表示されたるため、この修正も必要です。

 

しかしながら、冒頭で申しあげた通りただいま多忙に付き編集、修正が間に合いません。そこで次回から何回かに分けて、このSEGASAの歴史の翻訳版(と言っても機械翻訳なので時々ヘンな訳にもなりますが)を掲載してまいりますという予告で、今回は終わりとさせていただきます。

 

▲画像が少なくて寂しいので、賑やかしとしてSEGASAが販売したエレメカ機「El Alamein」のフライヤー。セガのエレメカ機が元ネタらしいが、何だろう?

 

(つづく)

2年前の5月、拙ブログでは過去記事「国産初のメダルゲーム機、実はファロじゃない!?」で、頂き物のセガの古い社内報の画像を根拠に、初の国産メダルゲーム機はセガが1973年に発売した「シルバー・フォールズ」であることを述べました。

 

▲いただいた社内報の画像。この1ページしかないので具体的な頒布時期は明らかではないが、記述内容から1973年か、遅くとも1974年と思われる。画像は推奨サイズでなるべく大きく表示するために上下に2分割している。

 

▲国産初のメダルゲームシルバー・フォールズのカラー画像。

 

そして、次に続く記事「初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ)」では、「シルバー・フォールズ」について、マニアしか気にしない、どうでもいい謎を二つ残しました。

 

一つはプレイフィールドを覆うドーム内の飾り看板に書かれている「アラビア風の文字」は何が書かれているのか、もう一つは、その飾り看板に描かれている絵がひょっとしてセガのEMピンボール「アリババ」のフライヤーにあったカットの使い回しのように見えるがどうなのか、というものでした。

 

これらは、この記事を書いた時点で私が持っている「シルバー・フォールズ」の画像は解像度が低いため判然としなかったために生じた謎ですが、拙ブログではお馴染みのカナダのCaitlynはこの記事を覚えていてくれて、つい先日、「Mike Minchew」と言う方がスキャンした高解像度の画像を送ってくれました。

 

▲Caitlynが送ってくれた(ワタシがもっているものよりも)解像度が高い、飾り看板の部分の拡大画像。ここでは推奨サイズに合わせて縮小しているが、実際は1425×715ピクセルの画像だった。

 

まず一つ目の謎である「アラビア風の文字」ですが、セガの社内報には「何やらアラビア風の文字の意味、おわかりですか・・・(中略) アラビア語の勉強も無駄にはなりません。(解答は24頁)」とあるのですが、その「24頁」の画像が無いため結局何が書いてあるのかはわかりませんでした。どうもこれは本当にアラビア文字のようですので、お分かりになる方がいらっしゃいましたらぜひともご教示いただけませんでしょうか。

 

もう一つの謎、「ピンボールのフライヤーで使用したカットの使い回し」については、半分は正解だったようです。

 

▲左が「シルバー・フォールズに描かれていた絵、右が「アリババ」のフライヤーに使用されていたカット。

 

絵面は同じですが、アリババのフライヤーのカットをそのまま版にしたものではなく、模写したものであるように見えます。

 

なお、この画像の元ネタを作成したMike Minchewと言う方は、アーケードゲームのフライヤーのアーカイブサイト「The Arcade Flyer Archive」にも多数の古いピンボールのフライヤーを提供するなど、いろいろな場所で古いゲーム機の画像を広くシェアしてくださっています。

 

貴重な古い資料を広く公開してくださることに感謝するとともに、この情報を寄せてくれたCaitlynにもこの場を借りてお礼申し上げます。

直近3回に渡って連載した、国産6カードビンゴ機の、おそらく今後も解ける見込みが薄い数々の謎シリーズは前回で完結したはずでしたが、その後になって新たな関連情報が飛び込んできたため、あと1回だけ延長いたします。小ネタではありますが、どうしても無視できないレアな情報ので、なにとぞご了承ください。

 

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国産の6カードビンゴ機「アポロ・ボール(タイトー)」と「スキル・ボール(セガ)」は、風俗営業機としての許可を得たメダルイン・メダルアウトのゲーム機です。使用するメダルは先行する風営機「オリンピア」と共通で、直径が30mm強と大きいサイズでした。

 

オリンピアやスキル・ボールで使用されていたメダルの刻印には何種類かあり、片面が聖火、片面が沖縄首里城の守礼門であるものが多いですが、両面共に聖火だったり、片面が守礼門で片面が沖縄本島だったりするものも見つかっています(関連記事:「メダル」と「メダルゲーム」と言う呼称についての備忘録(3)メダルの種類)。そしてこの度、これまでに例のない全く新しいデザインのメダルが発見されました。

 

▲今般新たに発見されたオリンピア用メダル。

 

新しいメダルの中央部分には、片面には聖火、片面にはピンボール機に見える機械が刻印されていて、その周囲を取り巻く円周上には「AMUSEMENT・MARKIII・SKILL BALL・NEW OLYMPIA」の文字が刻印されています。

 

「SKILL BALL」の文字があるということは、このメダルはセガが作成したものと考えられます。ピンボール機に見える部分を拡大して見ても、筐体の手前の部分の形やバックグラスのビンゴカードは、セガの「スキル・ボール」を表現しているように見えます。

 

▲ピンボール機に見える部分の拡大図。

 

スキル・ボールは、1回のゲームでメダルを最大3枚まで投入できました。オリンピアは1枚のみでしたので、1ゲーム当たりのインカムは3倍期待できそうです。しかし、スキル・ボール(アポロ・ボールも)はゲーム時間が長く、1回のゲームに少なくとも1分、多くは1分半から2分ほどもかかるゲームでした。

 

メダルの貸出料金は、1966年にオリンピアの稼働が本格化した時には6枚で50円関連記事:「メダル」と「メダルゲーム」と言う呼称についての備忘録(2))でしたが、ワタシが「スキル・ボール」を初めて遊んだ1972年時には10枚で100円に値上がりしていました。

 

1枚10円のメダルを3枚(30円相当)投入して1分半遊ぶ前提で試算すると、1時間当たりのゲーム数は40ゲーム、インカム(投入されるメダル数)は120枚、1200円相当になります。このうち75%を景品で還元すると、1時間当たりの儲けは300円です。セガが「スキル・ボール」をいくらで販売していたのか、資料が無いので不明なのですが、タイトーのアポロ・ボールは1台30万円~48万円で販売していたようです。1日12時間営業の全時間帯でフル稼働し、インカムの75%を景品で提供していれば、30万円の機械であれば3か月弱くらいで元が取れる計算になりますが、この目論見は果たして妥当と言えるものだったのでしょうか。

 

実際のところ、国産6カードビンゴ機の製品寿命はオリンピアよりも短く、セガは遅くとも1977年時点には総合カタログから削除しており後継機が作られることもありませんでした。ワタシとしては、70年代前半にはもうメダルゲームと言う市場ができており、ビンゴ・ピンボールも認知されていたのだから、メダルゲーム向けに改造した6カードビンゴを出してくれればよかったのになあと思わずにはいられません。あ、でも部品の調達に問題があった可能性もあった(前回記事参照)のかな? などと考え始めると謎のループにハマるのでやめます。

 

前回で終わるつもりで始めたものを1回延長している今回は、更に謎が深まります。現時点でその謎は解けていませんし、今後も解ける見込みはありません。

 

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ピンボール機のオンライン百科事典「Internet Pinball Database (IPDB)」によると、米国Bally社が「Apollo Ball」という6カードビンゴ機を1969年に発売していたとあります。しかし筐体の画像は無く、IPDBとしては、このプロジェクトがその後どうなったかまでは掴めていないとしています。

 

前回、「タイトーの『アポロ・ボール』の筐体は、米国Bally社製のビンゴ機によく似ている」と述べましたが、Ballyの「Apollo Ball」は、タイトルと、6カードビンゴであることまで一致しています。そして発売時期もおおむね一致しており、タイトーの機械と全く無関係とは考えにくいです。

 

ひょっとして、タイトーがBallyに開発を依頼したのでしょうか。あるいは、タイトーがBallyが開発中の機械を買い取ったのでしょうか。しかし、タイトーとBallyが接触していたことを示す証拠は全く見つかりません。IPDBも、タイトーの「アポロ・ボール」と「モデルNo.860」との共通性に気づいてはいますが、「興味深い」と述べるに留めています。

 

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話は飛びますが、ワタシはセガの「スキル・ボール」を知る以前に、Bally社のビンゴ機を複数の箇所で見ています。それらのウッディーなプレイフィールドと60年代半ば以前のフリッパー・ピンボールを思わせるオールドファッションドなバックグラスのアートワークから、ずいぶん昔の機械に思えたものでした。

 

ずっと後に知るところでは、Ballyのビンゴ機は日本でも60年代からGマシンとして稼働させているところがあったそうなので、おそらく行楽の途中に立ち寄ったドライブインやレストランなど地方の飲食店に設置されていたものを見ていたのだと思います。

 

その時はそれが何と言うゲームなのかもわからず、表記がすべて英語だったので遊び方もわかりませんでしたが、ワタシにとって強く印象に残り、後にセガの「スキル・ボール」を初めて見た時に、「あ、あのゲームだ」と思ったものでした。

 

「スキル・ボール」はインストラクションなどが全て日本語だったので、ワタシにも理解でき、遊ぶことができました。そして気づいたのですが、プレイフィールド上に打たれたピンの形状や配置はもとより、「スキル・ボール」のプレイフィールドは、「あのゲーム」と同じ部品で作られているように見えました

 

▲「あのゲーム」の例として、Ballyの「Silver Sails(1962)のプレイフィールド。

 

▲フライヤーより切り抜いた「スキル・ボール」のプレイフィールドの画像。

 

ついでに、ワタシは実機を見たことはありませんが、「アポロ・ボール」のプレイフィールドも比較しておきます。

 

▲フライヤーより切り抜いたタイトーの「アポロ・ボール」のプレイフィールドの画像。

 

ワタシが特に印象に残っていた部品は、プレイフィールドの上段から下段までの左右に全部で8個配置されている、頭頂部が赤く塗られた豆電球を覆うカバーです。ICビンゴを作っていたsigmaは、この部品を「Light Shield Post」と呼んでいます。そしてこの周囲には、sigmaが「Rebound Spring」と呼ぶ、ブリキ製の巻き髭のようなスプリングがLight Shield Postを守るように取り付けられています。

 

▲「Rebound Spring」に守られた「Light Shield Post」。Ballyの「Silver Sails (1962)」より。これと寸分違わぬように見える部品が、「アポロ・ボール」にも「スキル・ボール」にも見られる。

 

セガもタイトーも、これらの部品はBallyのものとよく似ていますが、なぜここまで似せる必要があったのでしょうか。それとも、これは似せたのではなく、Ballyの部品そのものだったということなのでしょうか。


あれだけBallyとの一致点があったタイトーであればそれもあり得そうなことに思えます。しかし、筐体はオリジナルでタイトルも異なり、タイトーほどの共通点が見いだせないセガの「スキル・ボール」もやはりそうなのでしょうか。

 

Ballyとの関係はともかくとして、「アポロ・ボール」と「スキル・ボール」のゲーム内容が全く同一という現実がある以上、少なくともタイトーとセガの間で、この6カードビンゴ機の件で何かしらのやり取りがあったことは間違いありません。しかし、どちらがどちらに話を持ちかけたのか、そこでどんな話が交わされたのかは全く分かりません。風俗営業機ということは、株式会社オリンピアが陰で関係していたのでしょうか。まさか警察当局がBally社に鼻薬を嗅がされて米国製品を風俗営業用に提供することになり、オリンピアの件で貸しのあるタイトーとセガ両社に半ば無理やり作らせたなんてストーリーまで思いつくくらい、あらゆる可能性が否定できません。

 

謎は広がるばかりでただの一つも回収できない今回のテーマでしたが、今年の5月に、かすかな希望の可能性となるかと思わせるものを見つけました。それは、埼玉県羽生市にある「Heavenly」(関連記事:名前通り天国のようなHeavenly(埼玉県羽生市)に感謝を)で発見した、「アポロ・ボール」のもう一つのフライヤーでした。

 

▲「アポロ・ボール」のもう一つのフライヤーの、おそらく表紙部分。タイトーの関連会社で、オリンピアの販売も行っていた「大栄商事」の名が見える。

 

このフライヤーは、Heavenly屋内の柱に、額に入って掲げられていました。おそらく二つ折り4ページくらいに渡っていると思われるフライヤーの表紙部分でしょう。ぜひとも全容を拝見したいものですが、どこかで公開していただけないものでしょうか。

 

(このシリーズ・終わり)

ところで、タイトーの「アポロ・ボール」セガの「スキル・ボール」は、どこか違うところはあるのでしょうか。両機を比べてみようと思います。

 

▲左がタイトーの「アポロ・ボール」、右がセガの「スキル・ボール」。スキャンしたフライヤー画像から切り出したものであるため解像度が低く見づらい点は乞うご容赦。

 

「アポロ・ボール」のメダル投入口とゲームに使用する二つのボタンはロックダウンバー上にあります。そしてメダル払い出しユニットは本体の下部に取り付けられていて、これらの特徴はかつてSigmaがオペレートしていたビンゴ・ピンボール専門のゲーセン「ビンゴイン」に設置されていたBally製のビンゴ機によく似ています。メダル払出しユニットの前面左上には丸いメクラ蓋が見えますが、ビンゴインで見た機械ではこの位置に払い出しボタンが付いていました。これらの特徴から、「アポロ・ボール」の筐体はBally社のビンゴ機を流用しているのではないかと疑われます。

 

一方、「スキル・ボール」の筐体は通常のピンボール機とは少し違って、奥の2本の脚は通常のピンテーブルと同じですが、手前はボディを下方に延長してそのまま筐体を支える脚としていています。メダル投入口と二つのボタンはそのフロントドア上にあり、またメダル払い出し機構もこの中に収められています。これに似た筐体は過去の米国製品で見たことはありますが、多くはありません。

 

風営機の先輩である「オリンピア」では、その筐体はセガのスター・シリーズ関連記事:セガ・スターシリーズの登場時期が判明!)が流用され、タイトー、セガ共にそれを「オリンピア」として販売していました。しかしピンボール機となると、タイトーもセガもまだ流用できる自前の筐体は持っていなかったはずです。セガは1971年国産初の本格的ピンボール、「Winner」を発売していますが、この筐体は通常のピンテーブルと同じく4本脚で、「スキル・ボール」とは異なります。両社共に、この新製品のために独自に型を起こしたのでしょうか。

 

次に、「アポロ・ボール」と「スキル・ボール」のバックグラスを比較してみます。

 

▲左がタイトーの「アポロ・ボール」のバックグラス、右がセガの「スキル・ボール」のバックグラス。正面アングルになるようにオリジナルを補正している。

 

ワタシはこの画像のそれぞれに、「①」から「④」の番号を付けた枠を描き加えましたので、それぞれについて説明します。

 

①   ボーナスゲーム

タイトーはボーナスゲームを「アポロ賞」、セガは「ブラボー賞」と呼んでいます。

ボーナスゲームは、有効なカードの縦、横、対角線上のいずれかに5個の数字が一直線に並ぶ「5・イン・ライン」が成立すると発動し、以降6ゲームの間は、1番から7番のいずれかの穴にボールが入ると、それだけで1回のゲームでの最高払い出し枚数である15枚のメダルが払い出されます。分からないのは①~⑦の表示で、ボーナスゲーム自体は6ゲームに渡って続くので残りのゲーム数を表すものではなさそうです。

 

②   4コーナー

タイトーは黄色の星に「コーナーボール・・・15・・・」、セガは赤い星に「コーナーに入ると15」と書いています。これは、そのゲームで有効なカードの四隅全てを点灯させるとメダルが15枚払い出されるフィーチャーです。ただし、ゲーム開始時にメダルを1枚しか投入していない場合には適用されません。メダルを2枚投入すると、プレイフィールドの下段左右にある、星のペイントの下にあるロールオーバーボタンが点灯し、ボールがこれを踏むことで有効となりました。そしてメダル3枚投入でゲームを開始すると、ロールオーバーボタンを踏まずとも無条件で有効となりました。

 

ビンゴ・ピンボール機の最大手だった米国Bally社はこのロールオーバーボタンフィーチャーを多用しており、「4コーナー」はそのデザインと機能を流用したものであることは疑いのないところですが、4コーナーの成立自体がかなり難しく、実際は賑やかしに留まる、あまり有用なフィーチャーとは言えませんでした。

 

▲プレイフィールド下段左右のロールオーバーボタンの例(黄色の円内)。この画像はSigmaのICビンゴのものだが、Ball社製のデザインを踏襲している。

 

③   カード選択

タイトー、セガ共に「ボタンを押してカードを選んで下さい」と記述されています。

 

「アポロ・ボール」も「スキル・ボール」も、ビンゴ・カードは6枚ありますが、1回のゲームに使用するボール5球のうち最初の3球の結果が決定した時点で、上段(カードA、C、E)と下段(カードB、D、F)のどちらのカードでゲームを続行するかを選択しなければならず、選択しなかった方で役が成立してもメダルの払い出しは行われませんでした。6カードビンゴ機は米国Bally社も1951年以降多数開発していますが、このようなルールのゲームは一つもなく、国産6カードビンゴ機独自のルールと言えます。それにしても、なんでこんなわかりにくいルールにしたのかは謎です。

 

④   スキル バンパー

タイトーもセガも「スキル」と「バンパー」の間に1文字分の空白を設けているのはなぜでしょう? 単なる偶然?

 

スキル バンパー」とは、プレイフィールドを(おそらく)1インチ程度の幅で瞬間的に上方にスライドさせて、フィールド上のボールの行方をコントロールするフィーチャーです。ゲーム開始時に投入したメダル数に応じて、1ゲームに2回から最大7回使用できました。

 

これは、米国Bally社が1954年に発売した「Hi-Fi」と言う機種に「Bump」と言う名称で導入されたフィーチャーとほぼ同一の機能です。しかしBallyの「Bump」フィーチャーはプレイヤーの支持を得られなかったようで、その後の機種に搭載されることはありませんでした。

 

日本の6カードビンゴ機はなぜこんな珍奇なフィーチャーを復活、導入したのでしょうか。ワタシは、これを以て風営機に求められる技術介入の要素であると主張したのかなあと想像していますが、そうだとしても、良くこんなマイナーなフィーチャーを発掘してきたものだと思います。

 

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前回述べたとおり、ワタシは「スキル・ボール」は実際に遊んでいますが、「アポロ・ボール」は見たことすらありません。しかし、風俗営業に供される遊技機の仕様は警察(公安委員会)の許可を要し、メーカーはその許可なくヤクモノやフィーチャーを自由に開発したり付加したりすることができません。これまでに見てきたように両機は名称と筐体の形状を除いて偶然では済まない一致が多数あるので、この二機種のゲーム性は同一と判断しています。

 

さて、ここで分からないのは、誰がこの6カードビンゴ機を作り、風俗営業機として申請し許可を得たのか、です。「オリンピア」の場合は、タイトーが開発して風俗営業機としての許可を取り、セガがこれに便乗して一時は揉めたが最終的に「株式会社オリンピア」に統合され発売されたとする資料が残されています(関連記事:「株式会社オリンピア」は実在したのか?)が、この6カードビンゴ機については、開発から風営許可に至るまでの経緯について語られている資料はただの一つも発見できていません。

 

このタイトーとセガの6カードビンゴ機は、「オリンピア」と違って筐体も製品名も異なります。そしてどちらの機械にもオリンピア社のエンブレムは無く、セガの「スキル・ボール」に至ってはバックグラスに「SEGA」のロゴが描かれており、オリンピア社の関与は無かったようにも思われます。それなのになぜ、どういう経緯でタイトーとセガが同じような風営機を同時期に作って販売することになったのでしょうか。

 

本シリーズは今回で終了する予定で進めていましたが、長くなってしまったので一回延長させて戴きます。

 

(つづく)

スキル・ボールSkill Ball)」とは、セガが1970年前後頃に売り出した6カードビンゴ機です。パチスロの元祖である「オリンピア」と同じく風俗営業の許可を受けており、ゲーム結果によって払い出されるメダルを景品と交換することができました。遊び方については過去記事「スキル・ボール(初の国産ピン・ビンゴ)と大岡山のオリンピアセンターの記憶」で述べておりますので、ご興味があればご参照ください。

 

「スキル・ボール」の販売開始時期は良くわかりません。セガのオンライン百科事典とも言える「SEGA RETRO」では1970年としています(SEGA RETRO Skill Ball)が、これは拙ブログでお馴染みのCaitlynのブログをソースとしており、Caitlyn自身は「1970年以前(~1970)」として特定していません。ただ、少なくとも1971年9月発行の「’72コインマシン名鑑」には記載があります。

 

▲1971年9月に発行された「’72コインマシン名鑑」に掲載されている「スキル・ボール」。

 

で、あるにもかかわらず、なぜかセガは、1972年の5月と9月、それに1973年1月に発行した価格表に「スキル・ボール」を掲載していません。手元に資料が無い1974年は飛ばして、1975年発行の総合カタログには登場しています。

 

▲セガが1975年に発行した10ページ構成の総合カタログの5ページ目。最下段の左から二番目に「スキル・ボール」の姿が見える。推奨サイズでなるべく大きく表示するために上下2分割にしてある。

 

セガは、「スキル・ボール」のフライヤーを総合カタログ以外では少なくとも2種作成しています。一つは1枚の紙面を横に3等分に折って全6ページ構成としたもの、もう一つは通常のA4サイズ表裏2ページ構成としたものです。しかし、これらの頒布時期も特定できていません。

 

▲6ページ構成の表面と裏面。

 

▲表裏2ページ構成のフライヤー。推奨サイズでなるべく大きく表示するために上下2分割にしてある。

 

さて、話は変わりますが、タイトーも「アポロ・ボールApollo Ball)」と言う6カードビンゴ機を販売しています。こちらも販売開始時期が分からないのですが、1970年に東京晴海で開催された第9回アミューズメントマシンショウに出展されていることが、業界誌「全日本遊園」の1970年11月号に記述されています。

 

▲「アポロ・ボール」のフライヤー。描かれる女性は1968年に公開された仏伊合作のSF映画「バーバレラ」のフライヤーをモチーフとしている(はっきり言えばパクっている)。例によって推奨サイズでなるべく大きく表示するために上下2分割にしてある。

 

▲全日本遊園1970年11月号<出展各社および出展品目一覧表>より、タイトー(この時点では太東貿易)のリスト。「アポロ・ボール」の名が見える(赤傍線はワタシによる)。

 

ワタシは「スキル・ボール」は遊んだことがありますが、「アポロ・ボール」は実機を見たことすらありません。しかし、フライヤーの説明文には「国内風俗営業対象機械として認可を受けています」とあり、またこのフライヤーに裏面があるのかどうか、ワタシの手元には現物が無いのでわからないのですが、筐体画像のバックグラスの文言を見ると、そのゲーム内容はセガの「スキル・ボール」と全く同じであるように見えます。

 

はて、これは一体どういうことでしょう? セガとタイトーは、以前に風俗営業機「オリンピア」で謎の協業をした実績があります(関連記事:「株式会社オリンピア」は実在したのか?)。ただこれは、オリンピアを最初に作ったタイトーが、スロットマシンの製造では既に実績があるセガが後追いしてきたことに抗議するという事態に発展したことから(おそらく)第三者を介して何らかの調整が入った結果で、最終的にはタイトーもセガも同一の筐体の「オリンピア」を販売しています。

 

しかしこの6カードビンゴ機は、セガは「スキル・ボール」、タイトーは「アポロ・ボール」と名乗り、筐体の形状も異なっています。そしてどちらのフライヤーにも「株式会社オリンピア」の名前はありません。

 

さらに言えば、過去に国内で6カードビンゴ機が作られたことを示す資料は全く無く、セガもタイトーもビンゴ機製造のノウハウは何もなかったはずです。いったい誰が、どういう枠組みでこの6カードビンゴ機を作ったのか、全てが謎に包まれています。

 

(つづく)