【前回まで】
ギャンブル機の非犯罪化によりAM機の人気は退潮し、また1970年代後半のスペイン経済危機は、インフレ、人件費の高騰、そして世界的な不況を伴い、Sonicのピンボール事業に「壊滅的な打撃」を与え、Sonicは1978年にピンボールの生産を停止した。
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◆ピンボールへの回帰と新たな変化
・1984年、かつてレアル・マドリードで活躍した有名なサッカー選手で、引退後は自身が1980年にオープンしたアーケード「エル・トレボル」でオペレーターとしての経験を持っていたマノロ・ベラスケス(注1)がSonicの営業部長に就任した。
▲マノロ・ベラスケス。
・1986年、ゼネラルマネージャーに任命されたエドゥアルド・モラレス・エルモは、ビデオ機器(タイプA)(注2)の生産を減らし、「模倣されにくい」機器に注力し、スロット機器(タイプB)の生産を増やす決定を下した。
・さらに、スペインでピンボールが再び人気を集めていた時期には、ピンボールの生産が時折再開された。工業デザイナーのフェデリコ・バルドとアートディレクターのミゲル・アンヘル・エチャバレン・アラメンディアは、これらの機器のデザインで重要な役割を果たした。
▲ミゲル・アンヘル・エチャバレン・アラメンディア。なぜかDECOが1987年にリリースした「Laser War」のバックグラスを持っている。
商標および特許登録簿によると、SonicはWilliams社製の2つのモデル、CometとSpace Shuttle(注3)を、設計図と図面を提供して登録していた。しかし、理由は不明だが、1985年後半にCirsa-Unidesa社(注4)が先手を打ってComet、High-Speed、Space Shuttleの各モデルを500キットずつ発注し、スペインで自社ブランドで販売した。
・1980年代初のピンボールゲームとして、SonicはPinstar社からGamatron(注5)を購入した。Pinstar社は、業界危機の最中(注6)にStern Electronics社が倒産した後、サム・スターンの息子であるゲイリー・スターンが設立した会社である。オリジナルのGamatronはBally社製のマシン用のコンバージョンキットだったが、アートワークに顕著な違いがあり、Sonicがこれらのキットを直接購入したかどうかは不明。Sonicのキットはより明るく鮮やかな色で再描画されていた。それでも、この試みは商業的に大きな成功を収めることはなかった。
▲Gamatron(1986)のフライヤー。
・より独創的な解決策を模索したSonicは、Peyper社(注7)と契約を結び、同社のタイトル「Odin」のライセンスを取得し、Sonicはそれを「Odin De Luxe」として製造した。実質的には同一であることを考えると、皮肉な名前と言えるだろう。
▲Odin De Luxe (1987)のフライヤー。
PeyperとSonicの二度目のコラボレーションは、「Odisea」で実現した。このモデルは、ボードを動かすためのサイドコントロールが組み込まれていたため、特にPeyperにとって大きな意味を持った。
▲Odisea(1987年)のフライヤー。
・この技術と独自のデザインを活用して、ソニックはさらに 4 つのピンボールを発売した。
▲上からSolar Wars(1986)、Pole Position(1987)、Star Wars(1987)のフライヤー画像。これらのフライヤーには裏面もあったものと思われるが、オリジナルには表面の画像しかない。
・1988年4月28日に開催されたイベントで、エドゥアルド・モラレスはいくつかのマシンの発表中に、Sonicにおけるピンボールマシンの生産、特にStar Warsについて次のようにコメントしている。
「SEGA(原文ママ)は1978年にピンボールマシンの生産を中止しました。それまではウィリアムズの技術を用いて製造されていましたが、技術的な問題により、あまり良い結果には至りませんでした。JPのおかげ(注8)でピンボールが再び脚光を浴びると、SEGA(原文ママ)もその復活を検討しました。経験豊富なデザイナー、エウロジオ・ピンガロンの協力を得て開発が始まりました。その後、ソーラーウォーズ、ガラトロン(原文ママ)、そして最終的にポールポジションといった独自のデザインを開発しました。他のモデルと同様に、ポールポジションの生産中であったため、少量かつ慎重にストリートテストが行われました。プレゼンテーションと仕上げは完璧で、圧倒的な存在感を持つマシンです。」
・Star WarsはデザイナーたちからPole Positionよりも優れていると考えられていたが、商業的にはPole Positionほどの成功を収めることはできなかった。 1987 年は事実上彼がピンボール業界で働いた最後の年であり、最後の作品はSEGAのヒットゲームをベースにした「Hang-On」だった。
▲Hang-On(1987)のフライヤー画像の表裏。
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注1・マノロ・ベラスケス:原文では「Manolo Velázquez」とあるが、正しくは「マヌエル・ベラスケス(Manuel Velázquez)」らしい。1943生まれ、2016年没。
注2・ビデオ機器(タイプA):ビデオゲーム機器のこと。オリジナルは概ね時系列に沿って述べられていて、「ピンボールへの回帰と新たな変化」のチャプター以前でSEGASAがビデオゲームに参入する経緯や生産した製品に言及しているが、この抜粋と要約では構成を変えているため、話の順番が前後することになった。ビデオゲームについては次回から触れる予定。
注3・CometとSpace Shuttle:共にWilliams社製で、オリジナルのSpace Shuttleは1984年、Cometは1985年にリリースされている。
注4・Cirsa-Unidesa社:1982年にスペインに創立されたゲーム機器メーカー。前出のWilliamsのComet、Space Shuttle、それにHigh-Speed(19896)をスペインで販売している。IPDBではその時期を1986年としている。UnidesaはCirsaのグループ企業の一つ(子会社か?)で、スロットマシンメーカーとして現存している。
注5・Gamatron:Pinstar社が1985年にリリースした機種。Sonicはこれを1986年にスペインで発売している。
注6・業界危機の最中:ビデオゲームの爆発的な普及に伴い、米国では1980年頃よりピンボール機の人気が急激に落ち込み、業界は危機的な状況を呈していた。
注7・Peyper社: 1977年設立のスペインのゲーム機メーカー。記事に言及されている「Odin」は、IPDBによれば1985年のリリースとのこと。
注8・JPのおかげ:「JP」が何を指しているのか不明。日本のセガのことであれば、セガは確かにSEGASAのピンボール機を扱っていたが、これを意味しているのだろうか。
▲日本のセガが1977年に頒布した価格表より、工場でSEGASAのピンボール機を組み立てているところ。この機械は、Williamsの「Satin Doll」をSEGASAが1P用に作り直した「Baby Doll (1975)」。
(ピンボール終わり。次回、ビデオゲーム 前編につづく)

























































