ビデオゲームブームにより冬の時代を迎えていたメダルゲームも、80年代も半ばを過ぎるころから徐々に復権してきました。この時期、セガは「ワールドビンゴ(1986)(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(1)グループビンゴからワールドビンゴまで)」、「ワールドダービー(1988)」、「ビンゴサーカス(1989)(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(3) ビンゴサーカス(Bingo Circus, 1989)とその後継機)」と、立て続けに大型マスメダル機をリリースしてきました。

 

この頃の日本はバブル景気に浮かれていた時代でした。そのせいか、これらセガのマスメダル機の筐体デザインは、従来品と比べて装飾が多くハッタリが効くものになりました。このような豪華な筐体はコストが上昇するので、作って売るにはそれなりの財力と営業力を要することは想像に難くなく、そこはさすが業界最大手のセガと思います。

 

さて、このような背景のもと、もう一つの最大手であるタイトーは、1989年に大型ルーレット機「エメラルドホール」をリリースしました。

 

 

▲タイトー「エメラルドホール」のフライヤーの表裏。

 

従来のタイトーのメダルゲーム機の筐体デザインは、どれもこれも良く言えば常識的、悪く言えば凡庸で退屈な印象でした。しかし、おそらく当時の世相と攻めるセガへの対抗心もあったのでしょう、エメラルドホールの筐体は大きなマーキーと多数の白熱球を使用して「カジノの女王」の風格を表現しようとする意欲が感じられます。また、28インチ大型モニターに表示したベットレイアウトを4人のプレイヤーで共有してベットするスタイルは、実際のカジノのルーレットを思わせる力作でした。

 

ところで、日本でよく知られているルーレットは、1から36までの番号に0、及び00を加えた38分割のアメリカンホイールです(0のみで00がない、37分割のヨーロピアンホイールも知られている)。この場合のペイアウト率は94.73%で、このままではメダルゲームとしては高すぎます。そこでタイトーはアメリカンホイールに「000(トリプルゼロ)」を追加して、ペイアウト率を下げました。

 

余談ですが、このプレイヤーにとって全くうれしくないルール変更は、およそ30年後(大体2018年頃から)にラスベガスのカジノでも次々に採り入れられるようになり、シリアスプレイヤーから「強欲」との非難を浴びることになります。これは何もカジノがタイトーを真似たというわけではなく、負の収斂進化(分類学的には全く異なる生物でも環境が同じなら似た形状に進化する)というものでしょう。強欲なラスベガスのカジノ経営者は、アメリカンホイールの5.3%のハウスエッジでは満足できず、7.7%に引き上げたのです。ひどいことにごく最近には「0000(クアドラプル・ゼロ)」を導入したホイールも登場していると聞きます(この場合のハウスエッジは10%)。

 

実はタイトーが施した工夫はもう一つあって、回転盤上に「」のポケットを新設し、ここに球が落ちると「LOST OR JACKPOT GAME」となり「大量メダル獲得のチャンス」と言っています。しかし、実はワタシはこれについては覚えがありません。★のポケットが盤面にいくつあったのか、それによって発生する特別なゲームがどういうものであったのかは不明なため、エメラルドホールの正確なペイアウト率は算出できません。しかし、いずれにしてもトリプルゼロ・ルーレットのペイアウト率である92.3%よりも高くなるものではなかったであろうと推察します。

 

ペイアウト率はともかくとして、表面上はよくできたように見えるエメラルドホールでしたが、ボール射出時の回転盤の状況からゲームの結果がある程度予測できるという欠陥がありました。ワタシもこれで結構メダルを稼がせてもらったものですが、おそらくオペレーターから苦情が多く来たものと思われ、タイトーはかなり早い段階で対策を講じました。その対策とは、ベット締め切り後に盤速(回転盤の回転速度)を不規則に変化させるというものでした。

 

回転盤の制御をどうやっているのかはわかりませんが、回転開始と停止をソフト制御している以上、プログラム次第で盤速を制御することはできるはずです。そしてそれは、新たな機構を追加せず、プログラムの変更だけでできるので、コストの面では最善と言えるかもしれません。しかしワタシは、これはゲームを台無しにしてしまう愚策だと思いました。

 

ルーレットは出目を当てるゲームであり、プレイヤーは自分なりの根拠を以て出目を予想します。球投入のタイミングと盤速はその有力な根拠となるものですが、それが使えないとなれば、自分のラッキーナンバーとか、それこそ本当にデタラメ、無作為に選ぶ人でなければ楽しめません。ワタシはこれを機にエメラルドホールを遊ぶことはきっぱりとやめました。やるならもう少しバレにくいやり方はなかったものかと思います。

 

((3)カジノビーナスにつづく)

 

お詫び

前回記事のタイトルには「前半」と付け加えられていて、本記事はあたかも前・後半の2回シリーズであるかのように見えましたが、実際に書き進んでみると後半が長くなりすぎてしまうことに気づき、当初の目論見を見直して全4回のシリーズとしたいと思います。これに合わせて前回記事のタイトルは修正しています。ご高覧いただいている皆様には不手際をお詫び申し上げます。

ルーレット(Roulette)」は別名「カジノの女王」とも呼ばれる優雅な印象のギャンブルゲームで、日本でもよく知られていますが、ルーレットには回転盤に球を投入するという共通点を持つバリエーションも多数あります。

 

ゲーム性がわかりやすいので、コインマシン業界でも歴史上早い時期からルーレットをモチーフとするゲーム機が作られてきました。日本でもメダルゲームという概念が生じる以前からプライズ機(中には的中すると10円硬貨を払い出す、G機転用目的と思われるゲーム機もあった)としていろいろと作られています。

 

なにしろ非常にポピュラーなゲームなので語ろうと思えばネタは尽きないのですが、今回はタイトーが作ったルーレットゲームに絞って記録しておこうと思います。

 

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ワタシが把握しているタイトー初のルーレットゲームは、1980年に発売された「マジックルーレットMagic Rourette)」というメダルゲーム機です

 

▲マジックルーレットのフライヤー。上段にはタイトーの社内でメダルゲームを意味する用語「mi-mo (ミモ)」が謳われている(関連記事:「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(2))。

 

マジックルーレットは回転盤が回るのではなく、球がプレイフィールドの外周に沿って周回し、やがて勢いが弱まった球が、20分割された盤の何処かに落ちるというものでした。20のパーティションには0~19の番号が振られ、更にパーティションは赤色9ヵ所、黒色9ヵ所、緑色2ヵ所に色分けされています。

 

▲マジックルーレットの盤面の拡大図。盤面への数字の振り分け方に法則はないように見える。

 

遊び方は、数字1目賭けと、赤もしくは黒の色への賭け2種類しかありません。1目賭けが的中すると賭けたメダルは18倍、色の賭けが的中すると2倍となり、ペイアウト率は90%です。これは、この時代のゲーム機としては高い方だと思います。1目賭けのオッズを17倍、ペイアウト率を85%とすることもできたはずですが、色への賭けのオッズもこれに合わせようとすると1.89倍程度にすることになりますが、当時はオッズは整数倍が当然で小数点以下のオッズは現実的ではなかったのと、賭け方の違いでペイアウト率に差があると賭け控えが起きてインカムに悪影響を及ぼす可能性があることを恐れたのだと思います。

 

▲マジックルーレットの筐体の拡大図。わずかに見えるコンパネには、1目賭け20箇所分と、色への賭け2種のベットボタンが見える。

 

実を言うと、ワタシはこの「マジックルーレット」を実際に見た記憶がほとんどありません。1回くらいはどこかで見ているはずとは思うのですが、機械の動作が思い出せないのです。しかし、次に述べる「ニューマジックルーレットNew Magic Roulette)」は比較的良く覚えています。

 

▲ニューマジックルーレットのフライヤー。上段の「mi-mo」と記述していた部分は「MEDAL GAME」に変更されている。

 

ニューマジックルーレットは、前作が売り出された翌々年の1982年に発売されました。盤面は25分割となり、ポケットは5個増えました。そして旧作では1目賭けと色への賭けの2種類の賭け方しかなかったものが、新作ではこれらの他に、オリジナルのルーレットのダズン賭け(前半、中半、後半のいずれかへの賭け)およびコラム賭け(1列目、2列目、3列目のいずれかへの賭け)を独自にアレンジした賭け方が加わり、遊び方のバリエーションが増えたのみならず、メダルを99枚までクレジットしておけるクレジット機能が新たに加わりました。

 

▲ニューマジックルーレットの盤面とコンパネの拡大図。前作と比較すると、本来のルーレットにずいぶん近づいた印象を得る。

 

この新たな賭け方のペイアウト率は、ダズン賭けをアレンジした「1st 9」、「2nd 6」、「3rd 9」の3つと「赤/黒」への賭けはほぼ90%と前作に引き続き甘い(あくまでも当時の水準との比較の上で)ですが、72%と、お話にならないレベルの最低級です(2026年6月11日修正)。1目賭けとコラム賭けのアレンジ賭けはオペレーターがオッズを設定できるようになりました。設定は、1目賭けは19倍(76%)から23倍(92%)の5段階(デフォルトは22倍(88%))、コラムの変形賭けは4倍(64%)から6倍(96%)の3段階(デフォルトは5倍(80%))だったと推察します。

 

ところで、タイトルの「マジックルーレット」が「マジック」と名乗る所以は、球の打ち出し方にありました。旧作は前述の通り記憶にありませんが、「ニュー」の場合は、各ポケットの下にはボールを弾き出すピンがあり、これによって排出されたボールはプレイフィールドの外周に沿って勝手に勢いよく回り始めたのです。これは、外周の裏側に配したいくつもの電磁石を順次ON/OFFすることによってリニアモーターカーに似た原理で金属の球を引っ張っているものと推察されます。故障の多い機械動作部分を最小限に抑えるこの機構は画期的と言うべきです。

 

タイトーは「カラービンゴ(関連記事:カラービンゴ(タイトー)の発売年の謎)や「THE DIE IS CAST」(関連記事:メダルゲーム機「THE DIE IS CAST」(TAITO、1987?)の記憶)などにも見られるように、時々こういう一見地味だけど結構革新的なハイテクを見せてくれるのですが、肝心の機械は正当な評価を受ける前に消えてしまうことを繰り返しているのが残念です。

 

また、1980年代初頭という時代は、78年発売のスペースインベーダーに端を発するビデオゲームブームの影響で、メダルゲームの新製品開発の勢いが各社ともたいへん鈍くなった時代でもありました。そんな中でもタイトーはメダルゲームを作り続けていてくれたことには(それが残念ながら歴史上語り継がれるようなヒット作ではなかったとしても)大いに感謝したいものです。

 

(次回(2)エメラルド・ホールにつづく)

毎週日曜日の更新を目標としている拙ブログですが、今度の日曜日(5/31)は日本を離れていて更新ができないため、今のうちに軽いネタで更新しておこうと思います。何卒ご了承ください。

 

去る5月23日、山形県の山形ファミリーボウルというボウリング場で、「Glicoセブンティーンアイス杯」というボウリング競技のトーナメントが行われました。これは、その名の通り食品メーカーのグリコがメインスポンサーとなっている、プロアマ混合のトーナメントです。このトーナメントに、女子プロボウラーの根本遥(ねもと・はるか)選手が出場しました。

 

根本プロは昨年プロテストに合格したばかりの新鋭で、まだこれと言った実績はありませんが、その所属はなんとあのタイトーとなっています。

 

▲根本遥プロのプロフィール。JPBA(日本プロボウリング協会)の公式ページより。上から2段目の「所属」欄に「(株)タイトー」とある。

 

タイトーがボウリング事業なんてやっていたのかと思って調べると、「X-BOWL」というボウリング場を、少なくとも小田原仙台でオペレートしている事がわかりました。根本プロはその仙台に勤務しているようです。

 

なぜ「少なくとも」なんて留保をつけているかと言うと、実は東大阪にも同名のボウリング場があるのですが、ここはタイトーとは関係があるのかないのかどうにもよくわからないのです。

 

そして、「株式会社タイトー」の公式ページを調べても、トップページから「X-BOWL」の関連ページにたどり着く道筋が全く見えません。更に「taito x-bowl」のキーワードでググっても、小田原はヒットしますが仙台は出てこないなど、実にけしからんことになっています。タイトーはこの事態を猛省し、今後、自分らのボウリング事業に関する情報に簡単・手軽にアクセスできるよう改善すべきです。

 

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ところで、60年代半ばから70年代初頭までのボウリングブームは、日本のAM業界発展の原動力となりました。しかし、AM業界がボウリング競技の発展に貢献したアクションと言うと、90年代半ばにSNKが「SNKネオジオカップ」なるトーナメントを主催したくらいしか記憶にありません。SNKネオジオカップの優勝賞金1千万円はボウリングトーナメントの中でも破格で、当時すでに斜陽であったボウリング業界にとっては明るい材料だったはずですが、残念ながら1994年と1995年の2回しか行われませんでした。

 

その後SNKは経営が傾き、アルゼに買収されましたが、いろいろあって両者の関係は拗れに拗れ、泥沼の訴訟合戦に陥って、結局SNK(その時はSNKプレイモアを名乗っていた)はアルゼと袂を分かちました。この件についてはいずれ言及したいとかねがね思ってはいるのですが、問題が多岐にわたっていてなかなかまとめきれず、実現できていません。

 

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ともかく、タイトーの看板を背負う根本プロには今後大いに頑張っていただきたいものです。期待しています(根本プロのインスタグラムはこちら)。

 

セガが1970年に頒布した会社案内の紹介シリーズ最終回は、前回とはページ順が前後しますが、4~5ページ目の「セガの事業内容」です。

 

▲セガが1970年10月に頒布した会社案内の4ページ目と5ページ目。中央の「本社ショールーム」の画像が両ページに跨っている。

 

まず最も目に付くのは、両ページに跨る「本社ショールーム」の画像です。

 

▲本社ショールームの画像。

 

ショールーム画像の一番奥の中央右に見える「Derby Day」を、現在のSEGAの公式ウェブページ「SEGA ARCADE GAME HISTORY」ではその「稼働年月日」を「1971/12」としていますが、それが1970年10月に頒布された会社案内に見られるということはどういうことでしょうか。まさか1年以上塩漬けになっていた、なんてことは考えにくいのですが、セガは何を以て「1971/12」としているのでしょうか。

 

ページの冒頭では「セガの事業内容」として、直営のアミューズメントセンターの画像と、「セガの事業内容」が紹介されています。

 

▲セガ直営のアミューズメントセンター(注・ナカグロが抜けている)の画像2枚と、セガの事業内容の紹介。

 

当時のセガは、AM機の製造、販売、賃貸及び輸出入と、アミューズメント・センターやスポーツ・センターの経営をしていたとのことです。ここで言う「スポーツ・センター」が何を指しているのかわかりませんが、ひょっとしてボウリング場のことでしょうか。しかし、セガがボウリング場の経営をしていたという話は聞いたことがありません。

 

2枚の画像は、一つがゲームセンター、もう一つが「オリンピア・センター」のようです。

 

 

▲「セガの事業内容」に添付されている2枚の画像の拡大図。上がゲームセンター、下がオリンピア・センター。

 

以前、このゲームセンターの画像に見えるピンボール機の機種を特定したことがあったのですが、その記録が見当たりません。今すぐに分かるセガの1968年製のエレメカ機「Moto Polo」のマーキーや、Williamsのやはり1968年製のピンボール機「Ding Dong」が見えることから、1968年よりも古い時期のものではないことはわかります。

 

また、オリンピア・センターの画像に写る機種は二世代目の「ニュー・オリンピア」です。オリンピアは初代、ニュー・オリンピア、オリンピア・マークIIIとシリーズ化されていますが、私の手元にある資料で「マークIII」が登場する最も古いものは1971年5月に頒布された価格表で、これより古い資料はほとんどないため、その代替わりの年代は今ひとつ特定できていません。

 

続いて4ページ左上段の「営業部活動」と「販売部活動」の拡大画像です。

 

 

▲「営業部活動」(上)と、「販売部活動」(下)の拡大画像。

 

この説明によると、営業部としてはこの時点のセガは全国に31の直営アミューズメント・センターを経営し、販売部としては全国270有余のオペレーターに機器を納入しているそうです。当時これに対抗し得た企業は太東貿易(後のタイトー)くらいしかなかったはずで、セガが国内最大規模のAM関連企業だったとは言えましょう。しかし、1993年には全国のゲームセンターは8万7千軒あったそうですから、当時のAM産業がまだいかに小さいものであったかも窺われます。

 

次は「サービス活動」の画像です。

 

 

▲「サービス活動」の拡大画像。

 

ここでは全国58ヵ所の営業網、300台を超えるサービス・カーで、「完全・迅速なサービス」を提供していたと言っています。この時代よりもう少し古い話になりますが、セガの従業員の中には「車の運転ができるのでセガに入った」という人もいたという話を何かで聞いたか読んだかしたことがあります。当時のセガはそれだけ先進的な企業だったということなのでしょう。

 

さて、最後の5ページ目ですが、ここには当時のセガが扱うAM機16機種が「陳列」されています。

 

▲5ページ目の画像。セガが扱う16機種が掲載されている。

 

この16機種の中には、1970年に発売された、当時としては最新鋭の機種「JET ROCKET」(上から2段目、左から2番目)も見えますが、同時に1966年に発売された「Basketball」(最下段右から2番目)など古い機械も掲載されていて、当時の製品寿命の長さが窺われます。

 

16機種中、セガ製でないものとしては、ジュークボックス2機種、ピンボール機が3機種が掲げられています。ジュークボックスについては前回記事で触れているので、ここではピンボール3機種の拡大画像を掲載してこのシリーズを終えたいと思います。

 

 

 

▲5ページ目に掲載されているピンボール機3機種の拡大図。上から順に「Strike Zone (Williams, 1970)」、「Aces &Kings (Williams, 1970)」、「Bowl-O (Bally, 1970)」。

 

いずれも1970年発売の最新機種ですが、3機種中2機種がボウリングテーマというところが当時の日本のボウリングブームを偲ばせます。また、1970年という年代はまだスコア表示が4桁のピンボール機がずいぶん残っていたことが窺われます。

 

(このシリーズおわり)

セガが1970年に頒布した会社案内の紹介シリーズ3回目は、本来のページ順から行けば4~5ページ目となるのですが、諸般の事情によりそれは次回として、今回は次の6~7ページ目のディテールから先に述べます。

 

▲セガが1970年10月に頒布した会社案内の6ページ目(上)と7ページ目(下)。

 

この2ページでは、セガの現業部門と、セガの輸出入の相手先が紹介されています。以下に、上記各ページを部分ごとに拡大してディテールをご紹介しますが、この2ページは前回(2~3ページ目)と異なりレイアウトが若干不規則であるため、周囲の余白は極力削った上で適宜妥当と思われるパートに切り出して拡大します。

 

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6ページ目の冒頭には「製造部門」が挙がっています。「世界に誇る近代設備の工場で、セガ・マシンが、ライン毎に続々と生産されて行きます。」として、当時のセガの主力商品であったジュークボックスアミューズメント(つまりエレメカ機)、それにフリッパーと3種のAM機器の製造ライン画像が掲載されています。

 

▲「製造部門」の部分。3枚の画像がある。

 

▲ジュークボックス・ライン。少なくとも3種類の機種が見える。左列手前とその一つ奥は米国Rock-Ola社の「443」(1969)。更にその奥は同じくRock-Ola社の「442」(1969)。当時の価格で70万円から86万円もするものだった。右列は手前が左列手前と同じ「443」、その奥2台はRock-Ola社の「441」(1969)と思われる。

 

▲アミューズメント・ライン。ずらりと並ぶゲーム機の側面のアートワークはカーレースゲーム「Grand Prix」 (1969)に見えるが、コンパネが異なる上にアクセルが見当たらず、機種が特定できない謎のゲーム機になっている。

 

▲フリッパー・ライン。右列の手前4台は機種が特定できないが、その奥に続く機種はWilliams社の「4 Aces」(1970)なので、同年10月に頒布される会社案内に載ったという事はかなり最近撮影されたものらしいことがわかる。右列の最も奥にあるガンゲームは不明。左列の最も手前にあるのは側面のアートワークからWilliams社の「Daffie」(1968)と思われるが、ここに並ぶには少し古い気がする。中古品の整備だろうか。手前から4番目及び6番目に見える機械は機種特定ができそうでできなくて悔しい。

 

次の「研究開発部門」には2枚の画像があります。

 

 

▲研究開発部門の画像。

 

▲研究開発部門の画像のうち、研究開発部門の紹介文。

 

▲研究開発部門として掲載される画像2枚のうちの一つ、おそらくチームメンバーにこれから開発しようとしているゲーム機の電気回路の説明をしている図のように見える(なんとなくヤラセっぽいが)。

 

▲研究開発部門の画像の2つ目。製図台の上で製図でもしているのだろうか。この時代、AM産業は世間から注目されることは殆どなく、されたとしても賤業として蔑まれる存在だったように思う。でも中の人は高度な専門知識と技術で製品を開発していた。

 

続く「品質管理部門」では、自らが生産したゲーム機だけでなく、納入部品のチェックまで行うと言っています。

 

▲品質管理部門の画像。

 

最も手前には電気テスターでチェックをしていると思しき人、その後ろでは何やらメカをチェックしている人が見えますが、これらがどんな機械のどの機構部分なのかは見当がつきません。

 

6ページ目の最後は「パーツルーム」です。50万個の部品が確保されているそうです。

 

▲パーツルームの画像。

 

夥しい棚の一つ一つに、星の数ほどある種類ごとに分類されたネジやナット、その他パーツが入っているものと思われます。

 

次の7ページ目の左半分は、前ページからの各部門の紹介の続きです。その一つ目は「レコードルーム」です。

 

▲レコードルームの画像。

 

セガはジュークボックス本体だけでなく、中に入れるレコードも取り扱っていました。当時の芸能界にとってジュークボックスも重要な市場だったため、TVで良く見る芸能人がしばしばセガ詣でをしたそうです。また、公然の秘密として芸能界は反社組織と無視できないつながりがあったので、レコードの扱いについて不満を持ったその筋の人間がセガに怒鳴り込んでくるトラブルもあったと聞いています。

 

7ページ左半分二つ目は「電子計算機」です。

 

▲電子計算機の画像。

 

「電子計算機」は部門名ではないと思うのですがそれは措くとして、「電子計算機」とはいかにも時代を感じさせる呼称です。当時「コンピューター」という言葉も一般に認知されてはいましたが、いずれにしろコンピューターは一般市民にはまだ身近な存在ではなかった(関連記事:TRON(Bally/MIDWAY, 1982))せいか、どちらの言葉も並行して使われていました。

 

部門紹介の最後は「第二工場」です。

 

▲第二工場。

 

これがどこなのか、ちょっと見当が付きません。屋上に「SEGA」の看板が見える建物は、セガ羽田時代の別館(元は本社だったが、80年代前半に本社を環状八号線を挟んだ向かいに移し、旧本社は別館となった)のようにも見えますが、その隣にこれだけ大きな工場が建つだけのスペースなんてなかったように思います。

 

今回の最後は、8ページ目の右半分、「世界に飛躍するセガ・ブランド」です。

 

▲8ページ目の右半分、「世界に飛躍するセガ・ブランド」の画像。

 

世界地図上に、日本(セガ)と取引のある各国とを線で結んでいます。しかしよくよく見ると、取引のあるすべての国と線で結んでいるわけではないようです。例えばアフリカ大陸には線が1本伸びていますが、下段の「海外輸出先国」には、アフリカ大陸の国として「ガーナ」、「ナイジェリア」、「ザンビア」の三つが記載されています。まあ、もともとそれほど精密に作るつもりがあったわけではなかったと思いますが、もっと線を増やした方がハッタリとしては強くなったんじゃないかな、などと思いました。

 

(つづく・次回こそ4-5ページの予定)

今回は前回概要をご紹介した、セガが1970年に頒布した会社案内全8ページのうち、2ページ目と3ページ目のディテールをご紹介します。

 

▲セガが1970年10月に頒布した会社案内の2ページ目(上)と3ページ目(下)。

 

以下に、上記各ページを部分ごとに分割・拡大してディテールをご紹介します。なお、推奨サイズでなるべく大きく表示するために、周囲の余白は極力削り、また幅を640ピクセルに統一して、必要に応じて縦に二つ、もしくは三つに分割しています。

 

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まずは2ページ目のディテールとして、左半分の社長、デイビッド・ローゼン氏の挨拶の部分です。

 

▲2ページ目の左半分、ローゼン社長の挨拶。3分割。

 

この挨拶にある「外貨獲得に一役を」の言葉に時代を感じます。1970年の日本のGDPは米国に次ぐ世界2位に達していましたが、それでも「アメリカに追いつけ追い越せ」を合言葉に常に必死でした。コピー機の富士ゼロックス社は「モーレツからビューティフルへ」と、一見それに対するカウンターかとも思える宣伝文句を掲げましたが、結局はその必死さを「優雅に」支援すると言っているにすぎぬものでした。

 

実に全くどうでもいい余談ですが、富士ゼロックス社はこの少し後のTVCMに花輪和一さんのイラスト(怪人二十面相テーマ)を採用し、それを見たワタシは痺れ、以降花輪さんを追いかけるようになります(関連記事:まんがアックス第119号・「特集つげ義春」発売中!)。

 

ローゼン氏がいかにして日本とかかわりを持ち後にセガの社長となったかについては、過去記事「デイビッド・ローゼン伝:前編」、及びその後編で述べておりますので、よろしければご参照ください。

 

続く右半分(セガの沿革)には少し疑問符が付く部分があります。

 

▲2ページ目の右半分、セガの沿革。2分割。

 

ここでは、昭和26年(1951)に「サービス・ゲームズ株式会社」が設立されたことになっています。しかし、現在のセガはこの年を「レメアー&スチュワート」が設立された年としていて、見解が異なっています。実際のところ、「レメアー&スチュワート」が「サービス・ゲームズ(ジャパン)」となったのは昭和32年(1957)のはずです(関連記事:セガの歴史を調べていたら意外な話につながった話(1))。

 

レメアー&スチュワートもサービス・ゲームズ(ジャパン)も共にブロムリー・シンジケートの極東における構成員であり、その実態に大きな違いがあったわけではないので、両社を混同してもたいして実害はないかもしれません。しかし、歴史認識として正確を期する上ではやはり区別しておくべきと思います。

 

3ページ目の左半分には「セガの概要」が記載されています。

 

▲3ページ目の左半分、セガの概要。2分割。

 

ここでも、セガの創業年を「レメアー&スチュワート」の設立年である昭和26年(1951)としています。この認識は現在のセガの公式見解とは異なります(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1) まずは過去記事から概説)が、歴史的な経緯から解釈するなら正しいと思います。

 

前ページから続く「サービス・ゲームズ(ジャパン)」との混同が、単なる混同なのかそれとも解釈の相違なのか、あるいはもっと深い理由(例えば、権威付けのためになるべく古い歴史を持つことをアピールしたいがブロムリー・シンジケートがやらかした様々な不正と関連付けられる可能性を極力抑える表現を模索した結果、とか。考えすぎ?)があったのか、今となっては永遠に解明できない謎として残りました。

 

3ページ目の右半分には、海外及び国内の主な取引先が記載されています。

 

▲3ページ目の右半分、海外及び国内の主な取引先。2分割。

 

海外の取引先が先に来るのは、セガが国際的な企業であることをアピールする目的があるのでしょうか。1970年の日本は、今以上に海外コンプレックスが強かった時代だったように思います。「海外と取引がある」と言えば、結構なハッタリとなったことは想像に難くありません。

 

一方、国内の取引先として、東宝、松竹、テアトル東京など、興業系企業が筆頭に上がるところが、いかにもデイビッド・ローゼン氏が社長を務めているセガらしいです(関連記事:デイビッド・ローゼン伝 後編)。

 

1970年は、戦後の昭和の代表的な社会現象の一つ、ボウリングブームがたけなわの時期でもありました。日本全国に林立したボウリング場が、まだ発展途上だった日本のAM業界が飛躍的に発展する最大のきっかけとなり、セガもその恩恵を大いに受けたはずです。実はローゼン氏も過去に一度ボウリング業界に進出しようとしていた経歴があるのですが、比較的早い段階で手を引いています。この部分だけではボウリングとAMの繋がりを想像することができないのはそれが関係しているわけではないとは思いますが、少し残念に思います。

 

(つづく)

ワタシの手元に、1970年に頒布されたセガの会社案内があります。拙ブログではこれまでにもここからの引用を含む記事を投稿しているはずなのですが、この資料自体を記事にしたことがありません。そこで今回は、この1970年版セガ会社案内のご紹介をしていこうと思います。

 

▲セガが1970年10月に頒布した会社案内の表紙。

 

この会社案内は版型が少し特殊で、1ページがほぼ正方形です。二つ折り全8ページの構成で、表紙をめくって2ページ目には社長の挨拶とセガの沿革、次の3ページ目には会社概要と海外及び国内の主な取引先が列挙されています。

 

▲2ページ目と3ページ目には会社概要や取引先が述べられている。

 

続く4ページ目と5ページ目では、営業、販売、サービスの各活動内容と、当時の主力商品の画像が挙げられています。

 

▲セガの活動と当時の主力商品を掲示する4ページ目と5ページ目。

 

6ページ目と7ページ目では、研究開発部門、製造部門品質管理部門などの現業部門を紹介し、さらにセガが国際的な企業であることを誇らしげに紹介しています。

 

▲現業部門の紹介と欧米に展開するワールドワイドなビジネスを紹介する6ページ目と7ページ目。

 

最後の裏表紙では42か所にも及ぶ国内の営業所、出張所の住所が記載されています。東京を中心とする関東地方はもちろんのこと、北は北海道から南は九州まで全国を網羅しています。沖縄が含まれていないのは、この時点の沖縄はまだ日本ではなかったからです。

 

以上がセガの70年版会社案内の全容ですが、画像をブログのプラットフォームが推奨するサイズに縮小しているのでディテールが全然見えないとの不満も多かろうと思われます。そこで各写真ごとに拡大して掲載しようと思うのですが、画像が多く記事が長くなってしまうため、次回以降で順次ご紹介させていただきたいと思います。

 

(つづく)

本記事では、拙ブログの過去記事のうち、メダルゲームの歴史に関連する記事を、以下の2つの小分類に分けてまとめています。

 

(1)メダルゲームの歴史総合

(2)国産メダルゲーム機の歴史

 

なお、上記小分類以下の細分類では、見出しの冒頭に「★」を付けて示しています。

 

本記事は、今後更新されることがあります。最終更新日:2026年3月11日

 

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1)メダルゲームの歴史総合

 

 「メダルゲーム」の曙を見た記憶 2016.03.02

まだ「メダルゲーム」というジャンルが業界に確立する以前の1970年ころに渋谷のボウリング場で見たゲームファンタジア実験店舗の記憶。

 

 「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(1) 2017.01.14

メダルゲームが市場に定着した当初、「メダルゲーム」と言う語はまだできておらず、「カスタム方式」、「シグマ方式」、「メダルイン・メダルアウト方式」などと呼ばれていた。

 

 「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(2) 2017.01.14

「メダルゲーム」の語が現れたのはいつごろで、だれが言い出したのか。また、トークンを「メダル」と呼ぶ和製用法になったのはどういうわけか。

 

 「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(3) 2017.01.15

メダルゲームで使用されるメダルの種類と変遷など。

 

 プッシャーに関する思いつき話(1):プッシャーの起源の謎 2018.09.02

メダルゲームに欠かせないジャンル、コインプッシャーの起源に迫る。

 

 プッシャーに関する思いつき話(2):日本におけるクロンプトン 2018.09.09

コインプッシャーの代表的メーカー、英国のクロンプトン社と日本のディストリビューターの関係。

 

 プッシャーに関する思いつき話(3):クロンプトン社の歴史1・「ペニー・フォールズ」 誕生まで 2018.09.16

クロンプトンはいかにしてAM業界に参入し、コインプッシャーの発明に至ったか。英国のウェブサイト「PennyMachines.co.uk」の有料記事から抜粋その1/3。

 

 プッシャーに関する思いつき話(4):クロンプトン社の歴史2・1997年以降 2018.09.23

クロンプトン社の歴史について、英国のウェブサイト「PennyMachines.co.uk」の有料記事から抜粋その2/3。

 

 プッシャーに関する思いつき話(5):クロンプトン社の歴史3・「ペニー・フォールズ」 2018.09.29

クロンプトン社の歴史について、英国のウェブサイト「PennyMachines.co.uk」の有料記事から抜粋その3/3。

 

 プッシャーに関する思いつき話(6):日本のプッシャー 2018.09.30

日本におけるコインプッシャーのオペレーションと日本製プッシャーの変遷。

 

 「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた 2019.07.14

日本のAM市場に「メダルゲーム」はいかにして生まれ、いかに確立され、いかに発展していったか、1960年代後半の胎動期から、黎明期、発展期を経て1970年代末の停滞期までの経緯。

 

 1976年のバーリーの新製品騒動の話 2022.05.23

かつて、メダルゲーム機の最重要供給源だった米国Bally社(正確にはその日本法人バリー・ジャパン社)と日本のディストリビューターの間で生じたなにかしらのトラブルの話。

 

 【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり 2024.01.07

おそらく日本初のメダルゲーム機総合カタログとそこに掲載されている機種について。

 

 【補足】前回提示したいくつかの謎について続報 2024.01.14

前回記事「【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり」に掲載した機種について、ご高覧いただいた方々からの情報を追加。

 

2)メダルゲーム機の歴史

 

初期のメダルゲーム機

 初期の国産メダルゲーム機リスト(1) 1974 2022.08.28

1974年に発売された国産メダルゲーム機14機種のタイトルとジャンル、特徴など。

 

 初期の国産メダルゲーム機リスト(2) 1975 2022.09.06

1975年に発売された国産メダルゲーム機33機種のタイトルとジャンル、特徴など。

 

 初期の国産メダルゲーム機リスト(3) 1976 2022.09.11

1976年に発売された国産メダルゲーム機29機種のタイトルとジャンル、特徴など

 

 初期の国産メダルゲーム機リスト(4) 1977‐1978 2022.09.18

1977年~1978年に発売された国産メダルゲーム機18機種のタイトルとジャンル、特徴など。

 

 初の国産メダルゲーム機の記憶 2016.03.06

当初、メダルゲームで稼働するゲーム機のほとんどが海外製のスロットマシンだったが、やがて国内メーカーが独自に開発するようになった。その国産第一号機と思しき機種について。

 

 【衝撃の小ネタ!】国産初のメダルゲーム機、実はファロじゃない!? 2023.

5.14

従来、拙ブログではセガの「ファロ(FARO)」を国産第一号機としていたが、これが誤りであったことが判明。

 

 初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ 2023.5.21

拙ブログが国産メダルゲーム機第一号機と判断する「シルバーフォールズ」とはどういうゲームか。

 

★ビデオポーカーの歴史

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(1) 2017.02.19

北米のカジノ市場のみならず日本のメダルゲームでも重要なジャンルだったビデオポーカーの歴史をたどる。

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2) それ以前のビデオポーカー 2017.02.19

1970年代の早い段階に存在した、CRTではなくリアプロジェクターを使用したビデオポーカーと、その後のCRTに表示するビデオポーカーの比較。

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3) 米国内の動き 2017.02.25

「スロットマシン・キング」の異名を取る「ウィリアム・サイ・レッド」が世界最大のスロットマシンメーカーIGT社を設立する以前にビデオポーカーを開発したいきさつと、サイの個人的エピソード。プラスIGTとsigmaの奇妙で謎い関係が垣間見える米国の雑誌のエピソードの紹介。

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(4) 80年代の日本におけるビデオポーカーの暗黒時代 2017.03.05

1980年、ビデオポーカーは日本で「Gマシン」として蔓延し、社会的大問題となった

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(5) sigma、ネバダのゲーミング市場に参入 2017.03.12

本来オペレーターだったsigmaは独自にゲーム機を開発するようになり、さらに米国ネバダ州のメーカーライセンスを取得した。sigma製のビデオポーカー機はラスベガスでも広く普及した。

 

 ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(6) 90年代のビデオポーカーとsigmaの終焉 2017.03.20

ビデオポーカーの雄だったsigmaはその後も高解像度化などで日本のメダルゲームを牽引したが、2000年にARUZEに吸収合併され、その歴史を閉じた

 

★セガのマスビンゴシリーズ

 セガのマスビンゴゲーム(1)~(4) グループビンゴからワールドビンゴまで 2018.02.18

メダルゲームの重要な一ジャンルであるマスメダルゲーム機の「ビンゴ」のうち、セガが開発した初期の2機種について。

 

 セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975) 2018.02.25

セガ(と言うか日本初)のマスビンゴゲーム機で、のちの「ビンゴサーカス」の元ネタとなった「グループビンゴ」とはどういうゲームだったのか。

 

 セガのマスビンゴゲーム(3) ビンゴサーカス(Bingo Circus, 1989)とその後継機 2018.03.04

後継機が出るまで8年を要したロングラン機であり、台湾では日本から輸入したオリジナル機の倍のコピー機が出回ったと言われる大ヒット機種「ビンゴサーカス」とはどういうゲーム機だったのか。

 

 セガのマスビンゴゲーム(4) ビンゴパーティー(Bingo Party, 1992)とそのシリー  2018.03.11

セガのマスビンゴ機シリーズには、ビンゴサーカスの流れを汲む「サーカス系」の他に、もう一つ異なるゲーム性の「パーティー系」があった。

 

★セガ・FAROシリーズ

 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(1) NEW FAROとFARO II 2023.05.28

国産メダルゲーム第2号機である「ファロ(FARO)」の、以降に続くシリーズについて、「NEW FARO」と「FARO II」はどちらが古いのか。

 

 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(2) NEW FARO後のFAROその1 2023.06.04

「NEW FARO」以降のFAROについて。

 

 「ファロ(FARO)」シリーズの記録(3)  2023.06.11

FAROシリーズの最後となった「FARO JACK」について。ついでに筐体を使い回した「VEGAS STREET」にも言及。

 

★sigma「The Derby」シリーズ

 sigma「THE DERBY」シリーズの系譜メモ (と、GWに伴う更新スケジュール変更のお知ら 2019.09.28

sigmaのシグネチャータイトルである「THE DERBY」シリーズは、いつ、どんなバージョンが発売されたか。

 

★タイトーのメダルゲーム機

 初期の国産メダルゲーム機(8) タイトー1975 2019.07.28

 セガに次いで早い時期にメダルゲーム機に参入したタイトーの、ごく初期のメダルゲーム機について。

 

 カラービンゴ(タイトー)の発売年の謎

1975年の業界誌に掲載されたタイトーの広告に見える「カラービンゴ」は、しかしなぜか発売は1978年だった。

 

★ユニバーサルのメダルゲーム機

 初期の国産メダルゲーム機(6) ユニバーサル その2a 2018.04.27

タイトーと並んで早い時期にメダルゲーム機に参入したユニバーサル(後のアルゼ)の、1975年のメダルゲーム機について。

 

 初期の国産メダルゲーム機(7) ユニバーサル その2b 2018.05.13

タイトーと並んで早い時期にメダルゲーム機に参入したユニバーサルの、1976~7年のメダルゲーム機について。

 

★その他のメダルゲーム機

 【小ネタ】ビンゴ・ピンボールの謎ふたつ 2020.07.19

ピンボールのビンゴ機が日本に入ったのはいつ頃なのか。記事に寄せられたコメントにその答えと思しき書き込みが・・・

 

 1976年の業界誌から、謎のメダルゲーム機4つ 2023.02.12

1976年の業界誌に見える謎のメダルゲーム「ヤッジイ(YATZY)」、「ダブルオアナッシング(DOUBLE OR NOTHING)」他について。コメント欄やSNSでいただいた情報に価値あり。

 

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▲セガが1974年に頒布した、おそらく日本初のメダルゲームカタログの表紙。二つ折り4ページ仕様だった。

1969年以前で「ゲームセンター」の語が使用されている例の続きで、今回は三件あります。

 

一つ目は、「ああ野麦峠」で有名な山本茂実さんのエッセイ「庶民の常識」です。この第二章「都会に生きる人びと」に収録されている「銀座裏を行く」に、「ゲームセンター」の語が出てきます。「庶民の常識」が出版されたのは1956年ですが、「銀座裏を行く」自体は1952年4月に書かれたものです。

 

▲「庶民の常識」95ページに記述されている「ゲームセンター」の語。

 

ただしこれは「銀座ゲームセンター」と言うパチンコ店の店名であって、業種や業態を示す言葉ではありません。屋号に「ゲームセンター」を名乗る風俗7号(現在の4号)店は少なくとも1980年代までは時々見かけており、違和感があったものでしたが、それが実は1952年時点で既に用例があることがわかったのは収穫です。

 

二つ目は、共同通信社昭和34年1959年)に発行した資料集「日本現勢」の中にありました。「日本現勢」とは、政治、経済、産業、社会、文化などの年鑑のようなものです。

 

▲日本現勢(共同通信社)昭和34年版の表紙。

 

「日本現勢」は850ページを超える分厚い本ですが、民間企業の広告もたいへん多いです。そんな広告の一つ、仙台のナイトスポット(キャバレー)「ソシュウ」に、「姉妹店」として、「総合遊技場 ゲームセンター」の記述が見えます。

 

▲日本現勢・昭和34年版に掲載されている仙台のナイトスポット(キャバレー)「ソシュウ」の広告。「姉妹店」の最後に「総合遊戯場 ゲームセンター」の記述がある。

 

この情報を教えてくださった方は、「他の検索結果から推測するにパチンコ店だったようです」とおっしゃるのでワタシも検索してみたところ、AIの回答として、「仙台のナイトスポット「蘇州(ソシュウ)」は、かつて国分町や二日町エリア(現在のパチンコ店周辺)に存在していたキャバレー(1950年代〜70年代の資料に言及あり)です」とのことでした。

 

余談ですが、「ソシュウ」は体育館二つ分くらいの広さがあり、有名歌手がステージに上がりジャズバンドの生演奏で歌うなど、東北地方随一のグランドキャバレーだったそうです。

 

最後の三つ目は、ガゼット出版社1958年8月に出版した「ボクシング年鑑1958年度版」です。この情報も、先の「日本現勢」を教えてくださった方からいただきました。

 

▲ボクシング年鑑1958年度版(ガゼット出版社)の表紙。

 

このボクシング年鑑にも広告が多数掲載されており、そのうちの一つである「後楽園ゆうえんち」の広告に「室内ゲームセンター」が謳われています。

 

▲ボクシング年鑑1958年度版に掲載されている後楽園遊園地の広告。

 

冒頭に「可愛いおこさまとお出かけくだざい(ママ)」と謳い、他に遊具や遊戯施設が列挙されているところをみると、ここで言う「ゲームセンター」は、これまで上げてきた例のような風俗7号店ではなさそうです。

 

この「室内ゲームセンター」にはどんなゲームが設置されていたのかはわかりません。ただ、1958年の日本は、生活に必要の無いぜいたく品はまだ自由に輸入できなかった関連記事:デイビッド・ローゼン伝 後編)ので、「ゲームセンター」と聞いて我々が想起するような内容ではなかった可能性は高そうです。想像ですが、シューティングギャラリー(射的)や輪投げ、玉ころがし(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 188 玉ころがし」のご紹介)、鬼泣かせ等のいわゆる「カーニバルゲーム」のようなものが主で、これにまだ当時は少なかった国産コインマシンがいくらか置かれていたくらいだったのではないでしょうか。

 

また、この「ゲームセンター」が後楽園ゆうえんちの付帯施設である点にも留意しておくべきかもしれません。ここにアクセスできるのは20円の入場料を支払った客に限られるため、「ゲームセンター」との呼称が広まりにくかったことも考えられます。

 

さて、皆さまのおかげで確認できた、1969年以前に「ゲームセンター」と言う語を使っていた4例を、年代順に整理します。

 

①   1952年 映画「生きる」の作中で映りこむ。内容は不明。

②   1952年 山本茂実さんのエッセイ「庶民の常識」に、パチンコ店の屋号「銀座ゲームセンター」の記述あり。

③   1958年 ボクシング年鑑1958年版掲載の「後楽園ゆうえんち」の広告に「屋内ゲームセンター」として併記。設置機種は不明だが風俗営業店(パチンコ)ではなさそう。

④   1959年 日本現勢・昭和34年版掲載のキャバレー「ソシュウ」の広告に併記。これもパチンコ店と思われる。

 

こうしてみると、「ゲームセンター」の呼称がアミューズメントとパチンコの両方の意味で使われていた時期があったらしいことは興味深いですが、それが現代の用法に定着したのがいつであるかは結局判明しませんでした。どっとはらい。

 

(おわり)

前回の記事「ゲームセンターはいつゲームセンターになったのか」では、60年代前半を描いた漫画でゲームアーケードを「ガンコーナー」と呼んでいたことから、では「ゲームセンター」と言う和製英語で呼ばれるようになったのはいつ頃なのかを探求しようとしました。しかし、少なくとも1969年時点でAM業界が「ゲームセンター」の語を使用しているところまでは判明したものの、それ以前については資料が乏しく殆ど何もわからないという結果に終わりました。

 

この、社会的意義がいかほどあるかも怪しい謎を勝手に設定しておきながら腰砕けとなった不出来な記事はしかし、昨年6月にGooブログからこちらに引っ越して以来の最大のアクセス数を記録し、またSNSでのブログ更新のお知らせにも普段の10倍以上もの「リポスト」と「いいね」をいただきました。一体何がこれほど多くの皆さんに訴求したのかまるで見当がつかないのですが、ありがたいことです。

 

ところで、SNSでの反応の中に、1969年以前に「ゲームセンター」の語が登場する貴重な例を教えてくださる方が何人かいらっしゃいましたので、前回記事の補足として、今回と次回の2回に分けてその例を皆さんと共有しておきたいと思います。

 

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まず一つ目は、黒澤明監督の映画「生きる(1952)」に、「ゲームセンター」を掲げる施設が映っているというものです。名作の誉れ高いこの作品をワタシは迂闊にもまだ観ておりません。つい先日、NHKで放映することを知り録画予約をしたつもりだったのに失敗して見逃してしまいました。

 

これを教えてくださった方は、ネタバレになるといけないという事で詳細は伏せられましたが、その「ゲームセンター」の中身の詳細はわからないものの、パチンコ店、もしくは射的の店だったであろうことは推察できるとの事でした。

 

戦時中は娯楽を不謹慎とする空気が蔓延した(関連記事:「アタミセンター」の謎解明に繋がるか? 「タイガー娯楽」(1))のみならず、庶民は持っている金属を鍋釜まで供出させられたはずですが、パチンコ台などの娯楽機はどういう訳かいくらか残り、終戦直後からいろいろな形で営業が再開されていたようです。

 

▲1946年に名古屋の露天商組合が興した「復興祭り」を謳う商店街。右下に「パチンコ」の文字が見える。

 

また、やはり黒沢作品の一つで「生きる」より早い1949年に公開された「野良犬」には、戦後の闇市における射的やパチンコを遊ばせる店が登場します。拙ブログでお馴染みのカナダのCaitlynは、自身のブログでその場面を画像付きで掲載しているので、そのうちの一つをご紹介しておきます。

 

▲Caitlynのブログに掲載されている「野良犬」のシーンの一つ。「皆様の遊技場」の看板があり、そのすぐ左にはピンボール機も見える。

 

Caitlynのこの記事「exploring the arcade in 野良犬 (1949) aka Nora inu (Stray Dog)」には、この画像以外にもピンボール機、射的、パチンコ台などが映るシーンがあり、また面白い考察もあるので、ぜひともご参照いただければと思います。

 

Caitlynは他にも終戦から間もない時期に製作された、遊技施設が映る映画の記事を書いていますので、この機会にそちらもご参照ください。

 

exploring the arcade in 私刑(リンチ) (1949) aka Rinchi

 

Exploring the arcade in 大当りパチンコ娘 (1952) aka Oatari Pachinko Musume aka Jackpot Pachinko Girl

 

しかし残念ながら、これらで見られる画像には「ゲームセンター」の文字が出てきてくれません。ここはやはりどうにかして「生きる」を見ないといけないようです。

 

(次回につづく)