前回の更新時にウカツにも告知し忘れていましたが、この28日(日)の更新はお休みとさせていただきます。

ついでに年明け4日(日)もお休みし、次回更新は1月11(日)を予定しております。、

 

もし、拙ブログを楽しみにされている方がいらっしゃいましたらお詫び申し上げます。

 

ついでに近況を報告いたしますと、ワタシはこの週末、女房とともに大阪に来ており、現地の友人に案内されて、例えばこんなところをフラフラしていたりします。

 

▲かつて日本が夢と希望に満ちていた時代を象徴する建造物

 

実はワタシは1970年にもこの地を踏んでいるのですが、その時はあまりの混雑でこの塔に入ることはかないませんでした。あれから55年の歳月を経て、このたびやっと本懐を遂げることができて、感無量です。

 

以上、お休みのお知らせと近況報告でした。

◆本日の予定

・日中は完全にフリーなので、一人でPinball Hall of FamePHoF)に行って堪能しまくるつもり。

 

・夜、初日に合流した元同僚及びその現同僚二人を連れて、初めてのステーキレストラン「Montana Meat Co.」に行く。

 

以上。

 

*****************

・本日のメインイベントであるPHoF11時にオープンするので、普段より遅目の10時に起床。朝ごはんはコロナ禍以降恒例のスーパーで買ったパン、ソーセージ、チーズ、みかんとチョコレートミルク。以前のラスベガスでは部屋に冷蔵庫がないのが普通(「デラックス」と呼ぶことが多いスタンダードルームの場合)だったが、コロナ禍後は冷蔵庫を備えるホテルが増えた。このような変化はありがたい。

 

▲本日の朝ごはん。いつものメニュー。

 

・PHoFに到着したのは昼12時前。平日だというのに駐車場にはすでに多くの車が停まっている。今回は単にピンボールを遊ぶだけでなく、後々ブログで使えるかもしれない素材写真を撮ることも大きな目的としていた。

 

これまでも筐体全体やプレイフィールド、バックグラスの写真はさんざん記録しているが、それらはピンボールの基本的な構成要素を見る資料としては使いづらく、「ああ、あの部分をもっと細かく撮っておけばよかった」と後悔することが多々あった、その反省による。

 

ただ、撮影機材はスマホのみなので画像に傾きや歪みが出るし、照明や電飾がガラスに映り込んだり影ができたりなどで欲しい部分が明瞭に撮れないことも多い。その場で画像の確認はするが、大きなPCの画面で見て初めて気づく瑕疵もある。それでもなんとか工夫しながら撮影に精を出した。

 

▲スピナー。上の、天井の照明の映り込みが邪魔。また、スピナー下の影も邪魔。

 

▲オールドスタイルのロールオーバーボタン。ガラスの映り込みのため全体の明瞭さに欠ける。また右下の影が邪魔。

 

▲パッシブ・バンパーと6個のフリッパーで構成されているピンボール、「Lady Robin Hood(Gottlieb、 1947)のプレイフィールド。

 

▲パッシブ・バンパー、ポップ・バンパー、それにトラップ・ホール。PHoFに設置されている個体にはなぜかバックボックスが無いので機種の特定に苦労したが、帰国後に調べたところGottliebの「Crossroads」(1952)であることが判明した。

 

▲、ロールオーバーレーンにボタンスイッチが使われている例。機種はBallyの「RockMakers」(1968)。

 

*****************

◆本日の夕ごはん

・初日に合流した元同僚及びその現同僚と、これまでまだ行ったことがないステーキレストラン「Montana Meat Co.」へ。ラスベガス在住の日系の友人がしばしば利用すると言うので、この機会に行ってみた。店内に入ると右手はビデオポーカーを設置したバー、左手がステーキレストランとなっている。ワタシは「モンタナ・リブアイ20オンス($33.99)」を注文。

 

▲モンタナ・リブアイ20オンス(1ポンド4オンス=約580g)。下はその断面を示す。注文通りばっちりのミディアムレア。

 

この店のステーキメニューは10オンスだの12オンスだのが多く、1ポンドのメニューがないためこの選択となった。だが物価高のラスベガスでこの値段なら、ストリップエリアの高級を標榜するカジノのカフェよりずっと満足できる。場所はザ・ストリップの西を南北に走るDurango通り沿いにあり、この5km ほど北には一昨年に新築オープンしたステーションカジノ系列の三つ目の旗艦店「Durango &Resort」がある。

 

*****************

◆本日のゲーム

 

・クワッズが2回出ただけで全くツイてない。せめてもの救いは、2回目のクワッズは最後の5クレジットで出てくれたことか。

 

▲1回目(上)はデルトクワッズ、2回目はその25分後に出現した1ペアからの発展クワッズ。どちらも7のクワッズ+5であるが、だからと言って何かあるわけではないのがなんとなく悔しい気もする。

 

(つづく)

今日は、昨日とは異なる元同僚とその仲間二人の四人で、今回の巡礼のメインイベントであるG2Eを見物に行き、その後一緒にヘンダーソンで食事したついでに周辺のカジノに行く予定。

 

元同僚のグループも車があるので、今回はワタシの車は出さず、便乗させてもらう。元同僚たち3人とは、彼らが宿泊している「4クィーンズ」で朝9時に待ち合わせしていたが、少し早く到着したので一昨年に4クィーンズで唯一発見していたフルペイ25¢DDB(10/6)でもやって待っていようと思ったが、その台はよくある「9/6」に変更されてしまっていた。ちっ、気づかれたか。4クィーンズの看板ともいうべきフルペイの$1DBも1台しかなくなっていた。ただし25¢は3台くらいあった。やはりダウンタウンから良いVPが減少している

 

*****************

・元同僚たちと落ち合い、G2E会場に向かう。会場のパラッソは駐車場が有料である上にコンベンション終了時には駐車場から出る時にひどい渋滞になるので、向かいにあるtiに車を停める。ここなら駐車場代も無料だ。

 

・G2Eの入場証は、通例ならば前日に入手しておくのだが、今回はその前日に現地入りしているので、ショウ当日の手続きとなった。列は長く、うんざりしかけたが、登録を行うキヨスクがたくさんあり、案外すんなり手続きを終えることができた。

・ショウは5時で閉まるが、終わりが近くなると退場者が多く大混雑するので、早めの3時半に待ち合わせすることにして、一旦散開する。

 

*****************

・G2Eへの期待の8割9割は、広義のスロットマシンの新製品を見ることにある。スロットマシンのメーカーは世界中にあるが、ゲームのスタイルは北米/豪州と欧州では少し異なるところがあり、ワタシの興味は主に北米(の、さらに言えばクラスIII=商業カジノで稼働するゲーム)なので、注目するメーカーはIGT、ARISTOCRAT、LIGHT AND WONDERの「御三家」と、KONAMI、EVERI、BLUBERI GAMING、ARUZE GAMING GLOBAL等米国の中堅メーカーが主となる。しかし、一昨年はARISTOCRATが、昨年はARISTOCRAT、IGT、KONAMIが、そして今年は昨年の三社に加えてIGTに買収され同じブースに吸収されたEVERIまでもがクローズド展示となり、バイヤーかカジノビジネス関係者以外の来場者は入場できなくなった。ショウ期間は3日あり、最終日は一般公開されるとのうわさも聞いたので再来してみたが、やはり入れなかった。

 

▲クローズド展示のIGT、ARISTOCRAT、それにKONAMIのブース。IGTのブースには「EVERI」の名も掲げられた。

 

これじゃG2Eに来る意味が殆どないじゃん!

 

もう来年は来なくてもいいかとさえ思われるくらい腹立たしいことだが、そうは言ってもまだ見ておくべきものが全く無いこともないので来られるものなら来なくてはならないであろう。

 

◆SEGA SAMMY CREATION (SSC)

▲SSCはオンラインゲーミングの会社を買収したこともあり、今回は前回以前の2倍のスペースを取っての出展となった。

 

・大手メーカーが軒並みクローズド展示とした中で、SEGA SAMMY CREATION(SSC)は今回の数少ないハイライトの一つになった。昨年発表された「Rail Road Riches」は新興のマイナーメーカーであるにも拘らず、その普及率は目覚ましい上に客付きも良く、全く快挙と言える大ヒット作となった。今年はその続編を発表しており、コンパネのSPINボタンのトップをソフトなパッド仕様とする細かい工夫が施され、意気込みを感じた。

 

▲Rail Load Richesの新バージョンと新筐体。

 

・それと並び、これから発売が予定される新製品として「ボナンザ・ブラザーズ (Bonanza Brothers)」が展示されていた。ビデオゲームをテーマにしたスロットマシンは、これまでにもビデオゲームの歴史に名を遺すビッグネームがいくつもあったが、ボナンザ・ブラザーズはそれらほどの知名度もなく、意図がよくわからない。悪いことに、過去のビデオゲームテーマの機械はどれもたいして普及せず(普及どころか製品化されずに終わった物もある)、寿命も短かったことを思うと、ひょっとして、知られていないからこそ新規キャラとして通用すると踏んだのだろうか。

 

▲SSCが出展したボナンザ・ブラザーズ。ゲームがウケければキャラクターは何でもいいとは言えるが、果たして結果は?

 

◆LIGHT AND WONDER

▲LIGHT AND WONDERのブース。今回、大手三社の中で唯一オープン展示だった。

 

・大手三社の中で唯一オープン展示としていたところは褒めたい。ビデオスロットはやはり今の主流のミステリー・ボーナスを主とするものが多いが、旧Ballyや旧WMSの血を受け継ぐタイトルも残っており、今後の推しとして行きたい。

 

・LIGHT AND WONDERはかねてよりテーブルゲームも提案してきているが、今回は2個のダイスを使用する「Path to Victory」と言う名の、クラップスによく似たゲームテーブルを出展していた。概要は、2個のダイスを振り、2個のダイスの目の差の数だけテーブル上のマーカーを移動させ、マーカーが一定以上まで進むか、ぞろ目が出たところでゲームは終了する。賭け目によっては80倍と言う高配当もある。ペイアウト率は良くなさそうだが、カジノに設置されれば一回くらいはやってみたいかもしれない。

 

▲「Path to Victory」のテーブル。

 

◆ARUZE GAMING GLOBAL

▲ARUZE GAMING GLOBALのブース。買収された後は出店規模が小さくなった。

 

・アルゼが買収されてからどう変わるかと観察を続けてきたARUZE GAMING GLOBALだが、筐体のデザインセンスには今もパチンコ、パチスロ台の影響が残っているように思える。今回も「MUSO(無双)」と名付けた筐体を出展していた。

 

▲アルゼのMUSO(無双)筐体。日本語(漢字)がクールだった時代はもう過去の事だと思うのだが・・・

 

◆その他

・昨年は出展していなかった、日本のトランプメーカー「エンゼル・トランプ」が親会社となっている、カードやチップなどカジノイクイップメントのメーカーのグループ「GPI」は、今年は出展していた。いろいろお話を伺って、サンプルのチップやダイスの見本をいただいた。

▲GPIのブース。

 

・マカオに本拠地を置く「LT Game」が、10年位前にIGTのブースで出展されていた「ロボットディーラー」を出展していた。個人的にはギミックで驚かせようとするゲーミング機はコケると思っているのだが、日本でも「LT Game Japan」が頑張っているので、これからも発展していっていただきたい。

 

▲LT Gameが出展したロボットディーラー。10年位前にIGTのブースで出展された時はそこそこに注目を集めていたが、今回はほとんど顧みられていなかったように思う。

 

・他社のIPを使用したゲームはたくさんあるが、盤ゲームの「モノポリー」は、長くWMS(現LIGHT AND WONDER)がおさえて数々のシリーズ機種を出しており、「モノポリーと言えばWMS」だった。しかし今回はARISTOCRATが版権を取ったらしく、会場外の広告看板でこの事実を知った。ARISTOCRATはクローズド展示だったのでその機械を見ることはできなかった。

 

▲ARISTOCRATが掲示した「モノポリー」のスロットマシンの看板。

 

◆本日の夕ごはん

・ヘンダーソンのBBQレストラン、「Lucille’s」で、同行した3人とともにビーフリブをいただく。昨年10月と今年の3月に続いて3回連続の来店。ラスベガスに来たら一度は寄りたい店の一つなのでこうなる。物価高の昨今において、このレベルが飲み物も込みで$50未満で済むのもありがたい。

 

▲ビーフの大きなあばら骨4本+サイド2種。これだけで結構腹いっぱいになれる。

 

◆本日のゲーム

・夕食後、ヘンダーソンのステーション系列のカジノ「グリーン・バレー・ランチ」を視察。同行者3人がカジノを見て回っている間、ワタシはステーション系列のカジノでよく見かけるフルペイのVPに興じる。今回は25¢DDBをやっていたところ、あっさり大当たりが出てくれた。ありがたいが、ステーション系列のVPはディール/ドローのスピードが速すぎる上に調整機能も切られていて少しつまらない。

 

▲DDBで4A+ローカード。これで$500になる。いつもこうだといいのに。

 

(つづく)

しまった。SEGASAの歴史の連載が長引くうちに、すっかり10月の聖地巡礼の記録を忘れてました。

 

毎週日曜更新を目指す拙ブログですが、今月の最終日曜日(12月28日)は旅行に出かけて不在のため更新をお休みする予定なので、今年は今回を含んであと3回しか更新できず、年内に完結することができません。年をまたいでの記録となりますが、どうぞご了承ください。

 

*****************

・今回の旅程は10月6日(月)出発、11日(土)現地発、13日(月)早朝に日本着の5泊8日。通例だと全日程は現地泊数+2日となるのだが、今回は飛行機代がやたら高く、少しでも安くなることを優先したら、帰りの便が夜7時発、ロサンゼルス経由で日本帰着は翌々日の早朝5時というスケジュールになった。それでも今回の飛行機代は、ワタシのこれまでの巡礼で最も高いものとなってしまった。

 

・5泊のうち最初の3泊はダウンタウンのメインストリート・ステーション。ここは1987年から1990年まで、「メダルゲーム」の発案者であるsigmaの真鍋勝紀氏が「Park Hotel and Casino」として運営していたところだ。残る2泊はストリップ西のオーリーンズ。どちらもコンプで取ることができた。コンプだとリゾートフィーがかからないので、これだけで$200近くの費用圧縮になる。円安の昨今においては特にありがたい。

 

・巡礼の最大の目的は世界のゲーミング業界の見本市「Grobal Gaming Expo(G2E)」の見物だが、かつての同僚グループをアテンドすることにもなっている。

 

*****************

・出発当日。昼過ぎに成田空港到着。まずwifi業者のロッカーから現地で使うwifi機器を受け取る。飛行機のチェックインはオンラインで済ませているので、キヨスクで預け荷物のタグを印刷してカウンターに渡す。最近は機内持ち込み荷物のリチウムイオン電池は頭上の荷物入れには入れられなくなったと聞いていたので確認してみたが、必ずしもそんなことはないとのことだった。

 

・さっさとセキュリティを通ってエアサイドに入る。出国手続きではもうパスポートにスタンプを捺すこともなくなり、手続きが早く簡単にはなったのはいいが、少し寂しい気がする。

 

・ラウンジでごはんをいただく。朝からろくなものを食べていなかったのでありがたい。マイル修行の甲斐があったというものだ。酒を飲む習慣はないが、せっかくなのでビールも一杯だけいただき、あとはコーヒーで出発前の時間をくつろぐ。

 

 

▲ラウンジはANA。成田のラウンジはJAL系の方が高評価のようだが、隣の芝生と言うものに違いない。

 

・飛行機の中ではほとんど寝られず。映画もろくなものが無く、一つか二つチラ見したような気もするが覚えていない。あとはタブレットでひたすらマンガを読んで過ごす。およそ10時間のフライトで2回出る機内食は全ていただく。ANAだけあって、UAよりもずっとマシだ(と言うか、UAがひどいのか)。

 

 

▲今回の機内食。上は離陸直後のごはん。赤いソースの下はハンバーグ。小鉢類が案外おいしい。下がロサンゼルス着陸前に出て来る朝食。魚が出るのはやはり日系だからか。

 

・昼前にロサンゼルス到着。およそ3時間の乗り継ぎの間、ユナイテッドラウンジで朝ごはんとしパン、チーズといくらかのフルーツをいただく。ここにはたいした飲食物はない。

 

・ラスベガス到着。飛行機の搭乗券はもうスマホで済ませる時代だが、逆に言えばスマホをなくしたりバッテリーが切れたりしたら人生詰むと思うと少し恐い。

 

・空港からレンタカーセンターへの送迎バスに乗る。今回は大の男5人が乗ることが多いので、少し大きめの車を借りた。今日はこれからこの車で、すでにラスベガス入りしてフラミンゴに宿泊しているかつての同僚を含む4人のダウンタウン視察をアテンドし、夕食を共にすることになっている。

 

▲今回借りた車。たいていは「あのエリアの好きなの持ってけ」という感じなのだが、今回は「グリッド110の車」と指定された。

 

・レンタカーセンターを出る前に、フラミンゴで待つ元同僚に、車の画像とともにこれからそちらに向かうと連絡する。ストリップエリアのホテルは、車でピックアップできる場所がわかりにくいところが多い。事前にGoogleマップで調べておいてアテにしていたストリップ側の入り口がなぜかバリケードで閉鎖されていて、裏通りから入らざるを得なくなる。裏通りに入るには、ストリップをそのまま南下して、リンク、ハラーズ、ヴィニーシャンの前を素通りしたところで右折し、裏通りのコーヴァル通りで右折するのだが、ただでさえそこそこ距離がある上に信号が多く、フラミンゴに到着するまでに10分ほども要した。やはりストリップは車では近づきたくない。

 

・フラミンゴの車寄せ付近はタクシー、ウーバー、一般の車で渋滞の様相を呈しているが、むしろそれが幸いしてゆっくりと元同僚とその現同僚3人を拾い上げることができた。周辺道路の広さや車寄せの構造は昔から大して変わっておらず、現状に追い付いていないのだろう。

 

・行先はワタシが宿泊するダウンタウンのメインストリート・ステーション。道中でスーパーに寄って水や食料を買いこむ。元同僚はラスベガスに住んでいたこともあるので現地の様子はよく承知しているが、その現同僚3人は初めてのラスベガスとのことで、大きなスーパーでの食料品の買い出しを楽しんでいたようだ。確かに外国のスーパーの、特に食料品売り場はいつも楽しい。

 

・今日の夕食は、元同僚とメインストリート・ステーションの「777(トリプルセブン)」にしようと事前に決めていた。ワタシがホテルにチェックインしている間に先に店に入っていてもらおうとしたが、部屋に荷物を置いて店の前に来るとまだ入り口で入店を待たされているところだった。

 

 

・席に着き、元同僚の現同僚たちにここのお勧めは何かと聞かれたので、ここに来たらビールの飲み比べができるサンプラーを注文しない手はないと答える。

 

▲777(トリプルセブン)のビールのサンプラー。以前は円形だったラックは、今は直線になっている。

 

▲みんなでシェアしようと注文したバッファロー・ウィング。

 

▲ワタシが注文したナントカ(忘れた)バーガー。バーガーというがパンは食パン。後で気づいたが、期間限定の特別メニューだったらしい。この画像ではわかりづらいが、ボリュームもあり、おいしい。次回もあれば注文してもいいと思える。

 

・初ラスベガスの3人には「777」はウケたようだ。良かった。食後、元同僚の一団はダウンタウンを見て、帰りはタクシーで帰るというのでそこで別れる。彼らとは明後日の夕食も一緒に行くことになっている。

 

・元同僚たちと別れ、ワタシはメインストリート・ステーションのカジノで軽く遊ぶことにする。ここはコロナ禍の時に長く店を閉めており、やっと営業再開したと思ったら、以前と同じ稼働にはならなかった。テーブルゲームは週末のみのオープンだし、かなりの数スロットマシンやビデオポーカーを撤去し、代わりにETG(Electric Table Game)を多く導入した。777も24時間営業ではなくなり、おまけに休業日まで設定された。ビデオポーカーでクワッズ以上が出るともらえたスクラッチくじが電子化されたのはいいが、マルチプレイ機は対象外となってしまって、以前の「マイ・フェイバリット」の姿から大きく変わってしまった。

 

・ビデオポーカーのマルチプレイ機という選択肢は失ったが、ならばと、シングルプレイで分散の大きいDDBで遊ぶことにするが、あまりツイているとは言えず、苦労したあげくボーナスの付かない平クワッズが4回出たが、収支は増えない。投入した何枚目かの$20札の最後の5クレジットのゲームで、4ロイヤルがディールされた。

 

▲ディールされた4ロイヤル。フラッシュができている。「CREDIT」の表示は「0」。

 

4ロイヤルがディールされる時はたいてい何かしらの役が成立していることが多いように思う。今回は最後のクレジットでのディールなのでついついフラッシュのまま確定させたくなるが、正しい選択肢はあくまでもロイヤル狙いなので、泣き泣きハートの5を捨ててドローしたところ。

 

▲4ロイヤルを残してドローした結果。フラッシュは無役に降格した。

 

寝る。明日は今日とは異なる別の元同僚3人と、この巡礼のメインイベントであるG2Eの見物だ。

 

(つづく)

前回に引き続き「パチンコ・パチスロ産業フェア2002(以下、PPフェア)で公開されていた「パチンコのルーツを探る」と言うパネル展示から、今回は戦前の昭和7年のパチンコ事情を記録していきます。

 

パチンコはコリントゲームから発展した」という説をちょいちょい聞きますが、「ものと人間の文化史186 パチンコ」(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介)によれば、コリントゲームが日本で発売されたのは昭和7年(1932年)のことで、パチンコはと言うと、それ以前の昭和4年(1929年)に既にパチンコに関する特許が出願されている事実から、明らかに誤りです。

 

ついでに言うと、「コリントゲームの名の由来は発売元だった小林脳行の『小林』を『コリン』と読んだ」という風説も誤りだそうです。小林脳行がコリントゲームを扱っていたことは事実のようですが、日本で流行ったコリントゲームの元ネタは昭和7年(1932年)にその特許が日本に上陸した英国製の「Corinthian 10 (コリンシアン10)」と言うゲームです。小林脳行は、この商品名と盤面に立つ釘から古代ギリシャの建築様式であるコリント式を連想して、そのコリント式を象った商標を用いた「コリント商会」として、昭和8年にコリントゲームの実用新案を出願しています。この辺の詳細は例によって原典の「ものと人間の文化史186 パチンコ」をご参照ください。第5章と第7章にこの辺の詳しい話が記述されています。

 

さて、長々とコリントゲームについて述べましたが、コリントゲームが発売された昭和7年時点のパチンコ事情が窺い知れる、「中川式遊技機製作所」と題する写真が、PPフェアの展示にありました。

 

昭和7年時点の「中川式遊技機製作所」の様子。ごく小規模なマニュファクチュアで、7人の男性が手分けしてパチンコ機を組み立てている様子が見える。

 

写真の説明には、

 

富貴屋、OM商会など大阪が独占していた遊技機づくりを下請けしていた中川清氏が独立、続いた才田商会とともに金沢メーカー時代を築いた。

 

とあります。説明文中の「OM商会」はパチンコの歴史を語る文中でよく見かける名前ですが、実は「オーエヌ商会」が正しいようです。それはさておき、この写真に写る7人の男性のうち、左の二人はレールを作っているようです。中央の眼鏡の男性は曲尺を当てて板状の何かを測っています。その右の男性は今まさにレールを盤面に取り付けているように見えます。その上のカメラ目線の男性と、手前の咥えたばこの男性は、手にペンチのような工具を持って組み立て作業をしているようです。最も右の鉢巻きの男性は、立てたパチンコ台の裏側に何かを施しているようです。戦前のこの時代、パチンコ台は、このようなマニュファクチュアで製造されていたことがわかります。

 

つまるところ、コリントゲームが日本で発売された時点で、既にパチンコは一つの産業として確立されていたことがこの写真からもわかります。「パチンコ=コリントゲーム起源説」は、釘が打たれた盤面に玉を投入するという共通点のみで結びつけられた、単なる「風説」であるようです。

 

(つづく)

たいていのピンボール機のプレイフィールドには「ロールオーバーRollover)」があります。省略せずに言えば「ロールオーバー・スイッチ」であり、その名の通りボールがその上を転がっていったことを検知するスイッチです。

 

その形状は大きく分けて針金ボタン型の二通りがあります。近年はプレイフィールド下に埋め込まれている非接触型のロールオーバー・スイッチも見られますが、多用はされていません。

 

今回はこの二つのロールオーバー・スイッチのうち、ボタン型のスイッチについて語りたいのですが、その前にまず、針金のロールオーバー・スイッチについてちゃちゃっと片付けておこうと思います。

 

◆針金のロールオーバー・スイッチ

 

針金のスイッチは、「ロールオーバー・レーン(または単にレーン)」と呼ばれるボールの通り道に取り付けられます。スイッチとなる針金は勾配をもってプレイフィールド上に突き出ており、この上を通過するボールによって押し下げられた針金は、プレイフィールド下にあるリーフスイッチ、もしくはマイクロスイッチに作用します。

 

突き出る針金は、ボールがレーンの双方向から来る可能性があるところでは山型もしくは円弧型を呈し、一方向からしか来る可能性がないレーンでは一直線に突き出すのみであることが多いですが、全部が山型であるケースもあります。

 

針金のスイッチは、変形、もしくは取り付けの不具合などで針金が十分に押し下がらず、ボールをせき止めてしまうトラブルがたまにありました。多くは台を揺すって衝撃を与えることで解決しましたが、なかなか解決しないため揺すりすぎてTILTペナルティを食らった経験も何度かあります。

 

少数ですが、ロールオーバー・レーンに、今回の本題で後述するロールオーバー・ボタンが採用されている例もあります。

 

▲ロールオーバー・レーンと針金のロールオーバー・スイッチの例。真ん中のレーンは下からボールが上ってくる可能性があるのでスイッチは山型だが、その左右のレーンはボールが上からしか来ないので、針金は山の頂点で切れる直線型になっている。

 

***************

◆ボタン型のロールオーバー・スイッチ

 

さて、いよいよ今回の本題であるボタン型ロールオーバー・スイッチです。このフィーチャー自体はピンボールにフリッパーが発明された直後の1940年代末頃の機械から見られますが、「ランプ・レーン」が幅を利かせるようになる1990年前後あたりから見かける機会が少なくなり、今では殆ど絶滅が危惧されるフィーチャーとなってしまっているように思います。

 

ボタンの形状や特徴には区別が可能な違いが何種類かあるのですが、それぞれに特定の名称があるわけではないようで、IPDBでも単に「ロールオーバー・ボタン」にまとめています(IPDBのピンボール用語集より「Rollover button」の項)。

 

・初期型ロールオーバー・ボタン

初期のロールオーバー・ボタンは、プレイフィールド上にあまり突き出ていないものだったようです。オランダのピンボール関連webサイト「Pinside」で、「Jerry Kelley

が発明したと述べられている『スムーズ・ナイロンボタン』とはこれのことかと思っているのですが(関連記事:ピンボールのアートワークの話(4):ジェリーとクリスのその他の仕事&資料・その2)、確証は得られていません。ボタンの周囲が照光タイプのインサート(プレイフィールドに埋め込まれる、透光性のあるプラスチック部品)で囲われているものも多いです。

 

このタイプは60年代までの特にWilliamsとGottliebの機械に多いように思います(Ballyは40年代末から55年まで、ビンゴ・ピンボール、もしくは類似のペイアウトのあるピンゲームばかり製造していた)。

 

▲「初期型」のロールオーバー・ボタン(矢印)。1950年代から使われ、70年代の早い時期の機械まで使用されていた。ワタシは上記関連記事で、「ボールがこの付近を通過するとボタン部分がプルプルと震えるが、スイッチが反応しているのかどうかがよくわからず、ワタシ個人としては歯がゆい印象を持った」と述べている。

 

・球冠型ロールオーバー・ボタン

「球冠」とは、平面で切り取った球の一部の形状のことで、ドーム型と言ってもよいと思います。このロールオーバー・ボタンは1950年代からのBallyの機械に多く見られます。ボタンの縁が低いので、ボールがボタン上に乗り上げることを妨げないようになっていますが、実際にはボールが完全に乗り上げずとも、ある程度押下されれば反応はしました。

 

▲球冠状のロールオーバー・ボタン。Ballyのマジック・スクリーン付きのビンゴ・ピンボール機でもお馴染みだった関連記事:「スキル・ボール」と「アポロ・ボール」の謎(2))。

 

・円柱型ロールオーバー・ボタン

初期型及び球冠状のロールオーバー・ボタンは次第にあまり見なくなり、代わりに、と言えるのかどうかわかりませんが、次に出てきたのは円柱型の、見るからにボタンらしいボタンでした。

この円柱型ボタン自体もいくつかに細分化できそうです。まず一つ目は単純な円柱形で、白色、もしくは黄色であることが多いです。

 

▲単純な円柱型のロールオーバー・ボタン。ここでは白色1個、黄色2個のロールオーバー・ボタンが見える。

 

次に、透明な円柱型のロールオーバー・ボタンです。このタイプは、たいてい(おそらく全て?)ボタン自体が照光し、ボールが踏むことで点灯、もしくは消灯して、フィーチャーの進行具合を表示する機能に使うことができました。

 

▲透明の円柱型のロールオーバー・ボタン。ボタン自体が照光する。

 

三つめは、ネット上のピンボール用パーツショップが「5/16インチ」と呼んでいるボタンです。径が小さく、ボールがちゃんと踏んでくれるのかと不安になりますが、結構踏むものです。あまり多用はされていなかったように思います。

 

▲横に円弧状に10個並ぶ、5/16インチの円柱型のロールオーバー・ボタン。この画像の上中央と右下に通常の円柱型のオールオーバー・ボタンが見えて、サイズの違いが比較できる。

 

・星型ロールオーバー・ボタン(スター・ロールオーバー)

最後は「スター・ロールオーバー(Star Rollover)」と呼ばれるボタンです。なぜかこればかりはIPDBも他のロールオーバー・ボタンとは区別して、固有の名称で呼んでいます。

 

スター・ロールオーバーのボタン本体(動作する部分)の形状は放射状で、インサートを兼ねる基部からプレイフィールド上に、周縁から中央に向かって高くなるように露出していて、「球冠型」の改良版とも言えそうです。1970年に登場し、当初はGottliebが多用していたように思います。

 

また、ATARIの初期のピンボール機は、このスター・ロールオーバーを針金のロールオーバー・スイッチの代わりにロールオーバー・レーンに採用しており、目新しいワイドボディに電子音と相まって、たいへん未来的に見えたものでした。

 

スター・ロールオーバーは基部が照光し、形も華やかなこともあるせいか、ロールオーバー・ボタンが珍しくなった昨今の機種でもたまに見かけることができます。

 

▲三連のスター・ロールオーバー。この機種の場合、踏むと通常は10点を獲得するだけだが、条件を満たし点灯させると100点獲得+ボーナス加算(1000点 or 2000点)になる。他のタイプのロールオーバー・ボタンではこのような使い方は少し苦しい。

 

並んで配置されているロールオーバー・ボタンをワンアクションで全部踏み潰した時はかなり気持ちの良いものだったのですが、今の機械ではその快感が得られる機種が見られなくなってしまって、マニアとしては寂しいことです。

 

▲この画像のように並んでいるロールオーバー・ボタンを、ワンアクションで全部踏ませるのは大変に気持ちの良いものだったのに・・・

 

(おわり)

 

スペインのゲーム機メーカー、SEGASA(Sonic)の歴史を綴った記事「La historia de Segasa Sonic」の抜粋と要約は前回で終了です。本連載の第1回目でも申し上げましたが、拙ブログではかなりの部分を割愛しておりますので、お時間がありましたら是非オリジナル記事もご参照いただければと思います(オリジナルはスペイン語で記述されていますので機械翻訳の環境をお勧めします)。

 

今回は本連載の締めくくりとして、長年の謎が判明した感動を忘れないように所感を記録しておこうと思います。

 

**********************

本連載の予告「【予告編】スペインのゲーム機メーカー「SEGASA」の話」で述べたことの繰り返しになりますが、ワタシがSEGASAを知ったのはおそらく1990年前後に入手していたフライヤーからでした。その時点では、日本のSEGAと似た名称であること、カンパニーロゴも古いSEGAのロゴと字体がそっくりな理由については全くの謎でした。

 

以来、ワタシのSEGASAの正体を探求する旅が始まるのですが、長い年月をかけてかろうじてわかったことと言えば、SEGASAは日本のSEGAの黒幕、マーティン(マーティ)・ブロムリーが立ち上げたことや、ATARIやWilliamsとも何らかの関係を持っていたなどくらいの僅かなものでした。それらの備忘録として、2020年8月に「【小ネタ】SEGASA (AKA Sonic)とSEGAの関係メモ」を残しましたが、以降それ以上の進展を見ることはありませんでした。

 

 

そこに先日、コインマシン業界の歴史を知る貴重な資料をかねてよりご提供くださっていたフレディ(関連記事:【続報】セガのMills機は海賊版などではなかった?)から、今回の連載の元ネタとなるweb記事をお知らせいただき、SEGASAの詳細が飛躍的に明らかになりました。そして、この情報を日本で紹介しても良いかと尋ねると、快く承諾してくださいました。本当にありがたいことです。

 

なお、本連載の本文はGoogle翻訳で出てきた日本文をベースにしているため、段落の切り取り方によって翻訳内容が変わったり、時々意味が分からなかったりすることがありました。

 

また、ワタシの従来からの理解とは異なる部分もありましたが、本連載ではプロダクトの製造年などを除き、情報の追加や改変は避け、必要と考えた場合は注釈で述べることにしています。

 

**********************

1970年代半ば以降からしばらくの間、スペインやイタリアなど欧州製のピンボール機の結構な数のタイトルが日本にも入ってきていることなどから、欧州にもアーケードゲームがあるらしいことは察せられました。しかし、日本では欧州のAM産業の情報はほとんど見聞する機会がなく、欧州での業態や社会での位置づけなどは全く不明で、同時にSEGASAの事業規模や地域的、世界的な業界への影響力についてもまるで想像が付きませんでした。

 

従って今回フレディから教えていただいた記事に書かれている内容は驚きの連続でした。SEGASAができる以前のスペインの様子まではわからないのは残念ですが、SEGASAがスペインのAM市場をリードする大手企業であったことがわかったのは大きな収穫でした。

 

収穫と言えば、ピンボール機でのWilliamsとの繋がりがSeeburg社を通じてのものだったこと(同時に、WilliamsがSeeburgの子会社であったことが確認できたこと)もそうでした。これによりSEGASAがWilliamsのピンボールをコピー/改変していた経緯が明らかになり、長年抱えていた心中の引っ掛かりが無くなりました。

 

**********************

SEGASAのピンボールでは、一つ強く印象に残っている機種があります。それは1978年にリリースされた「ハイ-アライ...(Jai-Alai...)」と言う機種です。ワタシはこの機種をリアルタイムで、おそらく新宿で見ています。女房に言わせればスポーツ観戦オタクのワタシは、その時点で「ハイ・アライ」というスポーツの存在自体は知っていました。手に付ける、「セスタ」と呼ばれる湾曲した珍妙な形のグラブを使って投げるボールの速度は、あらゆるスポーツの中で最も高速と言われています。当時のワタシは、この異国の珍しいスポーツに強い興味を持ったものでした。

 

▲SEGASAの「Jai-Alai...(1978)」のバックグラス。画像はIPDBより拝借

 

▲ハイ・アライで使用するセスタ。画像のオリジナルであるウィキペディアでは「システラ」としているが、これはバスク語、もしくはフランス語で、「セスタ」はスペイン語。

 

しかし、インターネットが発達した時代になってから、世界のピンボール機の詳細情報を網羅するウェブサイト「Internet Pinball DataBase (IPDB)」を知り、記憶に残る「ハイ・アライ」を調べてみたところ、実はWilliams1977年に「ハイ・アライ(Jai Alai)」というピンボール機を開発しようとしていたことを知りました。それによれば、Williamsのハイ・アライは、セスタをモチーフとする湾曲した新型フリッパーを備えるはずだったところ、ハイ・アライは知名度が低いとの理由でテーマの変更を迫られ、既に大量に発注していた新型フリッパーは「ディスコ・フィーバー(Disco Fever, 1978)」に流用せざるを得なかったとのことです。この特殊な新型フリッパーは「バナナ・フリッパー」と呼ばれ、翌1979年にリリースされた「タイム・ワープ(Time Warp)」にも再び採用されましたが、それを最後に以降採用されることはありませんでした。

 

▲「ディスコ・フィーバー(Williams, 1978)」で採用されたバナナ・フリッパー。この画像もIPDBより拝借。この形状が実はハイ・アライの「セスタ」に由来すると言われてみれば、おおいに納得できる。

 

 

ほぼ同時期に同じテーマ、同じタイトルのピンボール機がSEGASAとWilliamsの両社で作られていたのは果たして偶然でしょうか。1977年から1978年と言うと、SEGASAはSeeburgを通じて得ていたWilliamsのピンボール機のデザインの使用ライセンスを失っていたはずです(関連記事:スペインのゲーム機メーカー「SEGASA」の歴史(3):ピンボールメーカー(前編))。ひょっとして、Williamsの開発状況がSEGASAに流れていたという可能性はないでしょうか。そう思ってSEGASAの「ハイ-アライ...」と「ナイト・フィーバー」を見比べると、そのプレイフィールドの構成が僅かながら似ているように見えないこともありません。しかし、だとしても、SEGASAの「ハイ-アライ...」で採用されたフリッパーが通常の3インチであったことは、SEGASAとSeeburgの断絶を想像させるものです。

 

**********************

セガの黒幕(マーティン・ブロムリー)やWilliamsの親玉(Seeburg=ルイス・ニカストロ)の支配下にあって、早い段階ではエレメカ機とピンボールで、ビデオゲームの時代にはATARIの盟友となって、更には汎用筐体を開発して欧州のAM業界を牽引し、やがて独立はするものの結局は欧州の大手スロットマシンメーカーNovomaticに身売りしたSEGASA。それは、ワタシが想像していたよりもはるかに大規模で世界的にも大きな影響力を持っていた一大企業でした。

 

実は今回の連載中、ワタシなりに裏を取ろうといろいろ調べているうちに、SEGASAの初期からのメンバーで、晩期のCEOであるエドゥアルド・モラレス・エルモ(関連記事:スペインのゲーム機メーカー「SEGASA」の歴史(4):ピンボールメーカー 後編)のインタビュー記事を発見しました。それは2022年10月に公開されたもので、今回の連載の確認だけでなく、当事者ならではの情報もあり、理解を深める資料として大変貴重なものと思われます。こちらもいずれ機会を改めてご紹介したいと思いましたが、どうしてもすぐに知りたいという方は、「Interview: Eduardo Morales Hermo (CEO Sega S.A.)」を参照してください。記述は英語で少々長いですが、きっと満足できることと思います。

 

**********************

長々と続いた本連載も今回で終了です。今後も異なる立場の方からの異なる見解が出てくる可能性もありますが、それはそれとして、長年の謎が多少なりとも解明したことは全く嬉しいことです。この感動のために、今後も(ほとんどの人にはどうでもいい些末な)謎に関する情報を集めて行こうと思います。

 

(このシリーズ・終わり)

◆前回まで

Sonic(=SEGASA)は米国ATARI社のスペインでのパートナーとなるほか、TAITO、Exidy、Midwayなどのビデオゲームをライセンス生産した。しかし、70年代後半には不況やスペインにおけるギャンブルの合法化によりビデオゲームを含むAM機市場は衰退していった。

 

そんな中、タイトーの『スペースインベーダー』が大ヒットし、これに牽引されビデオゲーム市場は劇的な復活を遂げた。Sonicはこの潮流を逃すまいと生産体制をビデオゲームへ大きくシフトして、この分野での地位を再確立した。

 

*******************

・(ビデオゲーム人気は復活したが)それまでのビデオゲームは専用の筐体に入った形で供給されており、新しい機種に入れ換える際には筐体ごと購入しなければならなかった。多くの業者は新しいゲームに合わせてマザーボードを改造し、ゲームのメモリを交換するなどの変更を加えた。これは最も安価な選択肢だったが、改造によるパフォーマンスの低下を招いた。

 

・Sonicはこの課題に対するソリューションとして、1983年から独自の汎用筐体であるVideo SonicSuper Videoを発売した。

 

 

▲ソニックが発売した汎用筐体のフライヤー(上)と、汎用筐体「ビデオソニック」の傍らに立つ、SEGASA設立以来長く重役を務めていたエドゥアルド・モラレス(下)。

 

・この象徴的な筐体により、オペレーターは新しい筐体を購入せずとも、ゲームボードを交換するだけ(1)で新しいゲームを導入することが可能になった。これは単なる利便性だけでなく、設置場所を変更するだけでさえ届出を要する法律上の決まりに対して、書類手続きなしでゲームが交換できるという大きな法的メリットもあった。

 

・Sonicは、Video Sonic(および後のSuper Video)筐体向け専用のマーキーやベゼルなどの装飾パーツをセットにした「コンバージョンキット」の販売を開始した。「魔界村」、「カンフーマスター(スパルタンX)」、「スーパーマリオブラザーズ VS.」といったゲームが発売されていた時代のこれらのボードは、ライセンスを取得して合法的に登録されており、当時蔓延していた海賊版よりもはるかに優れたものだった。

 

 

 

▲「カンフーマスター(スパルタンX)(Irem, 1984)」と「魔界村(CAPCOM, 1985)」の筐体画像と、「VS. SYSTEM VS.」の広告。なお、オリジナル記事ではこれらの画像にキャプションがついておらず、カッコ内はオリジナルのメーカーと発売年。

 

・汎用筐体の流行が進む中、Sonic は 「GAUNTLET(ATARI, 1985)」 や 「Super Sprint(ATARI, 1986)」 などの専用キャビネットを要するゲームや、任天堂の VS. Video のような「奇抜な」ゲーム向けに、専用キャビネットの販売も続けた。

 

 

▲上から、Sonicが頒布したGAUNTLETのフライヤー、Super Sprintのフライヤー、それにVSビデオシステムのフライヤー。

 

1986年のスペインの欧州連合加盟とアーケードシミュレーターの複雑化により、1990年代初頭以降は専用機の直接輸入が主流となり、Sonicブランドのステッカーを貼るだけで認証されるケースも少なくなかった。これは大型ショッピングモールのアーケードに恩恵をもたらしたが、Sonicがパイオニアとして築き上げてきた汎用筐体と改造キットの現地生産という伝統的なモデルを弱体化させた(注2)。この時代は、デイトナUSAリッジレーサーといった著名なシミュレーターや、セガのバーチャファイターといった高級機が登場した時代だった。

 

▲バーチャファイターの筐体画像。この筐体にSonicのロゴは見られないが、Sonicが扱ったものなのだろうか。

 

1994年、エドゥアルド・モラレスはマーティン・ブロムリーと創業者からソニックの株式100%を取得した。ブロムリーと創業者は製造業から撤退し、製造よりも事業運営に注力していた。その後、彼らはビデオゲームのマーケティングを放棄し、スロットマシンに注力した。

 

▲Sonicのスロットマシン「Double Diamond」(上)と「Diamond King」(下)のフライヤー。

 

2002年のユーロ導入は、価格競争の激化と需要の冷え込みにより、Sonic社を含むスペインのコインマシン業界全体に深刻な影響を与えた。2002年4月、ソニック社はマドリード裁判所に破産を申請した。

 

・エデュアルド・モラレス・エルモは2004年まで同社に留まったが、最終的に会社を清算し、資産をオーストリアのNovomatic社3)に売却した。Sonic社の正式な解散は2016年だが、2005年には操業を停止していた。こうして、37年以上の歴史を経て、スペインコインマシン業界における最も重要なメーカーの一つが姿を消した。

 

次回(最終回)につづく

*****************

注1・ゲームボードを交換するだけ: 1980年代初頭に「システム基板」という概念が発生し、ゲームの販売は従来の筐体売りから、基板、またはゲームソフト部分のみのROMで売られる形態が主流になり、汎用筐体は時代の要請でもあった。ライセンスを受けたビデオゲームをスペインで製造していたSEGASA(Sonic)がシステム基板まで自家製造していたかどうかは不明だが、少なくとも基板の交換だけで他のゲームにスイッチできる筐体ではあったはず。しかし、基板と筐体とのインターフェースの問題もあるので、思うほど簡単なことではなかったのではなかろうか。

 

注2・弱体化させた: 1986年にSonicが再びピンボールに戻った(関連記事:スペインのゲーム機メーカー「SEGASA」の歴史(4):ピンボールメーカー 後編)のは、これがきっかけの一つになっているのかもしれない。

 

注3・Novomatic社:1980年にオーストリアにて創業されたスロットマシンメーカー。現在も約2万人の従業員を抱える世界でも屈指の大手で、毎年ラスベガスで開催される業界の見本市Global Gaming Expo(G2E)でも毎回大きなブースで出展している。

▲昨年のG2EでのNovomatic社のブース。IGT、Aristocrat、Light And Wonder他の大手に引けを取らぬ規模で毎年出展している。今年も同規模のブースを出展しているが、良い写真が無かったので昨年のものを使用。

 

◆前回まで

米国ATARI社は国際展開する戦略の一環として、スペインではSEGASAをパートナーに選んだ。これにより、SEGASAはスペインにおけるコインマシンの製造および販売に関する独占ライセンス契約を1973年に締結したものと推測される。SEGASAはその最初に、ATARIの子会社であるKEE GAMESが開発した「Elimination」を「Eliminator Goal Game」という名前で 1974 年 1 月 15 日に実用新案として申請した。

 

*******************

・(Eliminationに続き)SEGASAはATARIのドライビングゲーム「Gran Trak 10」や「Le Mans」など、ATARIの初期のヒット作のいくつかをスペインで制作し、販売した。

 

 

▲ATARIの「Le Man」(1977)の実機(上)と、実用新案のドキュメント(下)。

 

・SEGASAはそれだけでなく、TAITO社の「Speed Race(1974)」、Exidy社の「Destruction Derby(1975)」(1)、Midway社の「Gun Fight(1975)」(2)などもリリースしている。

 

 

 

▲上からSpeed Race、Destruction Derby、Gun Fightの実用新案のドキュメント。Speed RaceとGun Fightのゲーム画面の図は、実際のゲームと大きく異なっている。

 

1975年末、SEGASA工場の労働者は労働条件と賃金の改善を要求したが、会社はこれを無視し、多数の従業員に解雇通知を送付したため、甚大な社内労働争議に発展した。このような紛争はSEGASAのみで発生したのではなく、マドリード州におけるより広範な労働争議の一部だった。マドリード州では他の企業も、主に賃金引き上げやその他の改善要求を理由に労働争議を経験していた。SEGASA経営陣は「影響を受けるすべての生産者」を解雇した。

 

・(ピンボール機がそうであったように)ビデオゲームは、スペインでのギャンブル機の合法化とスペインの経済危機により衰退していったが、1978年から1979年にかけて、ビデオゲーム市場はTAITOの「Space Invader」の大ヒットに牽引され、劇的な復活を遂げた。この有望な新潮流に直面し、Sonicは生産体制をビデオゲーム機へと大きく転換した。そしてタイトーのライセンスタイトルをスペインにいち早く導入し、「Space Invader」は1979年9月注3)に開始された最初の大型事業となった。

 

▲Sonicが発売したSpace Invaderの実機(提供:Recreativas.org)。飾りガラスの左上に「Sonic」のロゴが見える。

 

・これに続き、ATARI製の AsteroidsLunar LanderBattlezone他、Namco製の GalaxianPac-Man、さらにGremlin/SEGA製の Head-On などのライセンスを受けた大ヒット作が続き、この分野でのSonicの地位が再確立された。

 

▲左から、Sonicが販売したATARIのAsteroid(1980)の実機、同じくBattle Zone(1981)の実機、それにLunar Lander(1979)の実用新案のドキュメント(機種名の後のカッコ内はSonicがリリースした年)。実機のマーキー部分にSonicのロゴが見える。

 

▲左から、同じくSonicが販売したNacmoのPAC-MAN(1980)の実機と、Gremlin/SEGAのHEAD ON(1980)の実機(機種名の後のカッコ内はSonicがリリースした年)。

 

・この時期、Sonicはライセンスやオリジナル部品を使用することで、高い品質を誇るマシンを製造していた。オリジナルメーカーと同じ基板を使用し、自社製の筐体に美しい仕上げと、オリジナル筐体に忠実なデザインで組み立てていた。これにより、スペイン国内での販売だけでなく、フランスやドイツといった国々への輸出も可能になった。

 

・80年代初期の「黄金時代」を代表するゲームとしては、「Jungle King(Taito, 1982)」、「Missile Command(ATARI, 1980)、「Deep Scan(SEGA, 1979)」、「Phoenix」(TAITO, 1980)」、「Pole Position(Namco, 1982)」のようなシミュレーターや、「Dragon’s Lair(Cinematronics, 1983)」のようなレーザーディスクの名作などが挙げられる。

 

▲Sonicが販売したJungle King(1982)、Missile Command(1981)の実機(機種名の後のカッコ内はSEGASAがリリースした年)。

 

▲Sonicが販売したDeep Scan(1979)とNichibutsuのCrazy Climber(1981)の実機(機種名の後のカッコ内はSEGASAがリリースした年)。

 

▲Sonicが販売したPhoenix(1981年)とAstro Fighter(1980年)の実機(機種名の後のカッコ内はSEGASAがリリースした年)。

 

・この段階では、ゲームの ROM のテキストもスペイン語に翻訳されていた。最も代表的な例は、ロボットの音声がスペイン語だった Stern Electronics の 「Berzerk (1981) 」である。

 

▲Sonicが販売したBerzerkの実機。本文では発売年を1981年としているが、オリジナルが発売されたのは1980年。

 

*****************

注1・Destruction Derby:画面上の車を操作して、NPCの車型の標的にぶつけるゲーム。車型ではなく、人型の標的(設定としては人間ではなくグレムリン)にぶつけて殺す「Death Race」の原型となった。Exidy社はChicago Coin社にDestruction Derbyの独占製造権を売却し、Cicago Coinは「Demolition Derby」として製造販売したが、Chicago Coin社が経営破綻したため、Exidyは若干の手直しをして「Death Race」にリメイクした。これはヒットしたが、「暴力を助長する」として社会問題になった(関連記事:【小ネタ】デス・レース 社会から非難を浴びた殺人ゲーム)。

 

注2・Gun Fight1975:TAITOの「Western Gun (1975)」の許諾品と聞くが、裏は取っていない。一説には商用ビデオゲームで初めてCPUを使用したとの言説もある(関連記事:CPUを初めて使った? CRASH COURSE(SEGA, 1977))が、これも真偽は判明していない。

 

注3・1979年9月:日本でSpace Invaderが発売されたのは前年1978年の8月、ブームとなるのは年末に近いころで、すぐにヒットはしたが、広く社会の関心を集めるようになったのは年が明けてからだったように記憶している。

 

(後編に続く)

Alca Electronics社は、1967年11月英国に設立されたコインマシンメーカーで、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、主にセガのマシンを、ライセンスを取ることなくより低価格でより洗練された非正規品として製造することで英国の業界に確固たる地位を築いた。

 

▲Alca Electronics社のカンパニーロゴ。

 

・SEGASAの親会社であるClub Specialty Overseas1)は、1972年4月にAlcaの過半数株式を取得(2)し、Michael Greenをマネージング・ディレクターに任命した。この資本注入により同社は成長を遂げ、10月にはマンチェスター郊外に巨大な工場を開設した。

 

・ATARIの創設者Nolan Bushnell3)は1972年10月に開催されたMOA '72(Music Operators Association)エキスポでビデオゲーム「Pong」を発表し、業界人の多くが興味を示した。Williams社は1973年2月にPongのクローンであるPaddle-Ballを発売し、このことを知ったSam Stern4)はMichael Greenに、「数ヶ月以内に米国のすべてのメーカーが同様のゲームを搭載したゲーム機を製造するだろう」と語り、AlcaにPongへの関心を促した。

 

▲Paddle Ball(Williams, 1973)のフライヤー。

 

・このゲームの可能性に気づいたMichael Greenは思い切ってアメリカへ飛び、Paddle BallのPCBを、1台150ドルで300台、合計4万5000ドルで購入した。

 

1973年4月、Alca社は英国で「Ping Pong」を発売した。これは英国で初めて作られたビデオゲームであり、その後登場し始めた多くのATARI・Pongのクローンの一つだった。このマシンはWilliamsのPCB を搭載していた。

 

▲Alca・Ping Pong(1973)のフライヤー(提供:ニック・コスタ・アーカイブ)

 

・その後間もなくの1973 年 4 月、SEGASAとAlca(両社ともブロムリーが会長)は、World Wide Distributors社5)と共同で世界配給契約を締結した。

 

▲米国Cash Box誌1973年4月28日の記事6)。

 

 両社との親密さと共通の接点を考えれば、SEGASAがスペイン市場向けにAlcaからライセンスを受けたPing Pongの自社バージョンをほぼ同時に特許取得し、製造していたことから、両社が多大な影響力を持っていたことは明らかだ。

 

▲SEGASAのPing Pong(1973)のフライヤー。Williamsの「Paddle Ball」の体裁をそっくりパクっているが、筐体は写真ではなくイラストになっている。

 

・このゲーム機は英国版と同じくウィリアムズ社製のPCBを使用していたが、ブラウン管の供給元であるミニワット社製のCRTテレビを搭載しており、当時の一般的なエレメカゲームやピンボールマシンよりも高価だった。しかしその斬新さゆえに、販売店や運営業者の間で急速に需要が高まった。

 

・Pongの成功は、世界各国と同様に、スペインの他の大手ゲームメーカーによる模倣の波を引き起こした。しかしほとんどのメーカーには純粋な電子式マシンを製造するための設備とリソースが不足しており、大きな課題を伴っていた。1973年から1974年にかけて、Petaco、Famaresa、 Centromatic、それにEuromaticの各社は、それぞれ独自にライセンスまたはコピーされたデザインに基づいてPongの製造を開始した。それらは国内で製造されたものもあったが、輸入品もあった。スペインは関税が高かったため、これらの機種は現地生産品に比べて競争力が低く、当時の価格は数十万ペセタにも達したが、これらのマシンは莫大な収益を生み出すはずだったので、多くの事業者にとってこの価格は問題ではなかったはずだ。

 

・スペインのアーケード業界は革新性及び他のゲームを模倣する能力の欠如により、Pong型ゲームの人気は一時的な流行に過ぎず、その斬新さは薄れ始めたため、多くの企業はピンボールなどの電気機械式ゲームの開発に再び注力し、スペインのバーなどの娯楽施設や飲食店では依然として人気を博した。

 

・ただしPetaco社のように、モジュール式のハードウェアを用いて「The Wall」というタイトルのPongの縦型バージョンを開発したところもあった。1975年に発売されたこのゲームはスペインで初めて開発されたアーケード用ビデオゲームと考えられている。

 

▲The Wall (Petaco, 1975)のフライヤー(提供:ニック・コスタ・アーカイブ)

 

・ATARIの創業者Nolan Bushnellは、1973年半ばに同社の国際的なプレゼンスを強化することを決意し、同年7月、英国にATARIの子会社であるAtari UK Ltd.を設立するとともに、この戦略の一環として、SEGASAをアタリの最初の国際販売パートナーの一つに選んだ。SEGASAが既に確立した地位とコインマシン分野での強力な国際的ネットワークを考慮すると、ATARIとSEGASAはスペインにおけるコインマシンの製造および販売に関する独占ライセンス契約を締結したと考えられる。この契約は1973年に締結されたと推定される。その最初の兆候の 1 つは、SEGASAが「Elimination」 (Atari の子会社である Kee Games が開発) 用に「Eliminator Goal Game」という名前で 1974 年 1 月 15 日に申請した実用新案である。

 

 

▲Elimination(Kee Games, 1973)のフライヤー(上)と、「Eliminator Goal Game」の実用新案(ES199504U)のドキュメント(下)。このマシンの現存する記録はないが、この文書はSEGASAが既にATARIとライセンス契約を結んでいたことを示唆している。

 

・さらに、Nolan Bushnellは1974年7月3日に、Magnabox社対Bally社の訴訟において、SEGASAにマシンを販売したと証言した記録も保有している。

 

▲Magnabox社対Bally社の訴訟におけるNolan Bushnellの陳述。どこの誰に売ったかとの問いに対し、「スペインのSEGASA」と答えている。

 

▲CashBox 1975年7月5日号Vol. XXXVII掲載のATARIの広告。Atariの正規代理店および製造業者リストに「Spain *Sega SA」とある(この画像の中央最上段)。

 

(つづく)

*****************

注1・Club Specialty Overseas:拙ブログでもたびたび言及してきたマーティン(マーティ)・ブロムリーが世界的なAM機の製造販売のシンジケートを構築した際にその中枢としたパナマの企業。SEGASAはその子会社であり、また日本のセガもシンジケートの一員だった。(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1) まずは過去記事から概説)。

 

注2・Alcaの過半数株式を取得:これ以前にAlcaが無断でSEGAのコピーを製造・販売した件の始末については原文には述べられていない。想像するに、ブロムリーとしては既に確固たる地位を築いたAlcaとケンカするより取り込んでしまった方が益が大きいと踏んだのだろうか。

 

注3・Nolan Bushnell: 言わずと知れた米国ATARI社の創始者。

 

注4・Sam Stern: 1930年代から業界で活躍したピンボール界のキーパーソン。息子のGaryもまたピンボール界で長く活躍しており、現在はStern Pinball社の社長を務めている。

 

注5・World Wide Distributors:Club Specialty Overseasが頒布するフライヤーにもこの名前が表記されているものがあるが、ワタシはこれを社名とは認識せず、単に「世界をカバーするディストリビューター」と標榜しているに過ぎないものと思っていた。

 

▲「World-Wide Distributor」と記述されているフライヤーの例。これがWorld Wide Distributors社を意味しているのだろうか。

 

注6・Cash Box誌1973年4月28日の記事:この記事では、日本のセガ・エンタープライゼスとWold Wide Distributors社が主語となっている。ブロムリーは1968年に株を米国のコングロマリットに売却しており、この時期には日本のセガの経営には直接関与していなかったのではないか。Cash Box誌はその2か月ちょっと後の1973年6月9日号で、「以前のセガはClub Specialty Overseas(原文では「Club Specialty Sales」としている)を介して販売していたが5月31日付で海外の販売代理店と直接取引を開始した」と報じており、これと関係するものと思われるが、いったいこの時点のSEGASA(ブロムリー)と日本のセガの関係はどうなっていたのか。非常に混乱している。

 

▲1973年6月9日号のCash Boxの記事。セガが5月31日より海外の販売代理店と直接取引を開始したことを報じている(マーカー部分)。