・Alca Electronics 社は、1967年11月 に英国 に設立されたコインマシンメーカーで、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、主にセガ のマシンを、ライセンスを取ることなくより低価格でより洗練された非正規品として製造することで英国の業界に確固たる地位を築いた。
▲Alca Electronics社のカンパニーロゴ。
・SEGASAの親会社であるClub Specialty Overseas (注 1 )は、1972年4月にAlcaの過半数株式を取得(注 2 )し、Michael Greenをマネージング・ディレクターに任命した。この資本注入により同社は成長を遂げ、10月にはマンチェスター郊外に巨大な工場を開設した。
・ATARIの創設者Nolan Bushnell (注 3 )は1972年 10月に開催されたMOA '72(Music Operators Association)エキスポでビデオゲーム「Pong 」を発表し、業界人の多くが興味を示した。Williams社は1973年2月 にPongのクローンであるPaddle-Ball を発売し、このことを知ったSam Stern (注 4 )はMichael Greenに、「数ヶ月以内に米国のすべてのメーカーが同様のゲームを搭載したゲーム機を製造するだろう」と語り、AlcaにPongへの関心を促した。
▲Paddle Ball(Williams, 1973)のフライヤー。
・このゲームの可能性に気づいたMichael Greenは思い切ってアメリカへ飛び、Paddle BallのPCBを、1台150ドルで300台、合計4万5000ドルで購入した。
・1973年4月 、Alca社は英国で「Ping Pong 」を発売した。これは英国で初めて作られたビデオゲーム であり、その後登場し始めた多くのATARI・Pongのクローンの一つだった。このマシンはWilliamsのPCB を搭載していた。
▲Alca・Ping Pong(1973)のフライヤー(提供:ニック・コスタ・アーカイブ)
・その後間もなくの1973 年 4 月、SEGASAとAlca(両社ともブロムリーが会長 )は、World Wide Distributors社 (注 5 )と共同で世界配給契約を締結した。
▲米国Cash Box誌1973年4月28日の記事 (注 6 )。
両社との親密さと共通の接点を考えれば、SEGASAがスペイン市場向けにAlcaからライセンスを受けたPing Pongの自社バージョンをほぼ同時に特許取得し、製造していたことから、両社が多大な影響力を持っていたことは明らかだ。
▲SEGASAのPing Pong(1973)のフライヤー。Williamsの「Paddle Ball」の体裁をそっくりパクっているが、筐体は写真ではなくイラストになっている。
・このゲーム機は英国版と同じくウィリアムズ社製のPCBを使用していたが、ブラウン管の供給元であるミニワット社製のCRTテレビを搭載しており、当時の一般的なエレメカゲームやピンボールマシンよりも高価だった。しかしその斬新さゆえに、販売店や運営業者の間で急速に需要が高まった。
・Pongの成功は、世界各国と同様に、スペインの他の大手ゲームメーカーによる模倣の波を引き起こした。しかしほとんどのメーカーには純粋な電子式マシンを製造するための設備とリソースが不足しており、大きな課題を伴っていた。1973年から1974年にかけて、Petaco、Famaresa、 Centromatic、それにEuromaticの各社は、それぞれ独自にライセンスまたはコピーされたデザインに基づいてPongの製造を開始した。それらは国内で製造されたものもあったが、輸入品もあった。スペインは関税が高かったため、これらの機種は現地生産品に比べて競争力が低く、当時の価格は数十万ペセタにも達したが、これらのマシンは莫大な収益を生み出すはずだったので、多くの事業者にとってこの価格は問題ではなかったはずだ。
・スペインのアーケード業界は革新性及び他のゲームを模倣する能力の欠如により、Pong型ゲームの人気は一時的な流行に過ぎず、その斬新さは薄れ始めたため、多くの企業はピンボールなどの電気機械式ゲームの開発に再び注力し、スペインのバーなどの娯楽施設や飲食店では依然として人気を博した。
・ただしPetaco社のように、モジュール式のハードウェアを用いて「The Wall 」というタイトルのPongの縦型バージョンを開発したところもあった。1975年に発売されたこのゲームはスペインで初めて開発されたアーケード用ビデオゲームと考えられている。
▲The Wall (Petaco, 1975)のフライヤー(提供:ニック・コスタ・アーカイブ)
・ATARIの創業者Nolan Bushnellは、1973年半ば に同社の国際的なプレゼンスを強化することを決意し、同年7月、英国にATARIの子会社であるAtari UK Ltd. を設立するとともに、この戦略の一環として、SEGASAをアタリの最初の国際販売パートナーの一つに選んだ 。SEGASAが既に確立した地位とコインマシン分野での強力な国際的ネットワークを考慮すると、ATARIとSEGASAはスペインにおけるコインマシンの製造および販売に関する独占ライセンス契約を締結したと考えられる。この契約は1973年に締結されたと推定される。その最初の兆候の 1 つは、SEGASAが「Elimination」 (Atari の子会社である Kee Games が開発) 用に「Eliminator Goal Game 」という名前で 1974 年 1 月 15 日に申請した実用新案である。
▲Elimination(Kee Games, 1973)のフライヤー(上)と、「Eliminator Goal Game」の実用新案(ES199504U)のドキュメント(下)。このマシンの現存する記録はないが、この文書はSEGASAが既にATARIとライセンス契約を結んでいたことを示唆している。
・さらに、Nolan Bushnellは1974年7月3日に、Magnabox社対Bally社の訴訟において、SEGASAにマシンを販売したと証言した記録も保有している。
▲Magnabox社対Bally社の訴訟におけるNolan Bushnellの陳述。どこの誰に売ったかとの問いに対し、「スペインのSEGASA」と答えている。
▲CashBox 1975年7月5日号Vol. XXXVII掲載のATARIの広告。Atariの正規代理店および製造業者リストに「Spain *Sega SA」とある(この画像の中央最上段)。
(つづく)
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注1・Club Specialty Overseas :拙ブログでもたびたび言及してきたマーティン(マーティ)・ブロムリーが世界的なAM機の製造販売のシンジケートを構築した際にその中枢としたパナマの企業。SEGASAはその子会社であり、また日本のセガもシンジケートの一員だった。(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1) まずは過去記事から概説 )。
注2・Alca の過半数株式を取得 :これ以前にAlcaが無断でSEGAのコピーを製造・販売した件の始末については原文には述べられていない。想像するに、ブロムリーとしては既に確固たる地位を築いたAlcaとケンカするより取り込んでしまった方が益が大きいと踏んだのだろうか。
注3・Nolan Bushnell : 言わずと知れた米国ATARI社の創始者。
注4・Sam Stern : 1930年代から業界で活躍したピンボール界のキーパーソン。息子のGaryもまたピンボール界で長く活躍しており、現在はStern Pinball社の社長を務めている。
注5・World Wide Distributors 社 :Club Specialty Overseasが頒布するフライヤーにもこの名前が表記されているものがあるが、ワタシはこれを社名とは認識せず、単に「世界をカバーするディストリビューター」と標榜しているに過ぎないものと思っていた。
▲「World-Wide Distributor」と記述されているフライヤーの例。これがWorld Wide Distributors社を意味しているのだろうか。
注6・Cash Box誌1973年4月28日の記事 :この記事では、日本のセガ・エンタープライゼスとWold Wide Distributors社が主語となっている。ブロムリーは1968年に株を米国のコングロマリットに売却しており、この時期には日本のセガの経営には直接関与していなかったのではないか。Cash Box誌はその2か月ちょっと後の1973年6月9日号で、「以前のセガはClub Specialty Overseas(原文では「Club Specialty Sales」としている)を介して販売していたが5月31日付で海外の販売代理店と直接取引を開始した」と報じており、これと関係するものと思われるが、いったいこの時点のSEGASA(ブロムリー)と日本のセガの関係はどうなっていたのか。非常に混乱している。
▲1973年6月9日号のCash Boxの記事。セガが5月31日より海外の販売代理店と直接取引を開始したことを報じている(マーカー部分)。